第8回 プルトニウム原爆の可能性

マンハッタン計画が始まる前に、ウラン235の原子核 の他にも、偶数の原子番号で奇数個の中性子をもつ原子核は、どんな小さなエネルギーの中性子を吸収しても、核分裂を起こすことが、ニールス・ボーアの原子核の模型から理論的に予想されていました。

天然ウランから生まれるプルトニウム

天然ウランの99・3%を占めるウラン238の原子核 から原子番号が偶数の94、中性子数が奇数の145個のプルトニウム239の原子核 は次のようにしてつくられます。

ウラン238の原子核 が中性子を吸収するとガンマ線を放出してウラン239の原子核 になります。図1のように、このウラン239の原子核 は半減期23分半でベータ崩壊します。すなわち原子核の中の一つの中性子が電子eと反電子ニュートリノ を放出して陽子になります。その結果原子番号が一つ増えて93番のネプツニウム239の原子核 になります。さらにこのネプツニウム239の原子核 は、図2のように半減期2日と8時間でベータ崩壊します。原子核の中の中性子が電子と反電子ニュートリノを放出して陽子になると、原子核はプルトニウム239の原子核 になります。

 実際に、1942年の3月にはバークレイの化学者グレン・シーボーグらのグループは、プルトニウムとウランとの化学的性質の違いを用いて、化学反応によって少量のプルトニウムを分離しました。そのプルトニウムに、サイクロトロンで加速した陽子をベリリウムに衝突させ、飛び出した中性子を衝突させて、予想通りプルトニウム239の原子核 が核分裂を起こすことを確認しました。

プルトニウム製造の原子炉

ところで、プルトニウムは、サイクロトロンを使ってつくることができますが、大電力を使ってもごく微量のプルトニウムしかつくれません。そこで原子炉を使ってプルトニウムをつくることが考えられました。

ウラン235の原子核 が中性子を吸収する確率は、中性子の速度に反比例して、中性子の速さが小さくなるほど大きくなるので、中性子の速さを小さくしてやれば天然ウランでも核分裂の連鎖反応を起こすことができるようになります。ウラン235の原子核 の核分裂で発生する高いエネルギーの中性子を炭素や重水などの軽い原子核に衝突させると、中性子のエネルギーが軽い原子核に移されて、中性子の速さは小さくなります。核分裂でつくられた中性子の速さを小さくする物質を減速材と呼びます。

フェルミたちは、いくつか試験的な原子炉をつくった後、シカゴ大学フットボール競技場のスタンド内にシカゴ・パイル1号と呼ばれた原子炉を建設しました。図3のように、減速材として炭素の塊である黒鉛のブロックを層状に積み上げて、黒鉛ブロックの穴の中に酸化ウランまたは高純度の金属ウランの球状の塊を埋め込みました。黒鉛のブロックの間には発生した中性子を吸収して核分裂の連鎖反応をゆっくり継続させるカドミウムの制御棒が差し込まれています。

ブロックを積み上げながら測った中性子線の量を基にして、フェルミが計算尺で連鎖反応が継続する臨界状態になる黒鉛ブロックの層の高さを予測しました。黒鉛ブロックを予測した57層積み上げると、図3の点線で示したように、球がやや押しつぶされた扁平な回転楕円体になりました。高さは6・1㍍、赤道部分の直径は7・6㍍でした。最後の層を積み上げると、測定していた中性子線の量が臨界量の一歩手前になりました。1942年12月2日、パイルに挿入されていたカドミウムの棒を少しずつ引き出すと、ついにシカゴ・パイル1号は核分裂の連鎖反応が継続する臨界に達しました。この日が人類が初めて核エネルギーをコントロールした日になったのです。

(実際は57層ですが、作図の都合上、模式的に層数を減らしてあります)

フェルミをはじめ、立ち会った科学者たちは祝杯をあげました。しかし、その場に立ち会っていたレオ・シラードは、若き日の夢だった核エネルギーが宇宙探検に使われるようになる前に、戦争に使われることになったと、複雑な気持ちになっていました。アメリカが製造したウラン原爆は広島原爆の一発だけでした。対照的に、水爆の起爆用原爆も含め、今日までもっぱらプルトニウム原爆が大量につくられることになりました。

「原水協通信」2002年11月号(第705号)掲載