核兵器をなくす『反核ゼミ』 17
アメリカの核政策のルーツを探る(その2)
原爆投下を決定した
暫定委員会
20世紀の後半から今日まで続く「核兵器によって世界を支配する」アメリカの政策の具体的スタートを切ることになったのは、1845年の5月31日の暫定委員会でした。
それまで、5月9日、14日、18日と3回の暫定委員会が開かれ、グローブスやブッシュ、コナントらからマンハッタン計画の経過説明を受け、ケベック協定などの米英間の協定や原子力開発の取り決めを検討し、さらに科学顧問団を任命しました。しかし、原爆を使用すべきかどうかという根本的な問題はまったく議論されませんでした。
その理由について、アメリカの歴史学者シャーウインは、暫定委員会のメンバーが、�@ドイツが競争に勝っておれば原爆を使ったであろう、�A日本に対して原爆を使用すれば降伏を躊躇している日本の指導者に深刻な衝撃を与える、�B原爆開発を知らされていないアメリカ国民も原爆を使用したことを支持するであろう、�C原爆使用は対ソ関係に有利な効果をもたらすであろう、こうした原爆使用に関する基本的問題に共通の暗黙の想定をしていたからだと述べています。
暫定委員会議長のスチムソン陸軍長官らが5月31日の委員会前日に用意した議題は「原子力に関する戦時の問題と、国際レベルにおける戦後の研究開発について、調査、勧告を行うこと」でしたが、実際に議論したことは、「原爆使用に関する決定と、原爆の使用方法」でした。
核開発競争の先頭に立つ
5月31日の午前中はスチムソンが開会の辞の中で、原爆は「人間と宇宙との関係についての革命的な発見であり」、「国際文明を破壊するかもしれないし、世界平和の手段になる可能性も持っている」という趣旨を述べました。その後,Α・コンプトンが核兵器開発でソ連がアメリカに追いつくのに6年かかるという推測を説明し、コナントが熱核兵器すなわち水爆の可能性について質問したのに対して、オッペンハイマーは最低3年かかると見積もりました。広島原爆となったリトルボーイや長崎原爆となったファットマンは高性能火薬TNTの2千�dないし2万�d分の爆発威力になり、ファットマンを改良した第2段階の原爆はTNTの5万�dないし10万�d分の爆発威力になり、第3段階の水爆は1千万�dないし1億�dに匹敵するだろうと述べました。科学顧問団の一人アーネスト・ローレンスが、核兵器開発を含めて、核エネルギー分野の研究・開発競争においてアメリカが先頭に立つべきことを強調しました。こうした議論をスチムソンは、原爆製造プラントは戦後も維持し、資材も備蓄し、原子力産業への道は開けておくとまとめました。
ソ連との情報交換
午前中の会議の後半に、オッペンハイマーが戦後の核兵器開発競争をどのようにして抑止するかという問題の口火を切りました。彼は、原爆を実際に使う前に、ソ連を含めて世界に情報交換を申し出れば、アメリカの道徳的立場を大いに強めるだろうという趣旨の発言をしました。これはニールス・ボーアの危惧した戦後の核軍拡競争を念頭に置いたものでしたが、ボーアの考えとは根本的に違っていました。ボーアは核兵器を保有しない状態で厳重な国際管理体制をつくることが必要であり、そのことをソ連に伝えるべきだと考えていたのです。オッペンハイマーは原爆をつくって戦争を早く終わらせることを前提にしていました。
ソ連に原爆に関する一般的情報を伝えるオッペンハイマーの提案を支持したのは、特別に会議に招待されていた参謀本部議長のジョージ・マーシャル将軍でした。彼は、7月に予定されている原爆実験に、2人の著名なロシア人科学者を招待したらどうかと提案しました。それまで黙っていたバーンズは、この提案に強く反対しました。バーンズは「原爆を使用する前に、スターリンにそれを伝えたら、原爆の持つ外交的な価値が下がってしまう、原爆の研究と生産を出来るだけ速やかに推進すると共に、ソ連とは政治的合意に向けての努力をすべきではないか」と主張しました。国務長官に予定されていたバーンズの断固とした態度に、委員たちは次第に同調していきました。一時退席していたスチムソンのために、コンプトンが「政治的合意に向けての努力をする一方で、優位に立ち続けることが必要」と議論の要点をまとめました。政治的合意への努力と、原子力分野での支配的地位の確保という2つの目的の間の矛盾を感ずる委員は誰もいませんでした。こうしてボーアが恐れていたソ連をおどす方向の結論になって、その後の核軍拡競争へのレールが敷かれてしまいました。
無警告で一般市民の上に
委員たちは、ペンタゴンの食堂で昼食をとりながら、予告なしで日本人の上にリトルボーイを落とすのか、前もって警告をするのか、何らかのデモンストレーションすることはできないかということを話題にしました。
午後の会議では、スチムソンが、原爆が日本人の戦闘意志にどのような影響があるかを議題にしました。オッペンハイマーは3000�bから6000�bに達する閃光の視覚的効果は計り知れないほど強大であること、核分裂で生じた中性子による殺傷力は半径1�`�bの地域全体に及ぶことを強調しました。
午後の会議の結論をスチムソンが次のようにまとめました。�@日本に対する警告はいっさい与えない、�A一般市民居住地域を攻撃目標にすることは避けるが、出来るだけ多数の日本人に深い心理的衝撃を与えるようにすること、�B多数の労働者が雇用されている労働者住宅群に囲まれた軍需工場を攻撃目標にすること。�Aと�Bの矛盾については誰も問題にしませんでした。
こうして、8月の初旬に完成した2個の原爆が、広島と長崎に相次いで投下さることが決定されたのです。
(さわだしょうじ・名古屋大学名誉教授)