核実験――機密にされた軍の文書館フランスが決して告白しようとしなかったことヴァンサン・ジョーヴェール
1998年3・1ビキニデー関連資料より
核実験――機密にされた軍の文書館
フランスが決して告白しようとしなかったこと
ヴァンサン・ジョーヴェール
『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』1998年2月5日~11日号
30年以上もフランスの核問題担当局はウソをついてきた。60年代の原爆実験は完全に清潔で、ムルロア近辺の住民のいる島は一つも汚染されなかったし、サハラ砂漠の召集兵は誰も核の火にさらされなかった、と当局はつねに言い張ってきた。これはウソだ。ヴァンサン・ジョーヴェールは、ちょっとだけ開かれ、突然また閉じられた軍の文書によって、爆弾の魔法使いの弟子たちが、いかにして民間人や軍人を強力な放射線にさらしたかを語る。
* * * * *
1966年7月2日、仏領ポリネシア・マンガレーヴァ島にて。西からのそよ風がココ椰子に吹き、子どもたちはいつものようにおもてで、ほとんど裸で遊んでいた。軍人たちは子どもたちが走ったり、転んだり、砂まみれになったりするのを眺めていて、何も言わなかった。しかし彼らは知っていたのだ。数時間前から強い放射能を帯びた粒子が風で運ばれて来ていて、土はすでに汚染されており、この子どもたちが危険な状態におかれていることを知っていた。しかし子どもたちの親に警告することは、太平洋でフランス最初の核実験が住民のいる島を汚染していると、世界に発表することになる。そこでこれらの軍人は、将校や医師までもが口をつぐんだ。国家的理由で。
この秘密の話は、軍の文書から復元したもので、(囲み記事参照)、ムルロアでおこなわれた最初の実験以前の1965年にさかのぼる。この年、ド・ゴールはふたたび衝撃的発言をおこなった。実戦用核戦力を緊急に要求したのである。彼にとって原子はフランスの栄光の回復を意味するものであった。爆弾によって、彼の発言力は二つの大国と同じくらい遠くまでとどき、強力になるのだ。爆弾によって彼はNATOを最終的に脱退し、国の独立と誇りを完全に実現することができるのだ。したがってこの絶対の兵器に向かって決められた歩みは、何ものにも阻害されてはならないのだ。何ものにも。なかでも核兵器反対運動などは、すべてを遅滞させるおそれがあるので、あってはならない。こうして1965年、太平洋に配置されたばかりの軍部とCEA(フランス原子力委員会)は、原爆実験が住民にとって完全に「無害」であると証言した。これはウソだ。爆弾の関係者たちはすでにそれを知っていた。彼らの秘密の会議で、1966年と67年の実験はとくに「汚染度が強」く、なかでも、はしけからの発射では、爆弾は水面のすぐ上の空中で爆発し、発生した放射能を帯びた雲が、爆心地付近の住民が住んでいる島を汚染する危険がある、と繰り返し述べていた。しかし公的には一言も知らされなかった。
レアオ、ツレイア、プカルア、なかでも一番人口の多いマンガレーヴァ(人口600人)など4つの島と1200人の人びとが、放射性降下物の危険にさらされていた。この呪われた珊瑚礁の島々をどうすればよいのか。最初の実験の数週間前、原子爆弾の製作者たちはこの問題に悩まされていた。最上の解決策は全ての住民をそれぞれの実験前に移住させ、放射線の防護について彼らに説明することだった。しかし核爆弾関係者はこの根本的な措置を拒否した。このような作戦は、たとえ秘密裏におこなわれようとも、すばやくマスコミに知られるだろう。それは問題外だ。結論――「移住の仮定は、政治的、心理的理由により、排除される」。
