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原水協(原水爆禁止日本協議会)
被爆者との連帯 ビキニデー 平和行進 世界大会

2016年新春鼎談

被爆者とともに核兵器のない世界へ
被爆の実相を学び伝えよう

参加者―田中煕巳さん(日本原水爆被害者団体協議会事務局長、長崎被爆)
      森本悠介さん(国土交通労働組合中央執行委員、平和担当)
      吉川穗香さん(東京造形大学3年生)

――みなさんの自己紹介をお願いします。

田中 私は1932年に満州で生まれました。6歳の時に父親が病死したので、1938年に両親の生まれた長崎県に帰ってきました。母子家庭で苦労しながら旧制中学に通っていたのですが、戦争末期で授業はあまりなく、最後は戦車壕を掘っていました。長崎は8月9日までに大きな空襲を2回受けましたが、すでに制空権を握られていたので目標が壊れるだけで亡くなる人はあまりいなかったですね。8月6日に広島に落とされた原爆についてはほとんど知りませんでした。

森本 私は香川県出身です。小学生の時に修学旅行で長崎に行き、原爆資料館で衝撃を受けました。その後も「はだしのゲン」などの漫画などで勉強する機会はあったんですけど、平和についての意識は薄かったですね。日頃は労働運動をしながら、働く根幹にあるのは平和ということで、昨年は原水爆禁止世界大会−長崎に参加しました。いろんな人の声を生で聞くことで今の若いぼくらにできることを考えながら、労働組合とのつながりも主張しながら平和運動にとりくんでいます。

吉川 私は静岡県浜松市出身です。静岡県には3・1ビキニデーで被災した第五福竜丸の母港の焼津港があるということで関心を持ち、高校1年生の時に原水爆禁止世界大会−広島に参加しました。そこで初めて被爆体験を聞いて、涙を流しながら話してくれた被爆者の方の思いを受け止めなければならないと感じました。それから6年間、毎年世界大会に参加しています。進学のために上京してからも、さまざまな活動でつながった仲間たちと東京学生ツアーをおこなっています。

奇跡的に助かる

――田中さんの被爆体験をお話しください。

田中 8月9日は朝早くに空襲警報が鳴ったんですが、すぐに警戒警報に切り替わりました。私は爆心地から3・2kmにある自宅の2階にいたのですが、1機の爆音が聞こえてきました。その時、突然周りの景色が真っ白になり、階段を駆け降りて地面に伏せるまでに、いろんな色に変わりました。その後は覚えていません。母親の私を呼ぶ声に意識が戻ると大きなガラス戸の下敷きになっていました。母は妹2人を抱えて庭に飛び降りて伏せていました。奇跡的にガラス戸が割れなかったので、ほとんど無傷でした。周囲の状況は、屋根が飛んだり壁が崩れたりする家はあっても、倒壊している家はありませんでした。ほとんどの人が怪我をしていましたが、血を流していても軽傷でした。私は横穴防空壕に逃げ込み、敗戦になってからやっと家に戻りました。

二人の叔母失う

 3日後、爆心地から500mと700mの所に住んでいた2世帯の伯母たちの安否を確かめるために爆心地帯に初めて入りました。山を回って峠に来た時に初めて爆心地帯が見えましたが、視界を遮るものが何もなく、港まで見渡せてびっくりしました。峠を下りて行く時に真っ黒焦げになったり大火傷を負った人たちをずっと見ながら歩きました。防衛本能でしょうか、数人見ただけで感覚が麻痺してしまいました。

 700mの伯母の家にたどり着くと、大火傷を負った祖父がトタン板を三角形に組んだ中に入れられていました。祖父の顔は肉の薄い所が溶けていて意識があるだけのような状態でした。近くに寄ると口を動かしたので、水が欲しいのかなと思い、水を含ませたタオルを口に当ててやりました。伯母は亡くなって畑の跡で焼かれ始めていました。下半身を大怪我した従姉妹は横穴防空壕の一番奥に入れられており、私の姿を見て喜んでくれました。700mで生存している人は少ないため、彼女は81歳の時に白血病で亡くなる間際まで証言していました。

 500mの所に住んでいたもう一人の伯母と従兄弟は真っ黒焦げになっていました。東京大学理学部の学生で長野県に疎開していた従兄弟は、食糧が乏しいということで帰って来ていましたが、9日に長野に戻ると言っていました。建物の目印のない所で探すのは本当に大変で、1時間ほど探し歩いている間に700mの伯母の遺体が焼け終わり、戻って骨を拾いました。焼死体になっていた伯母と従兄弟は手をつけられないのでその場に放置して立ち去りました。その時に初めて人間らしい感情が湧いてきたんでしょうね。生きている時の伯母さんの姿が白骨と重なって見えて号泣しました。この体験がトラウマになってしまい、その時の話をするのが一番辛いんです。

