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反核ゼミ

1.ミクロの世界への誘い(1)
2.ミクロの世界への誘い(2)
3.ミクロの世界への誘い(3)
4.ミクロの世界への誘い(4)
5.アインシュタインの手紙 
6.英国生まれの原爆原理 
7.原爆1発分の濃縮ウラン 
8.プルトニウム原爆の可能性
9.危険なプルトニウムの製造
10.爆縮式プルトニウム原爆
11.米国の戦略に未来はない
12.原爆を手にした警察官
13.核帝国主義のルーツ
14.原爆と科学者
15.最初の原爆の投下目標

16.核政策のルーツを探る(1)
17.核政策のルーツを探る(2)
18.核政策のルーツを探る(3)
19.核政策のルーツを探る(4)
20.
原爆投下(その1)
21.
原爆投下(その2)
22. 原爆投下(その3)
23.
原爆投下(その4)
24.
原爆投下(その5)
25.原爆投下(その6)
26.原爆被害の隠ぺい(1)
27.原爆被害の隠ぺい(2)
28.原爆被害の隠ぺい(3)

 

核兵器をなくす
『反核ゼミ』 27
原爆被害の隠ぺい(その2)
モルモット扱いにされた被爆者

隠ぺい政策の下で情報収集

 1945年9月、連合国最高司令官総司令部(GHQ)は原爆被害の報道を禁止すると同時に、原爆の影響を調査し、放射線被害の情報収集を始めました。

 その頃、日本の科学者や医学者を網羅する日本学術研究会議によって「原子爆弾災害調査研究特別委員会」が立ち上げられ、原爆被害の調査を行っていましたが、調査結果はすべてアメリカ側に提出させられました。

 この特別委員会の調査活動の一環として日本映画社が被爆実態を客観的に科学的に記録するための撮影を開始しました。GHQはこの撮影を中止させ、替わってアメリカ戦略爆撃調査団の監督下において撮影の再開を命じました。翌1946年に原爆被害を記録した映画の英語版が完成すると、写真、フイルムすべてをアメリカに持ち去ってしまいました。この貴重な映像資料がアメリカから返還されたのは21年後の1967年でした。

 アメリカ陸海軍の軍医団は、東京帝大医学部に協力させて、名ばかりの「日米合同調査団」をつくり、1945年9月から約1年間の被爆調査を行いました。この収集資料の解析には日本の研究者の参加は認められず、調査資料すべて米国に送られ、米国陸軍病理学研究所に保管されてしまいました。

原爆傷害調査委員会(ABCC)の設置

 1946年、核兵器によって世界支配をする政策を明確にしたアメリカは、核兵器使用による人体への影響、とくに放射線の攻撃的な側面と、防御的な側面の両方から研究する必要に迫られていました。

 1946年11月26日トルーマン大統領は、全米科学アカデミーに原子爆弾傷害に関する委員会の設置を指令し、この委員会は広島と長崎に原爆傷害調査委員会(ABCC)の設置を決めました。

 日本政府は1947年5月、ABCCへの協力体制を整えるために、東京帝国大学伝染病研究所から分離独立させた予防衛生研究所を厚生省に設置しました。1948年広島市の宇品にABCC仮事務所が開設され、予防衛生研究所広島支所長がABCC副所長を兼任する体制がとられました。さらに、1950年の国勢調査に付随して被爆者調査を行い、ABCCが被爆者調査の対象者集団を設定するためのリストを提供しました。こうして、日本政府は、軍事目的のABCCの調査には協力しましたが、原爆被害で苦しんでいる被爆者を救援する手だてはとりませんでした。また、独自に原爆被害を明らかにするような、ABCCに相当する研究体制をつくることもしませんでした。

占領軍の特権で強制的調査

 ABCCは予備的な準備調査を経て1950年に広島と長崎に恒久的な施設を建設し、臨床部、臨床検査部、放射線部、病理部、統計部、医科社会学部を設けて被爆者調査を開始しました。ABCCは占領軍の特権を背後に、被爆者調査に当たり、「血は取られるが治療はしてくれない」と被爆者に恐れられていました。被爆者が死ぬと遺体は無理矢理に取りあげて、解剖し、標本にして米本国に送りました。

 ABCCの占領機関的閉鎖性、米側専門職員の頻繁な交替、広島・長崎両市の市民感情などで、1955年頃には、調査活動は全体として停滞気味になりました。米国学士院はABCC調査団を送り、その小委員会のフランシス委員会の勧告に沿って1958年に2万人を対象とする成人健康調査、1959年に10万人を対象とする寿命調査(LSS=Life Span Study)が再発足し、この調査・研究は今日まで引き継がれています。

ABCCを引継いだ放影研

 1956年、原水爆禁止運動の高まりの中で被爆者の全国組織、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が生まれました。被爆者運動が発展する中で、占領体制の中で生まれたABCCは、占領が終わってもその体質は変わらず、被爆者の治療や救援には役立たないことが広く認識されるようになってきました。1967年の第13回原水爆禁止世界大会では、ABCCの撤去と資料の全面公開を求める決議が採択されました。

 こうした状況の中で、1975年ABCCは閉鎖されて、日米共同運営の放射線影響研究所(放影研、RERF)が開設されました。これによって、ABCC・予防衛生研究所という占領体制の中で生まれた体質の解消が期待されました。しかし、ABCCの職員・施設をそっくりそのまま引き継いだために、放影研ではABCCの研究・調査の事業目的はそのまま温存されています。

  被爆者を調査対象にした放射線影響の研究は、核兵器によって被爆者をつくり出さない立場に立つものでなければなりません。しかし、放影研の研究・調査事業は今日でもアメリカのエネルギー省の下に置かれたブルー・リボン委員会の方針に沿って立案されています。そのエネルギー省は、現在のブッシュ政権の下で引き続き「使いやすい核兵器」を研究・開発・製造を進めている総元締めなのです。 

原爆被爆者集団訴訟

  現在、全国の11カ所の地方裁判所で143人の被爆者が、厚生労働省を相手取って原爆症の認定を求める裁判を起こしています。厚生省の認定基準の基礎には、放影研の成人健康調査や寿命調査が基礎になっています。これまで述べてきたように、放影研の調査では、ABCCの軍事目的の流れから転換できないまま、初期放射線による瞬間的な強い放射線の影響の調査だけに重点を置き、原爆の放射性降下物や残留放射能による慢性的な被曝、とくに内部被曝の影響を無視ないし軽視しています。これが、現在、被爆者が原爆症で苦しんでいる実態からほど遠い研究結果を導くことにつながっています。集団訴訟の中で、このような問題の解明が求められています。

                  

 

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