ところが医学上の理由については、詳細に釈明されることになる。軍放射線安全対策機関(SMSR)の専門家は、ポリネシア人が放射線から極度に影響を受けやすいことを知っていた。彼らの書くところによれば「ここの住民は特別な性質を示している…孤立していること、15歳以下の者、妊産婦または子どもを産む年齢の者、高齢者などが多い、同一グループ内結婚の頻度が高い」。 したがって「同じ位の数で比較すれば、遺伝的危険性はヨーロッパ人より高い」。 言いかえれば、ヨーロッパ人にとっては弱い被ばく水準であっても、これらの島の住民にとっては危険だということだ。そこで強度な汚染については……こんなに脆弱な女性や子どもを、どうやって守るか。「放射性降下物の危険があるようなら、爆発の前にこの人たちを集めてすぐシェルターに入れろ」。 だが、どのシェルターへ? 「教会に入れろ。そこは初期段階で、強度の放射線に対して優れた遮蔽物になるから」ということであった。 爆弾に教会とは……。
恐ろしい事故は避けられない。核爆発の実行者たちはポリネシアの気象についても、はしけ上の爆発についても、なにも知っていない。彼らは何の経験も、根拠も持っていない。彼らの同盟国であるアメリカは、これらの非常に汚れた実験を20年前のビキニでおこなったが、その被害をどう防ぐかについては説明を拒否した。ホワイトハウスは大気圏内実験禁止条約に調印した。ド・ゴールはそれについて話されるのを好まなかった。彼が「かわいい爆弾」とうまくやろうとしていたとき、ワシントンではこう言っていた。陸軍省はSDECE(フランス情報局)と情報機関に、太平洋周辺でこの種の発射についての情報を収集するよう命じたが、(コラム参照)原爆スパイたちは、たいしたことを報告してこなかった。そこで、これはけっして公表されなかったが、当てずっぽうか、それに近いやり方で実験されることになった。太平洋での最初の実験はアルデバランでおこなわれることになる。これが最初の事故である。
(広島型よりやや大きい)15から20キロトンの威力の爆弾は、1966年7月2日、ムルロア環礁で爆発した。16時ごろ最初の警報の電報が巡洋艦「ド・グラス」の作戦司令部にとどいた。放射能雲は予期したよりも集中していて、その高度は予想より低かった。低層の風がこの雲をマンガレーヴァ住民の住む島の方へ運んでいった。23時にはもう疑いはなかった。マンガレーヴァ治安責任者の電報にはこう書かれている。「大臣に通報。放射能は無視できない。土壌汚染。汚染除去と食料についての指示を要請する」。 何をなすべきか。保安指令の適用か。住民に知らせ、教会に集合させるか。ノン。核実験作戦団長ロラン副提督は、「ド・グラス」から唯一被害調査のため科学調査船「ラ・コキーユ」の派遣を命じた。極秘任務である。
「ラ・コキーユ」の医師フィリップ・ミロン博士は秘密報告の中で、それについての詳細を述べているが、そこには二つの例しか存在していない。この報告書の中では、ウソ、軽蔑的態度、不条理など、そのすべてがあきらかになっている。ミロンは述べている。「『ラ・コキーユ』は(マンガレーヴァ)近海に、7月5日(すなわち爆発から3日後)に到着した。(放射能の)最初の具体的影響はプランクトンや魚に現れている」。 翌日、船は島で一番大きな村リキテア港に入った。「その時、土地の消費物資の計測が始まっていた」。 結果は「洗ってないサラダ菜――1グラム当たり18000ピコキュリー」であった。これは事故当日のチェルノブイリ原発周辺のレタスの汚染水準に相当する。8日、「12時間の激しい雨の後…排水溝から取った土壌のサンプルは1グラム当たり1400ピコキュリーを計測された」。これもまた非常に重大な汚染度である。しかし「いかなる禁止措置」も取られなかった。とくに誰も不安がらせたりはしない。それが何であるか警告してはならない。
