【資料保管庫】【反核平和運動・反核平和運動】
核兵器の使用と威嚇の適法性に関する国際司法裁判所の 勧告的意見にたいする
C・G・ウィーラマントリー判事の反対意見
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法廷意見についての序文的所見
I 序
U 自然と核兵器の影響
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V 人道法
W 自衛
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X いくつかの全体的考察
1.二つの哲学的見解
2.戦争の目的
3.国連憲章のもとでの「武力による威嚇」の概念
4.戦争法規の基本構造における平等
5.戦争法規における二重性の論理矛盾
6.核兵器使用の意思決定
Y 核兵器にたいする国際社会の態度
1.完全廃絶という最終目標の普遍性
2.全面廃絶を圧倒的多数が支持
3.世界の世論
4.現在の禁止措置
5.部分的禁止
6.最大の当事国はだれか?
7.地域的条約に参加している諸国は核兵器を合法とみなしているのだろうか?
Z いくつかの特殊な要因
1.核不拡散条約
2.抑止
3.復仇
4.国内の戦争
5.必要性のドクトリン
6.限定あるいは戦術あるいは戦域核兵器
勧告的意見を出すことに反対するいくつかの議論
1.勧告的意見には実際の効力が全くない
2.核兵器は平和を維持してきた
結論
1.当法廷に課せられた任務
2.人類にとっての選択肢
付録(中立国への危険を示す図表−略)
引用注
X いくつかの全体的考察
1.二つの哲学的見解
この意見のなかでは、いかなる目的のためであれ核兵器の使用は、人類そのものの滅亡ではないにしても、人類社会を破壊する危険を伴うという結論を導くために、多くの論拠が述べられてきた。この意見はまた、核兵器の使用を認める規則はどのようなものであっても、国際法自体と矛盾するということも指摘した。
ここでは、二つの哲学的洞察について述べる。ひとつは合理性、もう一つは公正さに基づくものである。
最初の問題に関して言えば、法律とは、本来、法律が奉仕する社会の存続という前提に貢献し、かつ、この前提の範囲内で機能するものである。社会の存続という前提がなければ、いかなる法の支配も法制度も、その基礎にある法的論拠がいくら魅力的なものであっても、効力をもちえない。ある法律が効力をもたないと、その法律だけでなく、その法の支配を内に含んでいる法制度自体が、根本的に崩壊する。なぜなら法制度は、社会がひき続き存続するということを前提としているからである。法制度は社会の一部分であるから、社会という、より大きな枠組みが崩壊すれば法制度もそれとともに崩壊せざるをえない。法律という概念の最も核心に位置するこの前提は、核をめぐる議論の中ではしばしば見落とされている。
法律の性格について哲学的な議論をさらに深めなくても、ここでは、二人の卓越した思想家、H.L.A.ハートとジョン・ロールズが提起した、現代の正義についての二つの試験について簡単に言及すればそれで十分だろう。
実証主義派を代表する法学者の一人であるハートは、自然法の最小限の内容について述べた有名な解説の中で、この原則を以下のように簡潔に定式化した。
「私たちは、正義は議論上の用語によって仮定されたものであると考える(訳注:互いに正義を掲げて論争するのだから、いずれかに正義があると仮定するしかない)。というのも、私たちにとっての関心事は、自殺クラブの制度でなく、ひき続き存在するための社会制度であるからだ」(406)
彼のこう主張する理由は以下のとおりである。
「いかなる社会組織も生存しようとするならば持たねばならない一定の行動規範というものがある。そのような規範とは、あらゆる社会において、法と因襲道徳の共通項を成しており、他とは異なる社会管理形態として認識されるに至っている」(407)
国際法はまさに、このような社会管理形態の一つとして、国際社会の構成メンバーである民族国家によって考え出され、受け入れられているものである。
ハートは続けて述べている。
「人類、人間の自然環境、そして人間の目的についての基本的な真実を基盤としたこのような普遍的行動原則は、自然法の内容としては最小限の ものだと考えられるかもしれない。自然法というと、もっと壮大で容易には理解しがたい法体系だと思われがちだ」(408)
これが、他学派とは違って字義どおりの解釈とは距離を置く、実証主義的法理によって受け入れられ、広く認められている、自然法の最小限の内容である。これはすなわち、あらゆる法制度が従わなければならない共通項にほかならない。
別の観点から問題にアプローチするために、国際社会の構成員は、過去3世紀の間、社会の行為に関する一連の規則と原則、すなわち国際法と呼ばれる規則と原則を定めるべく取組んできた。そうする過程で、その一連の規則の中に、いかなる理由であれ、その社会の構成員を、あるいは、まさに社会全体そのものを抹殺することが合法になるような規則を許す余地があるのかが、自問されなければならない。そのような規則に律せられている国際社会は、実証哲学、自然法など、アプローチのしかたはどうであれ、そのような規則に賛同してきたと言えるのだろうか。国家社会は、ハートの言葉を借りるならば「自殺クラブ」なのだろうか。
この点は、非核保有国の洞察力ある法学者によっても強調されてきた。彼らは、他国間同士の紛争の際に、自分たちの国にふりかかってくる可能性を敏感に感じとっている。すなわち、自分たちは紛争の当事国ではなくても、自分たちがその結果生じる核の破壊による被害を受けるという可能性である。国際社会全体のための法制度とされている国際法は、その社会の破壊をもたらすような原則を含めることができるだろうか。
「法制度は、それ自身を危機に陥らせ、それが規制しようとする社会そのものを絶滅させる権利を、いかなる構成員にも与えることはできない。言い換えれば、核兵器の脅威と使用を許すような法規則はないということである。要するに、核兵器は、伝統的な国際法の自己認識の再考を促すこれまでにない事例である。再考すれば、これが、既存の戦争法規のひとつの解釈が核兵器の威嚇や使用を禁止しており、別の解釈はそれを許しているという問題ではないことが、明らかになるだろう。むしろ、問題は、このような解釈をめぐる議論が法律の世界でそもそも可能なのか、ということである。法は、法の本質を否定する解釈を容認することはできないのであるから、これは法律で対応できる問題ではないのである。法律の目的は、人類の生存を核心とする物事の合理的な秩序である。ところが核兵器の存在はそれを実現するあらゆる希望を摘みとるものである。このように、核兵器は明確に違法である」(409)
ハートが強調する、人類の活動のしかるべき目的は生存であるという点は、この法廷のもと首席判事であったナジェンドラ・シンの言葉にも反映されている。彼は核兵器に関する先駆的な研究の中で次のように語った。
「いかなる国であっても、一国が人類を束縛から救うために、人類自体を破壊することが必要であると主張することはまさに傲慢であろう。いかなる国にも、その行動において、不具になり苦しむ人類核戦争になれば避けがたいことだがの方が、尊厳の喪失核戦争の結果、尊厳の喪失どころですむかどうかはわからないがよりもましだ、などというむなしい期待のもとに、同類(他国)やその土地、住民を大規模に破壊する権利はない」(410)
同じ著書の中で、ナジェンドラ・シンは「そのような兵器に訴えることは、戦争法規と矛盾するばかりか、国際法自体とも相いれない」という見解を明らかにしている。(P17)
この問題に対するもうひとつの哲学的アプローチは、ジョン・ロールズの「無知のベール」という仮定のなかにみられる。これは、正義を公平さという観点から研究した、著名な論文のなかで提起されているものである(411)。
もし人が、そのもとで生きるための法制度を作ろうとする場合、ロールズによると、その法制度内の各構成員の将来の位置づけやありかたに関する決定が無知のベールの背後で行なわれなければならないとしても、構成員がその法制度をすすんで受け入れるだろうかという、その法制度の公正さが、試されるのである。
そのような国際法制度に従おうと考えている国が、自国が核保有国のグループに属するのかどうかわからないとき、もし他国の核兵器使用による自国の滅亡が合法化されているような法制度を受け入れるだろうとは、とても考えられない。もしその核兵器を所有する権利さえもはじめから否定されるなら、そんな国際法制度は、ますます受け入れられないであろうし、更に、自国が当事者でもないのに、核兵器で滅亡させられたり回復不能な損害を被る可能性があるとわかったら、そんな国際法制度はますますもって受け入れられないであろう。
