第21回 原爆投下(その2)広島への原爆投下
広島の照準点は相生橋
1945年8月6日午前8時過ぎ、第509混成航空群のB29「エノラ・ゲイ」は、第1目標の広島上空に高度約9500メートルで東北東から接近しました。広島市上空は晴れていて、爆撃手は、市の中心部で太田川の分岐点にかかる相生橋をすぐ見つけました。エノラ・ゲイの機長ティベッツ大佐が「最も完璧な照準点」と呼んだT字形の橋です。8時15分、爆撃手が照準を合わせて原爆を投下しました。
無防備の市民の上に
投下目標の広島上空の気象観測をし、原爆を目視投下できることを確認したB29が立ち去ったので、原爆が投下されたとき空襲警報は解除されたばかりでした。一般市民約28万人と市外から通勤・通学で広島に入った人たちは月曜日の生活を始めていました。広島にいた兵隊は4万3千人でした。何千人もの中学生や女学生たちは、空襲で建物が延焼するのを防ぐために家々を強制的に取り壊す「建物疎開」の作業をしていました。
エノラ・ゲイには、原爆の爆発力を測定し、原爆の爆発を記録するために2機のB29が随伴していました。随伴機は原爆投下直前に3つのパラシュートに測定装置を付けて投下し、無線で測定結果を観測機に送るようにしていました。空襲警報が発令されていなかったので、B29とパラシュートに気付いた中学生や女学生も沢山いて、避難しないまま空を見上げていました。
百万分の1秒の連鎖反応
相生橋の南東約200メートル、地上約600メートルで、原爆「リトル・ボーイ」の火薬が点火されました。火薬の爆発で「弾丸」部分のウラン235がリング状の「標的」部分のウラン235の中に高速度で押し込まれ、合体したウラン235の塊が臨界量を超えた瞬間、核分裂の連鎖反応が起こりました。32万人を超える広島の人びとの上で原爆が炸裂したのです。
核分裂の連鎖反応は百万分の1秒以下の間に80回以上繰り返して、高性能火薬TNT1万5千㌧分のエネルギーを瞬時に放出しました。原爆が爆発した点を「爆心」といいます。爆心の真下が「爆心地」です。
先ず「火球」が作られた
連鎖反応が終わった瞬間には、まだ原爆の容器はほとんど元の形のままでした。ウラン235の核分裂で放出されたガンマ線と中性子線のほとんどは、原爆容器や機材の原子核に吸収され、一部が原爆容器を突き抜けました。
ガンマ線は、光と同じ電磁波の一種です。電磁波は、その波長と同じくらいの大きさの電荷を持った物質に吸収されたり放出されたりしやすくなります。そのため、ガンマ線は原子核や電子に吸収、放出されることを繰り返しながら進むので、遠くに到達できません。原爆から放出されたガンマ線のほとんどが、爆心周辺の大気の原子核と電子に吸収されました。ガンマ線から莫大なエネルギーをもらった原子核と電子は、原子や分子から飛び出し、バラバラに飛び回ります。この高温・高圧の状態をプラズマ状態と呼びます。ちょうど小さな太陽のような「火球」が地上に出現しました。
最初に放射線で被爆した
爆弾容器の壁を突き抜けて外に飛び出したわずか1?l程度のガンマ線と中性子とが、空気の原子核に散乱されたり、吸収されたりしながら、地上の人びとに降り注ぎました。中性子を吸収した空気中の原子核からもガンマ線が放出され、地上に到達した中性子を吸収した地面や建造物の原子核も誘導放射化され、ガンマ線や電子を放出しました。
爆心から1㌔㍍のところにいた人びとに、最初に到達したのはガンマ線で、原爆炸裂後30万分の1秒後でした。1万分の1秒後に中性子が到達しました。一人当たり数兆個ものガンマ線や中性子が体を貫いて骨や臓器に達しました。ガンマ線は体の中の電子にエネルギーを与え、中性子は体の中の原子核にエネルギーを与えて、そのエネルギーによって細胞の中の遺伝子などが切断されました。
火球から放出された熱線
火球が作られた時の温度は数百万度、圧力は10万気圧でした。火球は急速に大きくなって火球の表面温度が下がると、波長の短いガンマ線の放出に替わってやや波長が長くなったX線を放出し、さらに温度が下がると紫外線や可視光線を放出しました。紫外線や可視光線の波長は原子や分子の大きさの千倍くらいになって、空気の分子にほとんど吸収されなくなるので、火球から光速で地上に到達しました。人びとが、ピカッと閃光を感じたのはこの時です。B29やパラシュートを見上げていた中学生や女学生たちは、この閃光で網膜に損傷を受けました。しかし、その時までに、広島の人びとはガンマ線や中性子線の放射線によって被ばくしていたのです。
爆発後100分の1秒後に火球の半径が100㍍になると、表面温度はいったん2000度まで下がりますが、火球の内部の高温状態が表面に伝わるようになって再び火球の表面温度が数千度に上昇します。この温度は太陽表面と同じ温度で、紫外線から可視光線、さらに赤外線(熱線)を放出するようになり、この状態が1秒以上続きました。地上に到達した熱線は人びとを焼き殺しました。
爆心地から1㌔㍍以内でこの熱線をあびた人は、黒こげになり、内蔵も蒸発して、子どもたちは小さな黒い炭の塊のようになりました。熱線は、瓦の表面を融かして煮えたぎらせ、燃えるものには火種をつけて、火災を発生させました。図は100分の1秒後までの様子です。
火球から作られた衝撃波
原爆の爆発後100分の1秒後、火球の表面温度がいったん下がった時、それまで火球の表面にできていた火球本体内部より温度は低いが気圧の高いショックフロントと呼ばれる部分が、高温の火球本体の広がる速度より速く広がって、火球表面から離れて行きました。これが空気の圧力が急激に高くなる衝撃波です。
衝撃波が通過するとき、圧縮された空気の温度は急上昇して圧力はいっそう高くなります。これが衝撃波の推進力になりました。また、地面に反射した衝撃波と、地面に達する直前の衝撃波が合体して、いっそう圧力を強めました。
衝撃波は音波と同じですが、最初は常温の音速の2倍以上で伝わり、爆心地から2㌔㍍ではほぼ音速の秒速350㍍になりました。衝撃波の圧力差によって、空気が移動する爆風がつくられ、衝撃波を追いかけました。
爆心地から1㌔㍍では、衝撃波によって1平方メートルの面積に10㌧の圧力が一瞬のうちに加わり、たいていの建造物はバラバラに分解されました。その直後に、秒速160㍍の爆風が襲って、建造物を倒壊させました。そのため、地震や台風のときとまったく異なり、建造物は地面に押しつぶされて、下敷きになった人びとは逃げ出す隙間もなく、火災によって生きたまま焼き殺されました。
「原水協通信」2004年1月号(第719号)掲載