それは続く。ミロン医師は冷静に、次のように述べている。「住民は…まったく自覚しておらず、不安をいだいておらず、なんの興味も示していない。(島の精神的リーダー)ダニエル神父は放射性降下物とは何かも知らない。その他の『ポパたち』(ヨーロッパ人)、島の定住者たち(看護婦、農民)などは、全然不安がっておらず、何の質問もしない」。 汚染のことに通じている軍人たちも、「明らかに大多数は実際の数値は知らない」。 当然である。最後に「ド・グラス」に警告を出した治安司令官は「完璧に反応した」。 つまり彼は秘密を守った。少なくとも「彼は住民に対して率直な政策がとられていないことを不満に思っており、それが彼の居心地を悪くしている」。 もっと正確には、「彼は正直なので、村の子どもたちが土の上をはだしで歩き、遊んでいるので心配している」。 どうやら、彼だけがただひとり、心配しているのだ。
作戦に続いて、ミロン医師は何を提案しているか。質問者や妨害者たちに取り囲まれるのを避けるために。「好ましからざるヨーロッパ人の教師夫妻を(マンガレーヴァから)断固として遠ざける」必要があると、彼は書いている。しかし、「心配していない」住民については、退避はまだ日程に上っていない。医師はたんにシェルターの建設を示唆しただけだ。彼は9月か10月にさらにいっそう強力なはしけからの実験が計画されていることを知っていた。
その8月、マンガレーヴァにこっそりと避難所が作られた、ツレイアやレアオにも。それはコンクリートブロックの小屋や、「亀の子」――サハラ砂漠の実験で軍隊が使用した一種の格納庫――のことである。この作業は住民を不安にさせた。レアオの軍司令官は書いている。「原住民の中には『亀の子』が住民を閉じ込めるわなで、爆発実験の後、彼らがそこで殺されると言う者がいる」。 実際、軍の不条理の極みだが、この大急ぎで作られたシェルターは、大部分が使用されないか、貧弱な防御物であることが暴露されることになる。ツレイアに派遣された放射線保安将校が、世界でまたとないほど真面目ぶって説明するところでは「珊瑚礁の潟のそばにあるブロック小屋は、気密上問題がある。中に入って明りを消し、ドアをしめると、ブロックのすきまから日光が入ってくるのが見える」とのことであった。困ったことに、「一晩雨が降れば、地面の半分はひどい水たまりになる」という。
ところで汚染された雨のことだが、ツレイアに、ついでマンガレーヴァにも9月26日にはもう降っている。保安部隊司令官の報告書によれば、それは「放射能にひどく汚染された降雨」とさえ言われている。この人は、2日前にはしけ上からおこなわれた2回目の実験での、リゲルの降下物について説明している。実験は250キロトン、広島型の20倍の爆発力である。マンガレーヴァの雨水の放射能はひじょうに懸念されるものであった。1リットルあたり10万ベクレル、これはチェルノブイリ事故後の地下水汚染の最高水準に相当する。そしてフランス軍部の反応は、ウクライナ原発爆発当時のソ連官僚と同じように、まったく馬鹿げていて、腹立たしい。つまりここでも「住民をシェルター近辺に集結させる以外は、いかなる措置もとられなかった」とマンガレーヴァ保安将校は書いている。しかし彼は住民がシェルターに入るよう勧告しなかった。それは、またしても、事実を隠さなければならなかったからである。その将校は説明している。「放射性降雨はそれまでにとられていた機密保持の強化を必要とした」。 小さな島ツレイアで、軍責任者は、爆発の瞬間には女性や子どもたちに隙間だらけのブロック小屋に入っているように要求した。しかし放射性の雨が降っても、彼は何も言わなかった。民間人や現地軍やその部下にも。「土壌汚染の調査は、要員を脅かさないように、系統的にはおこなわれなかった」とまで彼は告白している。馬鹿げていて、憤激にあたいする。
1967年には、はしけからの実験はアルクツルスで1回だけおこななわれたが、これはこのタイプのフランス核実験史上最後のものであった。規模の小さい実験で、住民の住んでいる島は少ししか汚染されなかった――ツレイアをのぞいて。ツレイアでは、放射性雲の二次的な降下物は実験の2日後、7月4日に降っている。それから二週間、雨は土の上に1キロ平方当たり数十キュリーの降下物をそそいだ。この汚染度は、ツレイア陸軍が「居住制限区域」を宣言し、防護措置をとった避難所への避難を少なくとも数日間義務づけなければならないほどのものであったが、実際には何もなされなかった。