核保有国のメンバーになることが、その国の運命であったなら、その国は都合のいい地位にいることになるだろう。しかし、もし非核保有国の一員になってしまうかもしれないとしたら、自らの地位に関して無知のベールの背後に置かれたままで、このような法制度を受け入れるだろうか。もし核保有国が、極限の緊急事態にしか核兵器を使わないという言質を与えたとしたら、事態は変わるだろうか。そのような約束をしても、誰も監視しようがない。この問いに対する答えは、明らかだ。このような法制度は、公平さと正当性を試されれば、間違いなく失格であろう。
以上のような哲学的洞察は、核兵器の使用の違法性が合理性あるいは公平さに基づく国際法制度の最小限の構成部分であるかどうかの問題を決定する上で、最も重要である。現代法理において、法が合理的か、公正かを問うことは広く受け入れられており、このいずれの点からみても、核兵器に適用される国際法の規則は、核兵器の使用は認められないというものになるだろう。
核兵器の合法性に関する議論において、このような基本的な考察は見過ごされがちである。国際法制度全体の有効性にかかわる本質的な問題であるから、上述のような基本的考察を放置しておくことはできない。
2.戦争の目的
戦争は、それ自体決して目的ではない。それは目的のための手段にすぎない。(人道法のV.3で)すでに言及したが、このことは1868年のセント・ピータースブルグ宣言の中で認められている。そこでは、敵の軍事力を弱めることが戦争の唯一の正当な目的であると規定している。この原則に沿って、人道法は、既に言及した規則、すなわち、「交戦国が敵に危害を加える手段をとる権利は、無制限ではない」という規則を作り上げた。(1907年ハーグ規則22条)
戦争法規の研究はすべて、戦争の目的とあわせて考えなければ意味がない。なぜなら、そうしてこそ、正しく背景を理解しながら、戦争にたいする制限について検討することができるからである。そこで戦争の目的という哲学について多少触れざるをえない。この問題に関する文献は、2千年以上も前からある。
並はずれた破壊力を持つ兵器について述べた中で、インドの2大叙事詩、ラーマーヤナとマハーバーラタに描かれているインドの古典的伝統については先に言及した。禁止を求める理由は、その兵器が戦争の目的を越えているというものだった。
これはまさに、アリストテレスが著書「政治学」の第七巻で、「戦争は平和に至るための手段に過ぎない、と考えねばならない」(412)と説いていることにほかならない。アリストテレスは、単に必要あるいは有用な行動と、それ自体善である行動を区別していたことが思い起される。平和はそれ自体善であるが、戦争は平和という目的への手段にすぎないのであると、アリストテレスは言った。求められている目的、すなわち平和がなくては、戦争は無意味で無駄なものになるだろう。これを核のシナリオにあてはめると、相手を破壊する戦争には、意味も効用もまったくない。従って、正当化の余地がまったくない。アリストテレスの戦争観によると、戦争とは正常な状態の一時的な中断であり、戦争が必然的に終われば、そこから新しい均衡が生じる。
1713年のユトレヒト条約以降、ヨーロッパの外交を支配した勢力均衡の原理は、敵を抹殺することではなく、敗戦国にも独自の地位を与え、実行可能な力のバランスを達成することを前提条件とした。クラウゼビッツが主張した、戦争とは外交の延長であるという極端な原理でさえ、敗戦国もひとつの独立した単位として存続することを前提としている。
国連憲章自体は、武力の使用は(自衛という厳格に制限された例外をのぞいて)禁止されるということ、また、憲章の目的は戦禍から人類を解放することであるという基本原則のうえに成り立っている。憲章が念頭に置いているのは、紛争当事国が和を結ぶことであって、当事国の全面破壊ではない。
核兵器は、上述の原理を無意味なものにしてしまう。将来、核による交戦がもし生じるなら、それは核兵器の独占がない世界で生じることになるだろう。核戦争は、日本の場合に生じたように、一国が核兵器を使用すれば終わるということにはならないだろう。特に、核攻撃を受けたならば即、自動的に核兵器による報復の引き金が引かれる世界では、必然的に核兵器による応酬が生じるだろう。
そのような戦争になれば、私たちが理解しているような国家が独自に生き残ることはできない。核の荒れ地をさまよう霊は、もしそんなものがいればだが、勝者と敗者双方にとりついて離れない、絶望の霊だろう。これは戦争の目的を越える戦争の方法論の一例である。
3.国連憲章のもとでの「武力による威嚇」の概念
国連総会によって付託された問題は武力の行使と威嚇に関連している。理論的には、最も原始的な兵器であっても、その使用による武力の行使は、国連憲章からみて違法である。それゆえ、核兵器による武力の行使が国際法に反するかどうかを検討しても無駄である。一丁のライフル銃の使用も禁止されているもとでは、核兵器が禁止されているかどうかを問うのはほとんど意味がない。
憲章の枠内での武力による威嚇の問題にはある程度の注意を要する。この問題について判断するには、憲章における武力による威嚇の概念を検討することが必要になる。
国連憲章の第2条4項は、国家の領土保全又は政治的独立に対する威嚇を禁止している。1970年の友好関係についての国際法の原則に関する宣言は以下のように再確認しているように:
「このような武力による威嚇又は武力の行使は、国際法および国際連合憲章に違反するものであり、国際問題を解決する手段として決して使用されてはならない。(総会決議2625XXV)」
威嚇は国際法の範疇にははいらないとの国際社会の理解を確認するその文書としては、1965年の「内政干渉の不容認および国家の独立と主権保護に関する宣言(総会決議2131(XX))」や、1987年の「武力の不行使の原則の拡大に関する宣言(総会決議42/22, パラグラフ2)」などがある。
国連憲章は武力の行使と威嚇の区別をしていないことに気づくべきである。両者は等しく法規にもとづく行為の範疇には入らない。
多くの国際的な文書が無条件で武力の行使の禁止を確認している。その中には、1949年の「平和のための不可欠な要素に関する宣言(総会決議290(IV))」、1970年の「国際安全保障の強化に関する宣言(総会決議2734(XXV))」、1988年の「国際平和と安全保障を脅かす恐れのある紛争や状況の阻止と解消およびこの分野での国連の役割に関する宣言(総会決議43/51))」がある。1975年のヘルシンキ最終文書は、加盟国に武力の威嚇と行使をしないことを求めている。ボゴタ協定(平和的解決に関する米州条約)は、調印国に「武力による威嚇と武力の行使をせず、対立の解決のためにいかなる強制的手段もとらない」ことをよりはっきりと求めている。
武力による威嚇をしないという原則は、このように、武力を行使しないという原則と同様にしっかりとした基盤を持ち、多くの文書によって、表現は異なってもいかなる例外も認められていない。それゆえ、抑止が威嚇のひとつの形態であるなら、それは威嚇の行使の禁止に該当されなければならない。
詳しい議論は抑止の概念に関するZの2に続く。
4.戦争法規の基本構造における平等
現在の国際法体系には構造的な不平等がいくつか組み込まれているが、国際法の実質、すなわち規範と原則は万人に平等に適用される。ある法体系が、完全で正当性を持ったものであるためには、万人の法のもとにおける平等が、その法体系の中心になければならない。したがって、万人の平等は国際法の総体を構成している諸原則と一体のものである。一方に強者のための法があり、もう一方にその他のための別の法がある、ということはありえない。そのような原理はいかなる国内制度でも容認されないし、平等の概念を前提としているいかなる国際制度でも容認されない。
アメリカのジョン・マーシャル最高裁長官の1825年の有名な言葉がある。「一般法の原則の中でも、もっとも普遍的に認められているのは諸国間の平等性である。ロシアとジュネーブは同等の権利を持っている」(413)。国際法体系のすべての部門で、この平等性が欠かせないのと同じく、戦争法の基本的構造にも、平等性が織り込まれているのである。
