被爆医師 肥田舜太郎(1999年ハーグ平和のためのアピール)

ハーグ平和のためのアピール
1999年5月 オランダ、ハーグ
世界の被ばく者セッション

被爆医師 肥田舜太郎

多数の人間の原爆放射線死を診た医師の証言

  1945年当時、私は広島陸軍病院に軍医で勤務し,8月6日は早朝から6キロ離れた戸坂村に往診に出かけ、爆死を免れた、爆発直後から被害者の救急治療にあたり、今日まで50数年間、被爆者医療に従事し、多数の被爆者の死に立ちあってきたので、核兵器に殺された人間の死について報告し、核兵器廃絶の運動の一助としたい。

  1) 原爆放射線は二つの方法で人間を殺す。一つは爆発で放射する高線量放射線が体外から人体を貫通し、多数の臓器を同時に破壊して死に至らしめる。二つは体内に摂取した放射性物質の放射線が体液中の酸素分子を活性酸素に変え、活性酸素が細胞の染色体を傷けて、発病、致死の転機を与える。

  2)急性放射線障害及び亜急性障害による死(急性傷害は多数の臓器が同時に傷害を受ける汎組織癆の状態を云い、亜急性は残留放射線の体内照射によって、遅れておこ
る障害を云う)。原爆爆発の数日後から数カ月間、高熱、下痢、おうど、粘膜出血、吐血、下血、口蓋粘膜壊疽などの激しい症状を呈して多数の者が死亡した。特に人体の骨と脳にある燐が瞬間放射線の中性子によって放射性燐に変り、自らが放射線を照射して細胞に傷害を与えるという天野説は、被爆者が一定の潜伏期をおいて死亡した経緯をよく説明している。(学術会議調査報告「原子爆弾障害に関する報告第1一第4」)。残留放射線の体内照射による傷害の学問的解明はAbramPetkau(カナダ1973年)の「細胞膜の破壊は低線量放射線の方が高線量の場合より勝る」ことの発見以後、初めて可能になった。

  3)慢性期の死亡(ぶらぶら病から白血病・癌・多発性骨髄腫など)―1946年に入ると、臨床検査ではなんの異常もないのに「だるい」「疲れ易い」「根気が続かない」などの不定愁訴を訴える所謂、「ぶらぶら病」が現れて被爆者を苦しめた。、風邪を引き易すく、治り難いなどの症状が続き、労働を阻害して貧困を加速させた。こうした患者の中に、たかが風邪がと軽視しているうちに突然、肺炎を併発して死亡する症例も現れ、医師はぶらぶら病を軽視できなかった。
  白血病は1946に既に現れ、次第に増加して1953?54年にピークになった。、癌は少し遅れて多発し始め、最近では死亡する被爆者の癌死は非被爆者より高率と言う記録もあり(埼玉県1987年、被爆者死亡8例中癌5例、58%)、生存被爆者の最大の恐怖になっている。多発性骨髄腫は一般にはそう多くない疾病だが、被爆者には多発し、被爆者援護法も放射線起因疾病にあげており、死までの期間が短く、被爆者に怖れられている。

  4)免疫機能と治癒能力の低下に基づく死亡―被爆者も非被爆者と同じように加齢による成人病及び、一般の慢性疾患に罹患するが、治療と生活の管理を適切にしても病状が不安定なこと、合併症が多いこと、急激に増悪して危険な状態に陥り易く、予想もしない死を突然迎える症例が多い。

  5)核抑止論の誤り
  核兵器は核戦争を防止するから保持するのは有用という「核抑止論」は、保有するだけなら安全で無害という誤った考えの上に立っている。保有は絶えず新しい核兵器を製造して更新することを前提としている。放射線製造はウランの採掘、精製、核弾頭の製造、貯蔵、輸送、核廃棄物処理のすべての段階で残留放射線による被爆者を発生させる。核抑止論は公式に記録されない無数の潜在被爆者の犠牲の上に立って、核兵器廃絶の国際的、国民的な世論の結集を妨げていtることを忘れてはならない。

  6)核兵器は新しい戦争を開始させる
 第二次大戦後に行われた朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争はすべて、核兵器を持つことで、最後は必ず勝利できるという確信の上で始められている。核兵器がなく通常兵器だけなら、湾岸戦争もあのように簡単に決断し、開戦することはできなかった。核兵器は戦争を抑止せず、逆に戦争への誘惑を助長する。

  7)結論 核兵器を廃絶する以外に人類が生き延びる保障はない。