第6回 英国生まれの広島原爆の原理
アインシュタインの手紙を受けて発足した「ウラン諮問委員会」の報告書がルーズベルト大統領のファイルに眠っていた1939年の秋からの2年の間に、ウランの核分裂に関する理解は急速に発展しました。
天然ウランの大部分を占めるウラン238の原子核は低速中性子を吸収すると質量数が一つ増えたウラン239の原子核になります。この原子核は、半減期23分でベータ崩壊し、原子番号が一つ大きい93番目の元素の原子核になることが確かめられました。自然界にある一番大きい原子番号の元素は92番のウランで、93番より大きい原子番号の元素は「超ウラン元素」とよばれる人工元素です。93番目の「超ウラン元素」はネプツニウムと名付けられました。このネプツニウム239は、2日と7時間の半減期でベータ崩壊して、原子番号94の超ウラン元素になることが突き止められました。この超ウラン元素はプルトニウムと名付けられました。
プルトニウム239の原子核( Pu)は、中性子を吸収して核分裂する確率がウラン235より大きく、原爆物質となる可能性がわかってきました。これが長崎に投下されたプルトニウム原爆につながりました。
広島に投下されたウラン原爆の原理はイギリスで生まれました。ウランの核分裂を最初に指摘したオットー・フリッシュがイギリスのバーミンガム大学にナチスから逃れてやってくると、そこにはドイツから帰化していた理論物理学者のルドルフ・パイエルスがいました。フリッシュとパイエルスは、ウランが核分裂の連鎖反応を起こす臨界量を求める計算をしました。
ウランの核分裂の連鎖反応は(a)ウラン238に高速中性子を衝突させた場合、(b)ウラン235に低速中性子を衝突させた場合、(c)ウラン235に高速中性子を衝突させた場合の3つの場合に起こる可能性があります。ウラン238に低速中性子を衝突させ中性子を吸収させても核分裂しません。
(a)の場合は天然ウランとほとんど同じですが、臨界量は数トン以上となって、飛行機に積める爆弾とするには重すぎました。
(b)の場合は、ウランの核分裂で生ずる高速中性子を低速にするために、黒鉛や重水のような減速材を用いなければならないのでかさばります。さらい、低速中性子がウラン235の原子核に吸収されて次の核分裂を起こすまでに百分の1秒から千分の1秒の時間がかかります。これだけ時間がかかると、連鎖反応で生じたエネルギーによってウランの塊が膨張したり、蒸発したりして、連鎖反応が十分に継続する前に途中でストップし、普通の爆薬の爆発程度にしかなりません。
唯一、ウラン原爆になりうるのは、(c)の場合です。フリッシュがパイエルスの式で計算すると臨界量は約1�`�cになりました。ウラン1�`�cはゴルフボールの大きさです。フリッシュとパイエルスは予想以上に小さい臨界量になったことに驚きました。
彼らは、原爆が可能だというこの結果を誰かに知らせなければならないと考えて、「ウランの核連鎖反応にもとづいた『超爆弾』の構築について」という覚書と「放射性『超爆弾』の特性についての覚書」を書きました。この覚書は、「ウランの球を2つの部分に分け、爆発させたいときにすみやかに合体させると、1秒以内に爆発する。5�`�cの爆弾でダイナマイト数千トンに匹敵する。爆発で致死的な放射線を生じ、多数の市民を殺すことになる。ドイツがこの兵器を持てば、有効で大規模な避難所はあり得ない。効果的な対応は、同様な兵器を持って報復威嚇することしかない」と述べています。この覚書によって、図に示す広島に投下されたウラン原爆の基本原理が生まれたことになります。
この覚書は後にMAUD委員会と暗号名がつけられたイギリスの原爆開発に関わる委員会が検討し、1941年7月、MAUD委員会報告書として承認されました。その内容はアメリカの科学者や「ウラン諮問委員会」を吸収して作られた国防研究協議会(NDRC)に非公式に伝わりました。アメリカでは原爆開発に向う具体的な動きにはなりませんでした。ところが、10月初旬、この報告書が公式にルーズベルト大統領に届くと、大統領は直ちに最高政策集団を作って科学者たちの核兵器に関する政治的・軍事的発言権を封じておいて、原爆開発を始めました。
「原水協通信」2002年9月号(第703号)掲載