もう一つ矛盾がある。慣習国際法のもとで、核兵器の使用が合法であるとして、しかしその一方で国連加盟185カ国中180カ国が核兵器を所有する権利さえ否定されているのである。慣習国際法にはそのような不平等な運用はありえない。とりわけ、仮に、核保有国が主張するように、核兵器の使用が自衛に不可欠であるとするならば、なおさらである。自衛は国家のもっとも大切な権利であり、国連憲章第51条は、国連加盟国の固有の権利であると認めている。したがって、国連という家族の構成員ごとにその権利の度合いが異なるなどという意見は断じて受け入れることはできない。
事実上の不平等はつねに存在するし、国土、力、富、影響力などに差がある主権国家が国連を構成している限り、存在しつづけるであろう。しかし、事実上の不平等を法律で定めた不平等と解することには、論理の大きな飛躍がある。たとえば、ジュネーブ条約の議定書が核兵器の使用禁止をうたわなかったことで、核保有国による核兵器使用の合法性が暗に認められたのだ、という主張など、まさにこの論理の飛躍にあたる。核兵器の禁止を明示的に宣言しないことの意味するところは、この問題を扱わないという合意であって、核の使用は合法であると同意したわけではないのである。アメリカやイギリスは、1949年のジュネーブ4条約への1977年追加議定書によって確立あるいは導入された規定は核兵器の使用を規制も禁止もしていないという「理解」にたっている。しかし、これらの条約よりも前から存在し、これらの条約によって明確に表明されることになった基本的諸原則は、このような英・米の「理解」によって揺るぐものではない。これらの条約の根底にある概念的、法的論拠は、こうした諸原則を侵害しない。これらの条約に[核兵器の使用にかんして]なにも規定がないということをもって、これらの諸原則をくつがえすものであるとかこれら諸原則に優越するなどと考えることは不可能である。
同様の考え方は、核兵器の部分的禁止を課している条約は、暗黙のうちに核兵器の合法性を現在のところは受容していると解釈すべきだ、という議論にもあてはまる。
この議論には十分な根拠がない。なんともし難い不可避な状況の中では、実際的な取り決めをしたからといって、そのような状況を承認したわけでもないし、その状況の合法性を認めたわけでもない。そのような状況では、その状況の有効性を認めることはできない。マレーシアはこれを、麻薬使用者のあいだでの病気の蔓延を減少させるための注射針交換計画にたとえている。このような計画は、麻薬乱用の合法性を認めるものと解釈することできない(陳述書p.14)。重要なことは、核兵器に関する数多くの決議や宣言があるが、それらのなかに、いかなる目的であっても、核兵器の使用を認めたものはただの一つもないことである。
いくつかの国だけに化学兵器や生物兵器を自衛のために使用する権利があり、その他の国々にはない、などという法規などはまったく考えられない。いくつかの国が自衛のために核兵器を使用しうるという主張についても、この原則は同様である。
この関連で考えるべきもう一つの重要な点は、国連は定義からいえば任意的な共同体だということである。いかなる構成国も他の構成国を上から束縛することはできない。そのような構造は、平等を基本的前提にしない場合をのぞき、まったく不可能である。でなければ、「法がもっとも強い者の意志の表現になってしまう危険がきわめて現実的になる」(414)
国際法の総体が、国際社会において多岐にわたる有益な機能を発揮するのに必要な権威を保持しようとするならば、あらゆる構成要素の平等という試練に耐えられなければならない。構造的不平等が国際法体系にいくつか組み込まれているのは確かだが、しかしそのことと、すべての国が一様に支配される実定法に不平等を持ち込むこととはまったく違う。
上述の議論は、いかなる国家によるものであれ、いかなる状況のもとでにせよ、核兵器の使用は完全に違法であるという文脈の中での陳述であることは、いうまでもない。まさにこのような意味においてのみ、国際法の根底にある平等の原則が、核兵器という重要な国際問題にも適用されうるのである。
5.戦争法規における二重性の論理矛盾
人道法が核兵器に適用されないとすると、二種類の兵器が同時に使用されうるのに、戦争に関する法がある種の兵器には適用され、その他の兵器には適用されないという論理矛盾に直面する。核兵器にはある一連の諸原則が適用され、その他の兵器には別の一連の諸原則が適用されることになってしまう。両方の種類の兵器が同じ戦争で使用されれば、武力紛争に関する法は混乱してしまうであろう。
日本は、両方の兵器が使われた国であり、この側面に最初に注目したのが日本の学者であったことは当然である。藤田教授はわれわれが参照した論文のなかで、以下のように述べている。
「通常戦争に関する規則と核戦争に関する規制を区別すると、容易には想像しにくい奇妙な結果をもたらすであろう。なぜなら、通常兵器と核兵器は結局は、将来の武力紛争で同時に、そして同じ状況で使われることになるだろうからである」(415)
このような二重性はいかなる法の原則ともあいいれない。また、すべての兵器に適用される法体制からなぜ核兵器を除外すべきなのか、本質的な理由が提示されたことはなかった。唯一示された理由は政治的な理由、あるいは一時しのぎの方便であり、いかなる裁判所も、法理学に一貫した姿勢を貫く者も、そのような二分法を受け入れることはできない。
これとの関連で、核兵器の違法性を否定する国ですらその軍隊にたいして、軍事教範のなかで、武力紛争において他の兵器に適用されるのと同じ基準にしたがって核兵器を判断するように指示している、ということは注記に値する(416)。
6.核兵器使用の意志決定
地球規模の破壊という巨大な可能性を考慮すると、核兵器使用が適法か否かを決定する上で考慮すべき要素の一つは、核兵器使用に関する意志決定過程である。
核兵器使用の決定は、行われるとするならば、精密な法律的評価をする余裕などない状況のもとで行われるであろう。それはおそらく、感情が高まり、時間的余裕はなく、事態は不明瞭といった状況であろう。すべての関連情勢を細部にわたって冷静に評価し、熟慮の上慎重に下された決定とはならず、異常なプレッシャーとストレスのもとの決定となろう。慎重な評価を必要とする法的事項は、本法廷が数カ月にわたって取り組んできたほどの複雑さだが、数分のうちに、おそらくは法律の教育を受けた要員ではなく、軍人によって決定されねばならないかもしれない。人類の運命がそのような決定に左右されるようなことがあってはならない。
核の意志決定過程についての研究が実際に行われてきた。それらによれば、核の危機には4つの特徴がある(417)。その特徴とは以下の通りである:
1.非常に重大な決定をするに際しての時間の不足。これはすべての危機の基本的側面である。
2.大きな利害が関係している。とりわけ国益の重大な損失が予想される。
3.はっきりした情報、たとえば何が進行しつつあるのか、敵のねらいは何かなどについて、十分な情報がないことから生ずるこのうえない不確実さ。
4.指導者はしばしば政治的考えに拘束され、選択の余地を狭めてしまう。
指導者がこのような雰囲気のなかで行動することを余儀なくされ、判断の指針がないまま合法かどうかという難しい問題を考えざるをえないとしたら、核兵器使用は違法となる可能性が大きい。
この兵器はあらゆる場合において違法であると、明確に宣言されるべきであると私は考える。もし、一定の状況には核兵器が合法であるとするならば、たとえ合法と判断される可能性が小さくとも、そのような状況は特定されなければならない(でなければ、混乱した状況はいっそう混乱する)。
Y 核兵器にたいする国際社会の態度
この点も、人類の良心や、文明諸国に承認されている法の一般原理等の重要な考慮事項に加えて、無視できない。なぜなら国際連合の法は、国連諸国人民の意思に由来するからである。国連発足いらいこのかた、この加盟諸国がこれほど一貫した広範な関心を寄せた問題はなかった。アパルトヘイトはごく最近まで関心が集中した、重大な国際問題の一つではあったが、核兵器にたいする一貫した関心のほうがおそらくより深い流れであったし、核兵器のもたらしかねない結果への嫌悪は普遍的なものであった。世界中からの核兵器否定の声は、押し寄せこそすれ、引くことはなかったし、この兵器が世界の兵器庫に存続するかぎり反対の声は今後も弱まることはないに違いない。
1. 完全廃絶という最終目標の普遍性
国際社会の核兵器に対する態度は、「核兵器は文明を脅かすものであり、廃絶されなければならない」、と明快である。国連総会でも、核兵器の完全廃絶の必要性をテーマとする明確な決議が何度か採択されており、それはこの意見のなかでもいたるところで言及されている。