1968年から、実験は球体の下だけで、もっと「清潔な」やり方でおこなわれた。ついで1974年から、1996年におこなわれた最後の一連の核実験までは、いっそう「清潔」な地下実験のみがおこなわれた。この18年の間に、これ以外の事故や汚染があったのだろうか。それを知ることはできない。66年と67年の文書のみが一時的に公開された。ただ1968年にはムルロア上空でおこなわれた初の水爆実験の数日後、ツレイア住民全員が、島を離れ、数日間パペーテにとどまるよう要請された。公式的にそれは7月の伝統的行事を祝うためと言われた。(この点について、またより全般的な実験の歴史については、ブリュノ・バリロのすばらしい本「フランス核実験、1960?1996」CDRPC出版を参照されたい。またベルナール・デュモルチエの「原子の環礁」マリーヌ出版がある。)
この30年間の実験の医学的結論は何か。もう一つの謎。まったく信じられないことだが、厚生省がこれら4つの住民のいる島のガンの登録を始めたのはやっと1984年になってのことであった。言いかえればマンガレーヴァやツレイアで、それ以前に白血病や悪性腫瘍で死んだ人びとについては、だれもまったくわからないということだ。1984年以後に見つかったガンについては、2年前の実験完全停止以前には、公式研究は一つもおこなわれていない。ようやく1997年になって、軍はフランス領ポリネシアの原爆実験とガンの関係に関する研究に予算をつけることを許可した。国立衛生医学研究所の疫病学者がそれを担当した。彼らは報告書を核実験本部の責任者に提出したところである。この責任者は大将だが、非常に待たれているこの文書をまだ公表していない。
結果がどうあろうと、フランス政府当局はすでにアメリカの意向に影響されているだろう。1991年ホワイトハウスは62年にネバダ砂漠でおこなわれた大気圏内実験で、実験地周辺住民が被ばくしたことを、公式に認めている。議会はこの人たちに謝罪さえおこなった。
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ふたたび閉じられた公文書館――パニックで大規模な沈黙政策がとられた
ここで引用された文書は、すべて核実験の軍事的責任を負う組織、核実験センター本部(Dircen)の文書から引用された。昨年12月1日までは、これはたんに要請があれば、ヴァンセンヌの要塞で見ることができた。その日以降は、一般の人は見ることができない。軍歴史サービスは、アラン・リシャール国防相の命令により、大慌てでこの文書館を閉鎖した。現代の全軍事文書館と同様に、いかなる主題、日付けであっても。1945年以後の目録は大部分棚から取り除かれた。この突然の閉鎖はわれわれの研究の途中で、この研究が原因でおこなわれた。その結果、われわれの作業はやむをえず不完全なものになった。というのは、われわれは調査すべきファイルの約半分を調べる時間がなかった。(12月1日までに30年分以上の文書、つまり67年12月までの分は調べることができた。)
何が起きたのか。大沈黙はパニックによって起こった。これらの核文書の抜粋は決して新聞に公表されなかった。事故の証拠などはもちろんである。それではなぜ核実験センター本部と軍歴史サービスは文書館を開いたのか。大ミスだったか。それとも彼らは、誰も来てのぞいたりしないと思ったのか。またはソ連崩壊後の一種の一時的大胆さだったのか。ベルリンの壁の崩壊以後、ロシアの公文書館は研究者に、しばしば同じ様な驚きを与えた。いくつかの内容が突然に公開され、そして不意にまた極秘分類に戻る。実際、閉鎖された棚の部分の文書は全てフランス軍関係書類など、機密とその保持に関することであった。開放を要求する時は、どこまでガラス張りにするか限界を知らない。また行き過ぎたと思ったら、権威主義的な古いやり方にもどる、つまり検閲である。 (ヴァンサン・ジョーベール)
