『反核ゼミ』24
原爆投下(その5)
長崎への原爆投下
原爆を「新型爆弾」
日本政府は、広島がそれまでの空襲被害とはまったく異質の壊滅状態になったという報告を8月6日の午後には受けていました。翌朝未明には、トルーマン米大統領の声明を傍受して、広島に投下された爆弾が原爆であることを知りました。これを確認するために、政府は、理化学研究所の物理学者仁科芳雄博士ら科学者を広島に派遣しました。また、陸軍と海軍は、科学者や専門家の調査団を編成して派遣し、調査にあたらせました。この調査結果に基づいて原爆投下を確認した日本政府は、8月10日、アメリカに対して、原爆投下は国際法に反すると抗議しました。その一方で、戦争継続のため、戦意喪失をおそれて、原爆を「新型爆弾」と称して、原爆被害の深刻さを日本国民には知らせない方針をとりました。こうした日本政府の対応の間に、2発目の原爆が長崎に投下されました。
原爆確認後も国体護持に固執
8月8日、昭和天皇は東郷茂徳外相に、速やかに終戦の措置を講ずるようにと意思表示をしました。東郷外相は、ソ連の調停によって終戦を迎えるという従来の日本政府の方針に従って、佐藤尚武駐ソ大使にモロトフソ連外相との会見を指示しました。原爆についてすでに知らされていたソ連のスターリン首相は、アメリカが日本の都市を原爆で破壊したニュースを受け取ると、ヤルタ協定の約束であった日本に対する戦争の開始をはやめました。8日の夕刻、モロトフ外相は佐藤大使に、翌日8月9日には、ソ連は日本と戦争状態になると告げました。9日の午前1時過ぎにソ連軍は中国東北部満州国境を越えて進撃を開始しました。アメリカとの交渉をソ連の仲介で行う道を閉ざされ、9日夜遅くから、「御前会議」=最高戦争指導会議が宮中の防空壕で開かれました。ようやく翌朝になって、「天皇ノ国家統治ノ大権ニ変更ヲ加ウル要求ヲ(ポツダム宣言が)包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ」降伏を申し出る決定が下されました。原爆を投下した後のアメリカは「天皇の権限が連合軍最高司令官に隷属するものである」と、暗黙に天皇の地位の継続を認めた回答をしました。日本はこれを8月14日に受諾しました。
急いで投下されたファットマン
広島へのウラン原爆投下と並行して、テニアン島では、爆縮型のプルトニウム原爆ファットマンが組み立てられていました。当初ファットマンの投下は8月11日に予定されていました。しかし、天候が8月9日は好天であるがその後の5日間は悪天候になるという天気予報のため、総力を挙げて組み立て完成を2日早めることになりました。
8月8日の夜遅く、ファットマンを爆弾倉に搭載したB29爆撃機ボックス・カーは、翌9日の日本時間午前3時前、主目標、今の北九州市小倉をめざして飛び立ちました。偵察機は小倉上空の低空の雲量は3割の晴れと報告してきましたが、10時44分にボックス・カーが小倉上空に到着したとき、地表は霞と煙で覆われていて、再度接近しても目標地点の兵器廠と小倉市中心部はまったく見えませんでした。
小倉にかわって長崎
操縦士のC・スウィーニー海軍少佐と爆撃手のF・アッシュワース海軍中佐は、爆弾をそのまま持ち帰るのも海に落とすのも意味がないと判断して予備目標の長崎に向かいました。
沖縄に緊急着陸して給油する前に、長崎の上空を1回通過するだけの燃料は残っていました。長崎も曇っていましたが、瞬間、雲間から目標より2?3�`�b北の競技場が目視されたので、ファットマンを投下しました。11時2分、競技場の北東約300�bの上空約500�bでプルトニウム原爆が爆発しました。
歴史学者マーティン・シャーウインは彼の著者『破破滅への道程』において「最初の大破壊からわずか3日後に続いて加えられたこの第2の大破壊は、日本の降伏の決断にどのような影響を与えたのであったろうか。広島のショック、さらにはソ連の対日宣戦布告のショックとその意味を、日本の指導者たちがまだ理解できずにいる間に、続いて長崎が破壊された事実が、この問に対する正確な解答を引き出すことを不可能にしてしまった。大危機が、短時間の間に次から次へと発生したために、それぞれの危機の持つ意味は不明確なものとなってしまったのである」と書いています。
火薬2万2千トン分の放出エネルギー
地上約500メートルで、爆縮式原爆「ファットマン」のプルトニウム・コア(芯)を囲むように配置された火薬が同時に点火されました。火薬の爆発は周辺部から中心部に向かい、コアのプルトニウムが圧縮されて、プルトニウム239の核分裂の臨界状態に達しました。100万分の1秒以内に核分裂の連鎖反応が起こって広島原爆を上回る、高性能火薬TNT2万2千�d分のエネルギーを瞬時に放出しました。熱線、衝撃波と爆風、放射線の影響は、広島原爆よりも広い範囲に及びました。長崎の場合は、市の中心部より北に外れて爆発し、山が接近していたために極めて複雑な被爆の状況がつくり出されました。
原爆の熱線の影響
原爆の「火球」から放出された熱線がもっとも人体に強い影響を与えたのは爆発後0・2秒から0・5秒の間でした。原爆の熱線による射熱傷を第1次原爆熱傷といい、これに対し原爆の熱線が家屋に火災を起こし、あるいは衣服を燃やして受ける熱傷を第2次原爆熱傷と呼んでいます。この第1次原爆熱傷によってどのような熱傷を引き起こすかを表にまとめてみました(11面に掲載)。
表面が炭のようになる5度の熱傷は、長崎では爆心地から1450�bの距離におよびました。爆心地ではその10倍以上の1平方�a�b当たり222�iの熱線を受けました。太陽光線によって0・3秒間に1平方�a�b当たり受ける熱量は0・007�iですから、その数万倍の熱線をあびたことになります。この熱線量では、皮膚のすべての層が焼き尽くされるばかりか、内臓の組織および臓器までもかなりの熱傷害を受けるようになります。爆心地付近では、小さな子供の場合黒こげになり、内蔵も水分が蒸発して、小さな黒い炭の塊のようになりました。
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