この問題に関する一番新しい国際社会の宣言は1995年の核不拡散条約(NPT)再検討会議のときのものであり、「核不拡散と軍縮の原則と目標」という宣言のなかで、「核兵器の完全廃絶という究極的目標と全面完全軍縮に関する条約」を強調している。これは国際社会の一致した気運の表明であり、この兵器の完全廃絶達成のために各国はそれぞれ可能なあらゆる努力をするという明快な誓約である。
NPTは核兵器保有を合法化するどころか、核兵器を清算し、やがて廃絶するための条約であった。その前文は既存の貯蔵兵器の清算と各国の兵器庫からの一掃をはっきりとうたっていた。現在みられるような保有の継続は絶対的なものではなく、核軍拡競争の早期停止のための効果的措置に関する交渉を誠実に追求することが最優先の条件として付けられていた。この条件と条約全体の本質は、核兵器を許容することではなく、糾弾し拒絶することであった。1970年3月5日にNPTが発効したときも、1995年にNPT再検討・延長会議がひらかれたときもそうであった(418)。
1995年のNPT再検討会議は、それが体現した普遍性においても、表明した誓約(コミットメント)の度合いにおいても、目新しいことはなく、まさに1945年の国連の第1号決議に表明された観点を強調したにすぎない。国連結成から今日まで、核兵器廃絶という普遍的な誓約が存在してきたといってもよい。それはこの兵器にたいする普遍的憎悪、この兵器がもたらす破滅的結果からすれば当然の誓約である。
2.全面廃絶を圧倒的多数が支持
この観点(完全廃絶支持)を何よりも明快に表現しているのが、幾多の国連総会決議である。完全廃絶に対して強い支持があるということを背景にして、適応性に必要な考察を行いたい。
圧倒的多数の国々は核兵器に反対であり、その完全廃棄を求めていることは論議をまたない。
1946年1月24日の国連総会の第17回本会議で採択された第1号決議に基づき、ある委員会が任命されたがその権限は、ほかでもない、「原子兵器およびその他すべての大量破壊兵器を各国の兵器庫から一掃する」ための特別提案の作成であった。
1961年、ベオグラードで開かれた非同盟諸国首脳会議はあらゆる核実験を全世界で禁止する必要性を明確に宣言した。非同盟運動はアジア、アフリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパの113カ国からなり、その領土内には世界人口の多数を抱えるだけではなく、地球上の天然資源や多様な生物の相当量を有している。核兵器の廃絶をその目標に掲げ、一貫して国連総会その他国際会議でのこの目的のための一連の決議(419)を支持してきた。圧倒的多数の国が核兵器の不使用を訴えていることからして、この点において国際社会が全体的にどのような感情を持っているかについては疑問の余地はない。
本法廷に出廷した諸国は、国連の圧倒的多数の加盟国の核兵器に対する態度が示されている国連総会の決議や宣言を法廷に提出した。それらの決議のなかには核兵器の使用は国際法違反であると述べているのみならず、人道にたいする犯罪であると主張しているものもある。
後者の決議(人道にたいする犯罪と述べているもの)としては、核兵器の不使用と核戦争防止決議がある。1978、79、80、81の各年に、賛成がそれぞれ103、112、113、121、反対が18、16、19、19、棄権がそれぞれ18、14、14、6で採択された。これはまさしく圧倒的多数の賛成といっていい。(マレーシア提出の書面の付録4参照)
核兵器廃絶を目標とした決議は多数ある。ある国(マレーシア)は提出書面のなかで、そのような決議を49も挙げている。そのいくつかは同じような圧倒的多数の賛成で、あるいは反対ゼロ、棄権が3ないし4で採択されたものもある。たとえば、核兵器非保有国にたいして核兵器による威嚇あるいは使用を行わないことを保証する効果的な国際的取りきめの締結にかんする決議は1986年と87年に、賛成がそれぞれ149と151、反対ゼロ、棄権がそれぞれ4と3で採択された。核兵器の完全な廃絶を目標に掲げた決議は、核兵器は国際社会の全体的利益にとって有害であると世界中が思っていることを示すものである。
国際社会を代表する機関である国連総会の宣言は、それ自体は法にはならないが、これまでのように、何度も繰り返して明確な内容の決議が採択されれば、慣習国際法のもとでは、核兵器による威嚇または核兵器使用は許されない、という見解への重要な補強となる。核兵器の使用、威嚇に反対する意思表明が、ほかにも国際的な場でなされていることと合わせて考えると、慣習国際法における核兵器使用、威嚇の違法性が更に確実になる。国連決議のいくつかがそれ自体「立法」決議であるかどうかについては、真剣な検討を要するが、国連決議には立法性があるとする説には、学会でも相当の支持がある(420)。
これらの決議を推進したのは主要には非同盟グループであるが、このグループ以外の国々からも違法性を支持する意見が表明された。そのなかには本法廷で核兵器の違法性を主張したスウェーデン、サン・マリノ、オーストラリア、ニュージーランドなどがある。さらに、核兵器の違法性を主張しない国のなかでも、意見は大きくわかれている。たとえば、本法廷で言及されたとおり、イタリア上院は1995年7月13日に、本法廷が核兵器の使用を断罪する判決をだすことをイタリア政府が支持するよう勧告した決議を採択した。
また、国連加盟の185カ国のなかで核兵器を保有し、核を背景にした政策を宣言しているのはわずか5カ国であることも想起すべきである。国際慣習の確立という観点からみると、この5カ国の世界的影響力がいかに大きくとも、185カ国中の5カ国の慣行と政策だけでは国際慣習が作られるもととしては不十分と思われる。マレーシアはつぎのように述べている。
「人道法と公的良心が命ずるところがそのような兵器の禁止を要求するなら、核保有5カ国がいかに強大であろうと、それに抗することはできない」(CR 95/27, p.56)
このような圧倒的多数の国の意見を前にして、核兵器の使用あるいは使用の威嚇に反対する法的見解はないとは言いがたい。そのような使用あるいは威嚇の合法性を支持する法律見解があると主張することは間違いなく困難である。
3.世界の世論
以上のような公的意見に加え、圧倒的に広範な世論が全世界に広がっている。核兵器にたいする強力な抗議が学界、専門家グループ、宗教各派、女性団体、政党、学生連合、労働組合、NGOなど、世論を代表するあらゆるグループからわきあがっている。その数は世界で数百にのぼる。以下にそのような広範な団体のほんの一部を示す。核戦争防止国際医師の会(IPPNW)、核兵器反対医学者運動、核兵器反対科学者の会、核軍縮をめざす人々の会、反核国際法律家協会(IALANA)、芸能・芸術家核軍縮インタナショナル、核戦争に反対する社会学者の会、非核の未来をめざす会、欧州反核兵器連盟、核時代平和基金、核軍縮運動(CND)、核軍縮のための子供の運動。これらの組織はあらゆる国々の、あらゆる階層を網羅し、地球全体に広がっている。
本法廷に寄せられた何百万もの署名については、この意見の冒頭で言及されている。
4.現在の禁止措置
地球表面の大部分、その上の全空間、海洋の水面下の区域は核兵器のプレゼンスそのものが法的に禁止される領域となった。これをもたらした条約は、1959年の南極条約、ラテン・アメリカとカリブ海地域に関する1967年のトラテロルコ条約、南太平洋に関する1985年のラロトンガ条約、そしてアフリカに関しての1996年のカイロ条約がある。さらに、大気圏と宇宙空間における核兵器を禁止する条約と、1971年の海底およびその下の地中への核兵器その他の大量破壊兵器の配備を禁止する条約(CR 95/22 p.50)がある。この惑星が人類の活動に割り当てた全領域のうちの大部分はこのように非核地帯として宣言されている。それは核兵器の危険が制御不可能であり、完全な廃棄が必要であるとの共通の合意がなければ達成されなかった成果である。
5.部分的禁止
同様に、そのような世界的に共通の感情がなければ、核兵器の部分的禁止と削減の概念も今日の成果を達成できなかったであろう。この措置で重要なものとしては、大気圏での核実験を禁止した1963年の部分的核実験停止条約と1968年の核不拡散条約がある。これらの条約は一定の状況での核実験を禁止しただけではなく、核兵器の水平拡散を防止するために、核保有国、非核保有国双方に一定の法的義務を課した。現在交渉中の包括的核実験禁止条約はすべての実験の廃止をめざしている。START(戦略兵器削減交渉)協定(STARTTとSTARTU)は、アメリカとロシアの核兵器をそれぞれ毎年2千ずつ減らしていくことで、かなりの削減をすることをめざしたものである。
6.最大の当事国はだれか?