日本被団協結成に参加

 私は子どもの頃から元気だったので、放射線感受性が低かったのだろうと思います。急性症状も後遺症もほとんど出ませんでした。そのおかげで中学生の時から働き始めました。経済的には大変だったのでなんでもやりましたが、原爆の後遺症が出ていたら本当に悲惨だったと思います。

 私は自分のことを被爆者とは思わなかったんですよ。顔に大火傷を負ったり、毛髪がなくなって頭巾を巻いたりして登校している女学生などが周りに大勢いたので。最初に被爆者かもしれないと思ったのは、1954年です。ビキニ水爆実験があり、白血病が流行って数か月前に会った友人も亡くなりました。放射能のことが世の中に知られるようになっていたので、放射線をたくさん浴びたんだな、俺も被爆者なんだなと思いました。

 1955年、第1回原水爆禁止世界大会が開かれた時は大学1年生でした。参加はしていませんが、原水爆禁止の署名は集めました。翌年、長崎に帰省中している時に母校である長崎東高校の講堂で日本被団協結成集会が開かれたので参加しました。その時には自分も注意しなくちゃいけないかなと思うぐらいでした。1957年に被爆者健康手帳が取れることになるとすぐに取得し、卒業したら宮城県に移って被爆者運動に関わりました。労働組合の委員長もやり、60年安保闘争の時には「平和のために組合がないと駄目なんだ」と主張していました。

――田中さんの被爆証言を聞いてみていかがでしたか。

森本 被爆証言をナマで聞くのと読むのとでは全然違いますね。これまで組合で独自の学習会を開き、被爆者からお話を聞いてきました。その時にも、視界が真っ白になったなどの話を聞いていたので、引き込まれました。

吉川 体の見える所に傷があったり、原爆病で苦しんだりした人が被爆者と取り上げられがちですが、田中さんのように親族を亡くしたり、悲惨な状況を見ている人は、その時を知っている貴重な生き証人だと思いました。

競争ではなく協力を

――被爆70年を経て今年は日本被団協創立60年を迎えます。被爆者として青年に伝えたいことは。

田中 被爆者の平均年齢は80歳となり、高齢化しているため外国への遊説活動などができなくなってきています。被爆者は体験したので一番強く要求してきましたが、核兵器廃絶は人類的な課題です。被爆者がどういう体験をしてきたかということをできるだけ身近に聞いてほしいし、自分の問題と認識して核兵器をなくすために力を注いでほしいです。

 戦争被害は個人の責任ではありません。国が戦争を起こした結果受けた被害なのだから、国が償わないといけません。被害を受けていない人たちが受けた人たちにちゃんと補償していくのが本当だと思います。しかし、補償には国民から集めた税金を使うため「戦争の被害は国民全体が負うのだから、みんな我慢しなさい」というのが今の国の方針です。空襲被害者が変えようと運動しても何もしません。生きている被爆者だけなんとかしましょうとなっていますが、死んだ人には何も補償がないのです。ぜひ戦争被害について責任を持たないという国の姿勢を変えてほしいです。

 他には、日本の未来の問題です。安倍政権は国内では消費が伸びないと言って、外国に軍艦や兵器や原発を売ろうとしています。軍事経済で儲けて大国になる道を進むことは戦争につながるということを勉強して、自分の頭で考えてほしいです。若い人たちは物質的には豊かな状況で競争させられて、バラバラにされているように見えますが、競争ではなく協力していかないといけません。

――田中さんの話を聞いてこれからやろうと思っていることは。

森本 労働組合では労働条件だけやっていればいいのではないかという意見に直面することがあり、うまく落とし込むようにやっていかなければならないと常々思っています。なので、こういう被爆体験を聞ける場を作っていくとともに、窓口を開いて青年同士で対話する機会を作っていきたいです。また、原水爆禁止世界大会に向けた学習会を開いたり、青年をその気にさせるようなとりくみをして、機関紙に載せたりしていきたいですね。

吉川 被爆70年という節目の年に安倍自公政権が日本国憲法を踏みにじる形で「戦争法」を強行可決してしまったことに憤りを感じています。これ以上思い通りにさせてはいけません。戦争は言葉通り絶対悪だと強く思っているので、平和国家を守るためにも「戦争法」を廃止させたいです。私は今年大学4年生になって社会に出て行く身なので、学校の仲間や平和運動をやっている仲間としっかり議論していきたいです。現実から目を逸らしたくなる気持ちもわかりますが、その先に待っている社会を考えると対処していかなければならないと思います。平和国家への舵が切れるように頑張っていきたいです。

――ありがとうございました。

『原水協通信』2016年1月号、1~2面

 
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