ウラン鉱山放射線被害者、ラグーナ・プエブロドロシー・パーレイ(1998年国際会議)

原水爆禁止1998年世界大会・国際会議

ウラン鉱山放射線被害者、ラグーナ・プエブロ
ドロシー・パーレイ

     私はドロシー・パーレイといいます。私は、合衆国南西部のニューメキシコ出身のアメリカ先住民です。私が今日この場に参加したのは、私の経験をみなさんに知ってもらうためです。私もまた、この美しい日本を傷つけた惨事の犠牲者です。私もまた、ヒバクシャなのです。

  1935年、アナコンダ鉱山会社と合衆国政府は、ラグーナ・プエブロという私たちの村で、神聖な土地を採掘することに決定しました。彼らは、鉱山が私たちの部族全員に富と仕事をもたらすだろうと説明しました。私たちは、アメリカ中の多くの先住民と同じく、常に貧しい境遇におかれてきました。あまりにも長い期間にわたる貧困のため、村の人々はこの申し出に飛びつきました。アナコンダ社は、ウラニウムの使用目的について、ラグーナの人々に何も話しませんでした。ウラン鉱石の採掘が私たちの健康や環境にとって危険なものであり、人類を脅かすものであるということは、一言も話しませんでした。アナコンダとはよく名付けたものだと思います。アナコンダは(油断のならない人を象徴する)ヘビの名前なのですから。

  ラグーナ・プエブロの村は、誰もが他人の面倒を見るような平和な地域でした。村の人々は、自分たちの子供に危険な遺産をのこすことになるとは思っていませんでした。ラグーナの人々は、鉱山を開くことがほかの人に死と破壊をもたらすとは思っていませんでした。鉱山は日常生活で重要な科学技術に利用するのだとしか聞かされなかったのです。この事業は人類の利益になると説明されたのです。もし村の人たちが実際にウラニウムの使用目的を知っていたら、鉱山の操業を許しただろうかと、私はいつも疑問に思っています。

  53年前に原爆が投下されたとき、私は8歳でした。私は1939年に生まれてからずっと、放射線を浴びていました。いま、私たちは被爆者の方々と同じ苦しみを味わいつづけています。私が非常に怒りを感じるのは、アナコンダ鉱山会社とアメリカ政府が、当時でさえ、ウラン鉱の採掘が人間の生命を脅かすものだということを承知していたことです。2週間以上の被爆は望ましくないと鉱山会社に警告した科学者がいたことは、私たちが入手した文書から明らかです。それなのに、会社は私たちに伝えようとしませんでした。しかし、こうした態度は、先住民をはじめとする有色人種に対し、一貫してとられてきたものです。

  1975年頃、私は鉱山会社に職を求めました。一人で子供を育てていましたし、女ですから、あまり選択肢はなかったのです。とにかく子供を養わなければならないということで頭がいっぱいでした。私はトラックの運転手の仕事に就き、高濃度のウラン鉱石を精錬場まで運びました。安全対策は何もとられませんでしたし、放射能の影響について注意もされませんでした。約8年間、私はきわめて高い線量の放射能にさらされました。かつて美しかった村は、鉱山からおよそ1000ヤード(約900メートル)のところにあります。ラグーナの人々はいまだに、むき出しになっている採掘坑の有害な影響に日々苦しんでいます。

  私は1993年に初めて、免疫システムの癌であるリンパ腫の診断を受けました。これまでに2度の再開発を経て、3回目の化学療法を受けています。化学療法は癌細胞を殺しますが、同時に身体も弱らせます。身体の免疫システムがうまく機能しないため、あらゆる種類の感染にかかります。心は、肉体的にも精神的にも傷つけられました。身体がきかないため、以前のようなことができません。昨年の12月から癌は緩解期に入っています。この先どうなるかはわかりません。一瞬一瞬の貴重なときを生きるだけです。

  今日、私はこの厳粛な瞬間をみなさんとともにするためにここにいます。私たちすべてにとって、とても悲しく、謙虚な気持ちを呼び起こすひとときです。被害者のみなさん、その家族、友人 のみなさん、頭を高く上げ、断固としてがんばりましょう。このような大量破壊が良い結果を生むことはありえないし、本当の勝者など存在せず、戦争の犠牲者だけが残るということを、世界中の人々に知らせてゆくために、力を貸してください。平和で友愛に満ちた世界をのこしましょう。神の御もとに召されるとき、恥ずかしくなく顔を上げていられるように。みなさんが愛に満ちた幸せな人生を送られることを祈ります。ご静聴いただき、みなさんのやさしさに心から感謝します。どうもありがとう。