核保有国がもっとも影響を受ける国であるなら、たとえ数の上では国連加盟国185カ国の少数(2.7パーセント)であるとしても、それらの国々の反対意見は考慮すべき重要な要素である。
もっとも影響を受ける国は自分たちであるという点は、核保有国によって強調されてきた。
しかし、核兵器に関して核保有国がかならず最大の当事国であるという前提に即座にとびつくべきではない。核保有国は核兵器を保有しているが、しかし、いったん核兵器が使用されたときに影響をうける国々を考慮の対象から除外してしまうのは非現実的である。この国々も、核保有国に劣らず、核兵器が使用されたなら、その領土と国民が核兵器の被害を受ける危険にさらされるのであるから、やはり最大の当事国となるであろう。この点はエジプトが提出文書で述べている。(CR 95/23, p.40)
核保有国が特に最大の当事国であるという主張の有効性を検討するために、核実験の場合を取り上げることは有意義であろう。大国が遠隔地の植民地で核実験を行い、管理が不十分で放射性物質があきらかに漏れたと仮定してみよう。そのような実験の違法性にもとづき影響を被った国が抗議するとして、もしその大国が核兵器の所有者であるがゆえにもっとも影響を被った国であるとの主張をするならばそれはまったく奇妙なことになるであろう。疑問の余地なく、被害を受ける側にある国がもっとも影響を受けるのである。実際の戦争でも同じ事がいえる。空中で炸裂した核兵器からの放射能は目標とされた国だけに封じ込めることはできない。近隣諸国が、核爆弾の所有国よりむしろ自分たちこそもっとも影響を受ける国であると主張するのはまったく正当である。
この論点は、その領土上で核爆弾が実際に爆発する国の抗議とはまったく無関係に、有効である。この後者の論点の妥当性は、1945年以来のいくつもの戦争のうち核保有国のうちのどこかで戦われたのは一つとしてないことをみればあきらかである。これは、最大の当事国という問題を吟味するさいに考慮さるべき状況である。
核保有国であれ非核保有国であれ、いかなるグループも、自分たちの利益がもっとも影響を受けるとはいえない、というのがこの問題でのバランスのとれた見方である。世界のすべての国は核兵器の影響を受けるのであり、なぜなら生存という問題にかかわるとき、それは世界的関心事であるからである。
7.地域的条約に参加している諸国は核兵器を合法とみなしているのだろうか?
アメリカ、イギリス、フランスはそれぞれの書面で、ラテンアメリカとカリブ海地域での核兵器の使用を禁止するトラテロルコ条約などの地域的条約に調印するということにより、調印した国々は核兵器使用は一般的には禁止されていないと暗に示しているのだ、とする立場を取っている。
そのような条約への加盟国はその地域において核不拡散体制を確立し、強化しようとしている。なぜなら、それらの国々自身が核兵器の一般的な違法性を認めていないからではなく、好核諸国の側が認めていないからである。
数多くの国連総会決議の採択時にとった立場を見れば、こうした地域諸国の見解が明確にわかる。たとえばコスタリカなどの国々は、核兵器の使用は人道に対する犯罪であり国連憲章違反と国際法違反の双方あるいはいずれかにあたるという立場から投票した。
まさに、条約そのものの文言に、署名国の核兵器にたいする態度が明確に示されている……すなわち核兵器は「人間という種の完全性にたいする攻撃」であるとのべ、それは「究極的には地球全体を居住不可能とさえしかねない」と明言している。
Z いくつかの特殊な要因
1.核不拡散条約
核不拡散条約(NPT)は暗に核兵器の合法性を認めている、なぜならすべての加盟国が反対なしに核大国の核兵器保有を受容しているからだ、という説がある。この論は無数の疑問を生じさせている。そのなかには以下のものがある。
(i) すでに述べられているように、NPTは核兵器の「使用あるいは使用の威嚇」には何の関係もない。核兵器の使用の権限も、あるいは使用の威嚇を行う権限も、どこにも見出されない。
(ii) 同条約は、「引き下げ状況(訳注:当面の削減策の実施が求められている状況)」のなかで作られたものである。当時世界は膨大な数の核兵器が存在し、それらが拡散するかもしれないという状況に直面していた。国際社会の当面の目標はこの兵器の蓄積量を引き下げることであった。
いくつかの国々が法廷への陳述書のなかで強調したように、この条約は、国際社会が承認しようがしまいが、少数の核保有国と大多数の非核保有国が存在するという現実を背景に作成されたものである。現実に、核保有国は自国の兵器を放棄しようとせず、拡散が重大な危険となっており、核兵器の廃絶という共通の最終目的を認識する一方で、拡散を防ぐためには可能なあらゆる手段がとられねばならなかった。
(iii) すでに見たように、ある状況が不可避であると認めることはその状況を承諾することではない。というのは、無力なゆえに望まぬ状況を回避できず、受け入れたとしても、それは、その状況に対して同意するということとはまったく異なるからである。
(iv) この、当面、できる限りにおいて核兵器を減らしていこうという状況においては、保有する権利が、使用あるいは使用の威嚇をおこなう権利を意味するという暗示があろうはずがない。保有の権利があったとしてもそれは、兵器の蓄積が引き下げられるまでの一時的で限定された権利だったのである。
(v) 同条約の前文は、この条約の目的を以下のように明確に述べている。
「核兵器の製造を停止し、貯蔵されたすべての核兵器を廃棄し、ならびに諸国の軍備から核兵器及びその運搬手段を除去する・・・・・・」。
この前文は、それが核保有国・非核保有国を問わずすべての加盟国の一致した見解を表していることに留意すべきであるが、核兵器の戦時における使用を「全人類に惨害をもたらす」と表現している。
これらは、以下のことを明確に示している。すなわちこの核不拡散条約は、核兵器の正当性を認めるものであるどころか、実際には、核兵器の完全廃絶を目的とし、すでに存在する核保有を削減するための、国際社会による集中した努力だったのである。ある兵器の廃絶に向けたこのような一致した認識と協調した行動がとられたことは、核大国の兵器庫に引き続き存在する兵器を正当だと国際社会が認めたとする考えとは、まったく相反する。
(vi) この条約によって保有が正当化されたとしても、その正当性は一時的なものであり、保有をこえるものではない。条約の範囲と文言は、それが全く一時的な保有の状態であり、それ以上ではないことを明白に示しており、それに対して締約国は自らの同意を与えたのである。その同意は、すべての 調印国があるまじきものであり廃絶されねばならぬとみなしたこれらの兵器を廃絶するために、核保有国が最大限の努力をおこなうという約束と引き替えに与えられたものである。ここにおいては、権利 の承認は存在せず、事実 があるのみであった。その事実の合法性は容認されなかった、というのは、保有が合法ならばその代償すべての核保有国が核兵器廃絶のために全力を尽くすという誠実な努力を要求する必要はなかったからである。核兵器があるまじきものであるということは、この条約全体の大前提となっている。
2.抑止
抑止については、すでにこの意見の中でNPTとの関係において触れた。しかし、抑止は法廷の意見が求められた事項の一つである使用の威嚇にも関係しているため、他の諸要因にも注意を払うべきであろう。
(i) 抑止の意味
抑止とは、本質的に、抑止にうったえる側が世界の他の国々にたいして威嚇を行なっていることを意味し、これはつまり、自国が攻撃された場合には、どの国に対しても核の力を使うつもりであるということである。この概念はさらに検討を要する。
(ii) 抑止何にたいする?
