イギリスからの補償を求めて――クリスマス島核実験 フィジー被ばく兵士はたちあがる(「原水協通信」2002年6月号より)

 日本原水協代表団は2002年5月9日から20日、フィジー核実験被ぱく兵士の会(FNTVA)と太平洋問題資料センター(PCRC)の受け入れで、フィジーを訪問しました。代表団は、木村勇・福岡県原水協事務局長を団長に、広島の被爆者・米内達成さん、大阪の平和活動家・横山弘道さん、静岡県民医連・佐藤町診療所所長の高藤友治医師で構成されました。

カバの儀式

 日本原水協代表団は、5月11日、フィジーの伝統に従ったカパの儀式で迎えられました。儀式には、被ばく兵士とその家族100人ほどが集まっていました。カパはコショウ斜の木。その根乏紋ったものがヤシの実の殻でできた器に注がれ運ばれてきます。団員は、見た目は泥水のような茶色のにごった水を一気に飲み干しました。

 

 この儀式が終わると、私たちも彼らの身内になったことを意味します。兵士たちは、日本から、被爆者医療を専門とする医師が来るということで、診察してもらいたいと、近くの村から首都のスパに出てきていました。

イギリスの核実験

 1950年代当時、イギリスの植民地であったフィジーから、300人近い兵士と水兵が、イギリスとニュージーランドの兵士とともに、1957から回年にかけて行なわれたイギリスの核実験計画に参加しました。

 

 中部太平洋のモルデン島とクリスマス島(現在、キリパス共和国)で行なわれたグラプル作戦など9回の原水爆実験の目撃者となりました。その後40年以上、被ばく兵士とその家族は病気や体の不調に苦しみ、現在までに、300人中200人がすでに亡くなっています。

兵士と家族の受けた被害

 私たちは、被ばく兵士の聞き取りと診察を4日間行ないました。診察室の外には、毎日、何十人も被ばく兵士とその家族が列をなして、順番を待っていました。兵士たちは、爆発の時の様子を口々に語ります。爆心地に背を向けてすわり、目を手のひらで抑えて、爆発のカウントを待ったこと。爆発とともに、目にはまばゆいばかりの光を感じ、背中には強い熱と衝撃を感じたことを語りまし

た。もう少し長くそこに座っていたら、まちがいなく死んだと思うほど熱かったと述べました。

 

 実験後、しばらくは魚を食べるなとイギリス軍から言われたそうです。しかし、普段は軍支給の食事を食べていても、休日には誰もが魚をとって食べていました。そして、水道の設備がないクリスマス島では、海水を淡水化したものを飲料水として飲んでいたそうです。

 

 多くの兵士が、クリスマス島から帰って、体全体の痛みと脱力感、関節痛、皮膚の発疹、かゆみ、目が悪くなった、歯がほとんど抜けてしまったなどの症状を訴えました。広島・長崎の原爆ぶらぶら病と共通する症状です。また、悪性腫壊などのケースもありました。兵士の子どもや孫にも、関節炎、皮膚の発疹やかゆみ、知的遅れなどが多く診られました。18歳なのに小学生ぐらいの背丈の子どもや、加歳なのにまだ成長している2メートルぐらいある青年などが来ていました。

兵士たちのたたかいと困難

 被ばく兵士たちは、自分たちゃ家族の病気や苦しみは核実験のためであるとして、イギリスに被ばくの認定と補償を求めましたが、イギリス政府からは被ばくはなかったとの返事が返ってくるのみでした。実験当時、兵士たちは叩代から加代の若者でした。みんな、仕事がなかったから、クリスマス島に行ったと語りました。以来、病気や体の不調で、思うように働けず、貧しい生活を強いられてきました。フィジl国内においても、兵士たちの核実験参加は軍事活動とみなされず、戦争年金の支給対象にされていませんでした。この問、被ばく兵士による政府への要請の中で、この年金の支給が約束されました。

 

 現在、フィジーの被ばく兵士は、イギリス、ニュージーランド、スコットランドの被ばく兵士とともに、イギリス政府に被ぱくの認定と補償を求めて、ハーグの欧州人権法廷に提訴しようと準備しています。

 

 今回の日本原水協と日本の医師の協力は、彼らが最も切望している病気と放射能の影響の因果関係を確立するという困難な作業を手伝う一歩となりました。

 

 しかし、なぜ被害者たちが自分たちの被害を立証するために、こんなにも苦労しなければならないのかと、強い憤りを感じました。イギリスは核実験のデータを公表しておらず、兵士たちの手元には、自分たちがどの程度の被ぱくをしたかを推測できるデータはほとんどありません。

 

 兵士たちは、すでに60歳から70歳代。原水協の代表団を受け入れるため、困難な生活にもかかわらず、募金を集めました。また。フイジーにはこの問題に協力できる斜学者や医者がいません。

はじめての証言

 私たちは、滞在中、南太平洋大学で、「広島からフィジーへ・核時代の被害者は告発する」集会を開きました。

 

 米内達成さんが、原爆で家族を失ったことなど被爆体験を語り、被ばく兵士、ジョー・ラマタケさんがクリスマス島での4回の原水爆実験に参加した経験を語りました。翌日、彼は「自分の体験を話すなんて初めてのことだった」とつぶやきました。被ばく兵士は、これまで却年余り誰も語ったことはなかったのです。

日本の援助への期待

 フィジーの被ばく兵士の運動は始まったばかりと言えます。イギリスによるクリスマス島の核実験の被害の実態については、ほとんど明らかにされていません。加害国に核実験の情報を公開せよと迫らなければなりません。

 

 フィジー被ばく兵士は、日本の被爆者、反核運動や被ばく問題の専門家からの援助・連帯に、大きな期待を寄せています。

 
(全国理事・土田弥生)