検閲は用心のため――パペーテのある特殊な「研究局」
核時代には、フランス領ポリネシアは阻害されている風土という点で、しばしば東ドイツのような感じがした。東独と同様、住民は絶えず密告され、検閲は定期化されていた。最初の実験より2年前の1964年にはすでに、政府はパペーテに独裁警察を置いた。その名称は非常に慎ましく、「研究局」と言った。その機能はとても広範で、ポリネシアの全ての秘密機関――RG、SDECE、DST――の活動統括、軍事保安、要員などは全て大幅に強化された。「研究局」はまた、数年後に創設された電話・ラジオ盗聴センターをその傘下に持っていた。最後に、「研究計画」つまり内部スパイのバイブルを作成したのはここである。
最初の実験がおこなわれた1966年の研究計画を読むとためになる。原爆の秘密工作員は全てを、絶対に全てを知るよう要求された。たとえば、プロテスタント教会の財源、青年運動の海外との接触、中国系少数民族の帰化問題、家政婦の暮らしぶり、独立主義運動の計画など。全てがそこを通り、全てが知られた。毎週少数のめぐまれた人々――知事、核実験地の責任者、とくに国防相などが「情報ブレティン」を受け取る。これはポリネシアの著名人、そして一時滞在の人までの公的、時には私的な生活までこまかく網羅したものである。
しかしそれで全部ではない。「研究局」はまた、非常に厳格なジャーナリスト活動の掌握が任務であった。こうして1967年5月、有名な「一面五段抜き」番組のチームがパペーテに到着した。てんやわんやの騒動。「研究局」は、多くの実験反対者たちにインタビューした記者たちを拘禁した。さっそく秘密工作員たちは心配した。「研究局長」はこう書いている。「ジャーナリストたちの意図は、フランスの影響力と核実験センターにとって歓迎すべきものとは思えない」。結論――「パリでは放映を検閲するよう、注意が必要だ」と。ごく端的に。
(ヴァンサン・ジョーベール)
わが方のスパイは手ぶらで帰った――アメリカの秘密追求
核関係者はポリネシアでの彼らの実験を成功させるため、60年代、スパイに熱意を示した。どこでか。同盟国で、大兄アメリカは太平洋で同様の経験を数多く積んでいるが、フランスの核関係者への援助をかたくなに拒否している。1963年2月、ムルロアでの実験場の起工がはじまる半年前、国防会議は秘密裏に大攻勢をかけた――情報特別計画(核の)「N」。
大西洋以外で、原爆スパイたちは全方位で調査しなければならなかった。ミニチュア化技術、起爆装置、トリチウム製造の秘密などを手当たりしだいに。リストは長大だった。
実際は要求された情報の半分が、はしけ上の実験結果についてのものだったが、これについてフランスは当時まったく知らないように見えた。言いかえれば、フランス原子力委員会と軍の人たちは太平洋での最初の実験における被害を制限するため、彼らのジェームス・ボンドに依拠していたのだ。彼らの質問は初歩的であった――大気中の放射能は風の影響でどのように変化するか。海上の爆発の後、放射能雨がしばしば発生するか。雲はどのような汚染を地上に残すか。しかしアメリカの反スパイ機関FBIは、非常に核機密防衛に厳しかった。それで3年後、最初の実験の日に、爆弾の魔法使いの弟子たちは、たいしたことはわからないということになる。
(ヴァンサン・ジョーベール)
(日本原水協 『国際情報資料10』より)
命令:「部隊には知らせないこと」
サハラ:「緑の跳びネズミ」のモルモットたち
ヴァンサン・ジョーヴェール
(部分のみ)
1961年4月25日、アルジェリアで195人の兵士がフランス軍の最高機密の原爆演習に参加した。そのなぞがやっと解かれた。