核兵器に関して言われている抑止とは、戦争 という行為に対する抑止であり、ある国が反対している行動 に対する抑止ではない(421)。
抑止を目的とした核兵器保有の危険の一つは、この二つの区別をあいまいにしてしまうことであり、他国による歓迎されざる行動を抑止する目的のために核兵器が発揮する力を使うことである。この議論はもちろんあらゆる種類の軍備にあてはまるし、核兵器の場合はなおさらのことそうである。ポラニー(注421の筆者)が述べているように、抑止力の要因のなかでもっとも恐れられているのは、戦争を抑止するという限られた目標をこえて、歓迎されざる行動を抑止するまでに、その力を拡大して使おうという誘惑である(同)。
たとえば、抑止力は、ある国の「死活的利益」を守るために使うことができる、という意見がある。死活的利益とは何なのか、誰がそれを定義するのか? それはたんに商業的利益なのか? 他国内に、あるいは世界の他の地域に存在する商業上の利益でもよいのか?
これに関して言われるもう一つの文句は「戦略的利益」である。いくつかの陳述書が、一国の死活的利益が脅かされた時に、爆発力の低い「警戒的爆発」を使用することでもたらされるいわゆる「副次的戦略的抑止」について触れている(たとえばCR 95/27, p.53のマレーシアの陳述書を参照のこと)。この個別意見では、このような類の抑止力ではなく、戦争行為にたいする自衛という意味での抑止力について扱う。
(iii) 抑止の諸段階
抑止には、最大限抑止から最小限あるいは最小限に近い抑止戦略とよばれるものまでさまざまな段階がありうる(422)。最小限抑止は、次のように表現されている。
「ある国(あるいは複数の国々)が、核攻撃を被った後でも、敵に対して受容しがたいほどの損害を与えることのできる最小限の数の核兵器を維持するという核戦略」(423)
抑止力原則は、ブラウンリー教授が述べているように、大量 報復の威嚇に依拠している。
「実行に移されれば、この原則は、実際の威嚇とは不釣り合いなほどの反応を引き起こすだろう。このような不相応な反応は、国連憲章第51条で許された自衛を構成するものとはならない」(424)
同教授はまた次のように述べている。「抑止力としての核兵器の主要な目的は、無情で不快な報復であるそれは戦争の兵器というよりはテロの道具である」(425)
呈されている問題は、核兵器の使用がいかなる 状況の下においても適法であるかどうか、であるので、最小限抑止について検討しなければならない。
(iv) 最小限抑止
抑止にまつわる問題のうちの一つは、ごくささいな種類のものであれ、一方の側は防衛的とみなす行動でも、他方にとっては簡単に威嚇と受けとられがちだということである。このような状況が、関連する兵器の種類を問わず、従来の軍拡競争の典型的な背景となってきた。核兵器の場合には、核軍拡競争のきっかけとなり、多様な法律上の懸念を生じさせる。最小限抑止でさえ、このように対抗抑止に、さらに、核兵器実験や緊張の悪循環の一途へとつながるのである。ゆえに、もし抑止に対して法的反対意見があるとすれば、それらの反対意見は、その抑止が最小限であるということで片づけられるものではない。
(v) 信頼性の問題
抑止は、攻撃された場合にはこちらには核兵器を使う意志が実際にあるという確信を、相手側に対して与えることを必要とする。たんなるはったりではこの意図は伝わらない、なぜなら、一方の側が真にその意図を持っていない限り、相手側にそれを納得させることは難しいからである。よって抑止とは、そのような兵器を使用するという実際の意図(426)のうちに存在する。もし抑止が作用するなら、それは想像上の世界を離れ、真剣な意図に基づいた軍事脅迫の場となる。
よって、抑止は、核兵器の使用脅迫が合法かというだけでなく、使用 が合法かどうかについても疑問を生じさせることになる。抑止に必要なのは敵方の確証的破壊であるため、抑止はかくして、戦争目的をこえた領域のなかに現れる。さらに、武力攻撃にたいする瞬時の反撃においては、適切な戦略核ミサイルを綿密に等級付けして使ったり、最小限の損害をおよぼすような「クリーン」な兵器の使用などは、実際ありそうなこととは思われない。
(vi) 保有と区別される抑止
抑止の概念は、たんなる保有より一歩すすんでいる。抑止は、たんに倉庫に兵器を蓄積する以上のものであり、実際の使用に備えた状態での兵器の保持を意味する。つまり、即座に発射できる兵器を、即時の行動に適応した指揮管制システムと結合することを意味している。兵器は運搬手段に積載されており、指令を受け次第直ちに実戦に使えるよう、要員が昼夜準備態勢に入っていることを意味している。倉庫に貯蔵されている兵器と、即時行動に準備された兵器との間には明確に、非常に大きな違いがある。たんなる保有と抑止とは、かくして明確に区別されうる、違った概念である。
(vii) 意思の法的問題
すでに概説した種々の理由から、抑止は恐怖を与えることを意図した兵器の貯蔵ではなく、使用を意図した蓄積であることがわかる。ある者が兵器を使用する意思をもっているとすれば、国内法、国際法のいかんを問わず、法律的に意図 に付随するすべての結果が発生することになる。その者は、結果としてもたらされる損害あるいは破壊を起こそうという意図をもっているのである。敵の全面的破壊をもたらしたり、実際に完全に抹殺してしまうような損害を起こそうとの意図は、明らかに戦争の目的をこえている(427)。そのような意図があるということは、威嚇という概念にどのような精神的要素が内在しているかを示している。
しかし、不法あるいは犯罪的な行為を犯そうとの意思が秘密裏に抱かれている時は、その意志が相応する行為に至らない限りあるいは至るまでは、法的な結果はもたらさない。よってそのような秘密裏に抱かれた意思は法律違反とはならないかも知れない。しかし、もしその意思が直接あるいは間接的に表明されたとしたらそれは、問題とされている違法行為を犯すと脅迫することになり、犯罪行為となる。
抑止は、その定義からして、秘密裏に抱かれた核兵器使用の意図とはまったく相反するものである。抑止は、ことばであるいは暗に、核兵器を使用する 真剣な意図があることが伝達されなければ、抑止にならない。それゆえ、これは使用の威嚇 に近い。ある行為が不法であれば、それを犯すと脅迫することと、さらに言えば公けに発表された脅迫もまた、不法であることは間違いない。
(viii) 抑止のために維持されている核兵器の使用の誘惑
抑止のもうひとつの側面は、この目的で維持されている核兵器の使用への誘惑である。当裁判所へは核兵器が使用されかねなかった無数の例が寄せられたが、そのうちもっともよく知られているのはキューバミサイル危機であろう。寄せられたうちの米国防総省文書に基づく研究は、1946年から1980年にかけて核兵器使用の可能性のあったそのような無数の例を列挙している(428)。
(ix) 抑止と主権の平等
これについてはすでに扱った。もし自衛の権利において平等の原則を認めるのであれば、すべての国々が何らかの特定の兵器を使って自衛する権利を持つのか、あるいは、どの国もその権利を持たないのかのどちらかである。第一の選択肢は明らかにとてもありえない。とすれば第二の選択肢が、必然的に唯一の有効な選択肢とならねばならない。
すでにおこなった化学兵器、細菌兵器との比較は、(核兵器についての)この例外的状況を際立たせている。なぜなら、国際法の原則とは、国際社会の全範囲にわたって一律に効力を及ぼすものであるはずだからである。核兵器がなぜそれとは異なる制度に属するのかについては、これまで何の説明もなされていない。
(x) セント・ピータースブルグ原則との矛盾
すでに見たように、セント・ピータースブルグ宣言は、その後それにならったあるいはこれを支持した無数の文書(V.3参照)のもととなったが、国家が戦争において達成につとめる唯一の正当な目的は敵の兵力を弱めることにあると宣言している(この点については、X.2を参照)。抑止力論は、これをはるかにしのぐものを目的としているこれは、主要な都市部と人口集中地域の破壊、そして「相互確証破壊」をまでも目的としている。特に冷戦のあいだは、この理論のもとでミサイルが準備態勢に置かれ、ライバル国の主要都市の多くを標的としていた。このような政策は、セント・ピータースブルグにおいて厳粛に承認され、国際社会によって繰り返し支持された諸原則からまったく逸脱している。
3.復仇(=報復)
当裁判所は勧告的意見のなかで、近代国際法の集成において復仇の原則が受容されているかどうかについて意見を表明していない。私は、法廷がこの機会を利用して、今日の国際法のもとでは戦時であれ平時であれ、復仇が認められていないことを確認しなかったことを残念に思う。
ここで私は、復仇の権利の合法性を現代の国際法が政策として認めているという意見を、自分が受容していないことを、明確にしておきたい。
攻撃に対する反応としての行動であっても、他のすべての軍事行動と同様に戦争法規を遵守せねばならないという原則にたいして、復仇という概念は例外を設けうるものであろうか?
「国家間の友好的関係と協力の原則に関する宣言(1970年国連決議2625号)」は、「諸国は、武力行使を伴う復仇行動を差し控える義務をもつ」と明確に断言している。
ボーウェット教授は、次の文章の中で強くこの主張を押し出している。
「国連憲章のもとでは復仇として武力を行使することは違法であるという提議ほど、国際法についての定説のなかでも多く支持されているものは、他にはほとんどない。じっさい、<復仇>や<報復>という文言は憲章の中には出てこないが、この提議は一般的に、国連憲章第2条4項に定められた武力行使の禁止、第2条3項が命じている紛争の平和的解決、そして国家が自衛のために許される武力には制限があることの、論理的かつ必然的な帰結であると文筆家や安保理事会によってみなされていた」(429)
これは非のうちどころのない見解であるが、さらに、核兵器は、それが必ずもたらす破壊の甚大さゆえに特別の問題を生じさせる、ということを念頭に置くべきである。いずれにせよ、全く異なる戦争行為の筋書きのために展開された理論は、一定の再検討をおこなうことなしには、核兵器にはほとんど適用不可能である。
ブラウンリー教授は、この点について、次のような言い方で述べている。
「まず最初に、核兵器を戦略的及び抑止的目的で使用する交戦は、全面戦争行為に匹敵するものとなり、撃ち合いそのものが戦争の目的となる。通常兵器戦争の戦域の詳細に関する理論を、このような打ち合いにまで拡大することはまったく正当ではない」(430)
これらの復仇権の存在に対する強力な法的反対意見は、ほかの2つの要因によっても支持されている復仇にたずさわる側の行為、そして復仇の対象となっている側の行為である。
復仇にたずさわる側の行動は、その唯一の正当な目的が上記のとおりであることから、適度なものでなければならない。どんな特別の意図があったとしても、怒りや復讐心にまかせてあらん限りの核兵器を使うなどということは絶対に阻止されねばならない。これに関して、オッペンハイムの所見について言及することは有益である。彼は、さまざまな歴史的事例を検討した後、次のように結論づけている。
「復仇は、正当な戦争行為を確実にする方法ではなく、戦争法の根幹を成している事柄全体を冷笑的に侵害するための有力な道具となるかもしれない」(431)
引用されている歴史的事例は、とりわけ、仏独戦争、ブール戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦において、報復の原則にもとづいて正当化がねらわれた非常な残虐行為に関連したものである(432)。これらはすべて、武力行使においては戦争法規が防止するべき対象である残忍性、冷笑性、自制の欠如が伴うことを証明している。戦争法規の発展過程を生き延びたかもしれないこのような報復の権利の断片はすべて、この個別意見のなかで論じられたように、核兵器のもつ本質によって根絶された。
歴史を何らかの導きの糸とすれば、復仇にたずさわる側は実際にそのような「復仇の権利」本当にそのような権利があるとすればだがを行使するだろう。それも、報復の目的や限度、つまり戦争法規を遵守するという限定された目的を全く無視して。
つぎに、この権利を行使される相手となる側つまりすでに戦争法規を無視した側の行動についてだが、上述のような報復を受ければ、それが刺激となって手持ちの核兵器をすべて使用することになろううもちろんそれらが全滅させられていなければの話だが。
このような状況のもとでは、核攻撃にたいする復仇の手段としての核使用の合法性を認めよ、と当裁判所に求めることは、自制もない、恣意的な核兵器使用を許す原則を尊重せよ、と求めるのに等しい。
復仇のドクトリンの、たとえあるとしても唯一の正当化論は、それが適法な戦争行為をおこなうための手段であるというものである。しかし、核兵器を使用すれば戦争の適法性確保など不可能であることは明白であるから、主張されている例外にとってのこの唯一の理由も消滅してしまう。立法の根拠が消滅すれば、法そのものも成立しない。
4.国内の戦争
当裁判所に問われた質問は、いかなる 状況においてもの核兵器使用に関するものであった。当裁判所の勧告的意見は、内戦について触れていない。核兵器使用はすべての状況において禁止されているというのが私の見解である。
対外戦争における核兵器使用を禁止している人道の法律原則は、国境を越えた時点で初めて効力を持つわけではない。それは国内でも同様に適用されねばならない。
4つのジュネーブ条約に共通している第3条は、同条約に加盟している列強のうち一国の領土内で起こる、国際的な性格を持たないすべての武力紛争に適用される。内戦に関する1977年の第2議定書は、マルテンス条項と似かよった言葉で述べられており、「人道の諸原則及び公共良心の要求」に言及している。
このように国際法は、国内と外部の住民とを、原則として区別していない。
さらに、ある国によって核兵器が国内で使用されたとすると、これまでに述べたような核兵器の効果についての分析から明らかなように、そのような国内的な使用が及ぼす影響は国内だけにとどまらない。チェルノブイリ事故が証明したように、広範囲にわたって外国へも影響を及ぼすであろう。
5.必要性のドクトリン
必要性のドクトリンは、違法な戦争行為への報復としての核兵器使用を許すような原則を提供しているであろうか。