それは、フランスの核の歴史でもっとも不思議な実験であった。このサハラでの最後の大気圏爆発(コード名―「緑の跳びネズミ」)についてわれわれはほとんどなにも知らない。ただわかっていることは、1961年4月25日、つまり現地反乱軍の「混成部隊」が依然としてアルジェで権力を握っているときに、この実験は大急ぎでおこなわれたということだけである。つまり、ド・ゴールは反乱側の将軍たちが原爆を奪い取ろうとするのを恐れていたのであり、彼はできるだけ早く原爆を爆発させることを命令したのである。しかし、それ以外のことはまったく不明である。軍は37年間にわたって秘密を固守してきた。
実際のところ、1961年4月25日に参謀本部はこのサハラでの最後の大気圏爆発を核戦争の模擬演習に利用したのである。爆発の直後、爆心地の近くで演習(戦車のみならず、徒歩で)がおこなわれた。目的は? 軍の資料によれば、防護資材のテストをすること、そしてとくに、きわめて放射能の高い状況での兵士の反応を知ることにあった。言いかえると召集兵たちは、原爆の魔法使いの弟子たちのためのモルモットに使われたのである。
この195人の兵隊たちは偶然に選ばれたのではなかった。まず、彼らは赤軍とNATOとの戦線、つまり核戦争が起こる可能性のもっとも高い場所で軍務に服している兵士たちであり、ドイツに駐留していた第13機甲旅団から選ばれた。次に、彼らは軍事上の安全、つまり彼らの過去および対人関係で機密を守ることができることを確かめて選別された。1961年3月初めに旅団の将校たちは、選抜された兵士たちに一時的に配属を変更するむねを知らせた。ただし、それ以上はなにも言わなかった。
ついで、「心理的準備」が始まり、これは引き続きドイツでおこなわれた。別の将校が兵士たちに「まったく違う気象条件のもとで新しい機材の実験に参加する」と説明した。場所は?詳しい説明はなんら与えられなかった。自分が見たり、おこなったりすることを決してもらしてはならない、ということだけが述べられた。兵士を恐慌状態に陥れないために、「作戦は、かつて旅団がおこなった演習の名に似せて『緑の海馬』と名付ける」と任務説明書で述べられた。しかし、現実にはこの195人の兵士たちは以後、戦術的実験グループ、もちろん核実験のそれ、となる。
サハラの実験地レガヌに到着すると、モルモットたちは特殊兵器の指導員の指揮下におかれた。指導員は少しづつ本当のことを教えた…原爆を爆発させること、汚染地域で演習をすること…彼らを安心させるために、実験に関する映画を195人の兵士に上映した。だが、これはまずい考えだった。ドキュメント映画は兵隊たちにショックを与えた。部隊の報告書は次のように述べている。「映画『核兵器の効果』は近く実験に参加する部隊には有害である」。
兵士たちは不安であった。将校たちは「兵士が受け取る特殊器具の効用を確信させる」よう努力した(マスク、ポリエチレンの外套、手袋、長靴)。また将校たちは兵士の愛国精神を高揚させようと努める。「この『緑の海馬』実験はフランス軍の未来にとって決定的な意義をもつものである」と。若い軍人たちは胸をたたいて見せた、しかし、彼らは無言のうちに放射能が「健康」、とくに「男性の機能」を損なわないかと危惧していた。
実験日の4月25日に、編成されたばかりの戦術実験部隊はゼロ地点から3キロメートルに待避壕を堀り、195人は予定時刻Hを待った。壕の少し前に山羊を柱に縛りつけた。山羊は最初に被爆することとなる。プルトニウム爆弾が高さ50メートルの塔の頂上におかれた。H時に爆弾が炸裂し、地面が揺れたが、待避壕はなんとか維持した。爆発音は強烈で、「10メートルのところで105ミリ砲を発射したのに等しい」ものであった。また、兵士たちは「両腕を組んで目をかくしていた」が、ほとんどすべての者が核の閃光を認めた。原爆演習が開始された。