昔の学者のなかにはこの必要性説の支持者がおり、特にドイツ学派の何人かは(433)、ドイツのことわざ "Kriegraeson geht vor Kriegsmanier"(「戦争における必要性が戦争のやり方に優越する」)を使ってこのドクトリンを説明している。しかしこの見解を支持しないドイツ人学者もおり、一般的にイギリス、フランス、イタリア、アメリカの国際法学者にも支持されてはいない(434)。
このドクトリンによると、戦争法規を侵す以外に不法な行為が引き起こした極限的な危険を回避する方法がないような時には、戦争法規はその拘束力を失うとされている。
しかし、お粗末なものながらもこのドクトリンの源流は、戦争に関する法規 ではなく、戦争の慣例 しか存在しない時代にさかのぼるものであり、このドクトリンはまだ国際社会によって拘束力あると認められる法規として固まったものになってはいなかった。
1864年のジュネーブ条約以来、これらの原則を拘束力ある法律と認めるなかで成し遂げられた前進によって、これらを意のままに、あるいは一方の当事者のただ一方的な判断で無視することができるといった見解は、擁護できなくなっている。第一次世界大戦のかなり前でも、ウェストレイクのような権威ある学者は、そのようなドクトリンを熱心に否定していたし(435)、新型で大規模な破壊手段とくに海中、空中用のが第一次世界大戦のなかで発明されたことで、このドクトリンはますます危険で不適当なものとなってきた。第二次世界大戦中の大量破壊兵器の発明によって、このドクトリンが無効なものとなったことは、いっそうはっきりした。
あの時代の戦争犯罪法廷の判決は、それまで実際存在していたとしても、このドクトリンが崩壊したことを証明している。イギリスの軍事法廷で裁かれた潜水艦戦に関するペレウス事件(戦犯報告 i <1946>, pp. 1-16)、アメリカによってニュレンベルク法廷で裁かれたミルチ事件(戦犯法廷 7<1948>, pp. 44, 65)、そしてクルップ事件(戦犯法廷10 <1949> p.138)は、法廷が重大な経済的必要性という問題を取り扱ったケースであるが、このドクトリンはすべての件で明確なことばで法的に却下されている(436)。
この必要性のドクトリンは、復讐、大量破壊、そして核兵器の場合には、ジェノサイドにまで道を開くものである。戦争法規の原則を蹂躪するまでに至っては、このドクトリンが近代の国際法のなかに存在する場所はない。
以下はあるアメリカの学者の言葉である。
「都市住民をまるごと焼き尽くし、隣国や離れた中立国の領土を侵害し、将来の世代に残すべき自然環境を荒廃させるような軍事的必要性はどこにあるのか……?…そうだとすれば、われわれはニュレンベルク原則の崩壊、Kreigraison(戦争における必要性)の勝利、武力紛争に関する人道上の規則の放棄を目の当たりにすることになる……。均衡性の意味そのものが失われ、われわれは危険なことに、ジェノサイド犯罪、つまり戦闘あるいは紛争に勝利するというよりも、敵を殲滅することを目的とした軍事行動を、看過することに近づいてゆくのである」(437)
6.限定あるい戦術あるいは戦域核兵器
「小型の」、「クリーンな」、あるいは「爆発力の低い」、または「戦術的」核兵器を使うことで、核兵器に固有の危険は最小限に抑えることができるという、核兵器使用合法論者の主張については、すでに言及がされている。この要因は、この法廷に出された法的疑問にとって重要な意味を持っており、それゆえ、核兵器を限定的に使えば、その破壊力を根拠とした核兵器への反対意見をしりぞけられるというこの主張が受け入れられるものかどうかについて、少し詳細に検討する必要がある。
この問題を検討するにあたっては、以下の諸要因を考慮するべきであろう。
(i) 当法廷には、放射能を発せず、環境に有害な影響を及ぼさず、現在及び未来の世代に対して有害な健康への影響を及ぼさない核兵器が存在するということを証明するような資料はこれまで提出されていない。この個別意見のなかで列挙したような特異な性質のいずれをも有しない核兵器が実際に存在するとするならば、そのような兵器が使用される目的を達成するためには、ではなぜ通常兵器では十分ではないのかという点についての説明は、これまでなされていない。われわれは今知っているものとしてしか、核兵器について考えることはできないのである。
(ii) 小型の核兵器の実用性については、軍の高官(438)や権威ある科学者(439)によって、異議が唱えられている。
(iii) 自衛の情況において、反撃を限定的あるいは最小限の反撃と言われる範囲内にとどめることの政治的困難さについて、アメリカのロバート・マクナマラ元国防長官やキッシンジャー元国務長官のことばについて、すでに言及した(W参照)。核攻撃の状況下では、戦争規模のエスカレーションを制御できるという仮定は非現実的と思われる。
(iv) 「小型」であれ、「戦術的」あるいは「戦場用」核兵器であれ、これらを使用することは、核のしきいを超えることになる。このような核による反撃をうけた側の国には、その反撃が小型の兵器を使った限定的なものか戦術的なものかはわからないであろうし、こうして核攻撃を受けた国が同種のやり方、つまりわざわざ小型核兵器でこれに再反撃するとの仮定はあてにならない。扉は開かれ、全面核戦争への境界線が越えられることになるだろう。
ここで検討されているシナリオは、核攻撃にたいする限定的核反撃である。上記で述べたように、
(a) 「制御された反撃」は非現実的であり、
(b) 核大国の第一撃にたいして行われたこの「制御された反撃」に対する、核大国の側からの最初の攻撃が「制御された反撃」となることは、なおいっそう非現実的である。
すなわち、われわれが検討しているのは全面核戦争のシナリオであり、したがってこの制御された兵器の使用は違法となる。
攻撃を受けた側が核兵器の全面的使用を自主的に「抑制する」との仮定は、この個別意見の中でもすでに見てきたように、きわめて空想的な想像の産物である。このような空想な思わくは、その上に人類の未来を築く前提とするにはあまりにも不確かであろう。
(v) 当法廷で陳述を行なった国々の代表のひとりは、以下のように指摘している。
「特別な状況のもとでの核兵器一発の使用ならば、人道の諸原則に違反しないこともありうる、と証明するために、どのような分析をしても、空疎で非現実的なものとなろう。もし核兵器が使用されれば、核戦争を誘発する可能性は極めて高くなるであろう」(オーストラリア、ギャレス・エバンス、95/22, pp. 49-50)
(vi) 核兵器による攻撃を準備している大国がある時には、先制攻撃が自衛のために必要だという議論が出るかもしれない。しかし、もしそのような先制攻撃が、定義によると通常兵器に比べて大規模な爆風も、熱線も放射線も出さないことになっている「小型の」核兵器でなされたとすれば、またしても、通常兵器で同じ目的が達せられるのであれば、なぜ核兵器を使わねばならないのかという疑問が起こってくるであろう。
(vii) 事故の要素は常に考慮せねばならない。核兵器は戦場では使用されたためしがない。被害を限定することが可能なのかどうかは試されておらず、いまだに被害限定を理論的に保証するものでしかない。高度な科学的操作における人為ミスの可能性を考えると乗組員全員が搭乗したままで宇宙ロケットが爆発する事故の可能性にいたるまで、いわゆる「限定された」能力しか持っていないものであれ、建設途上で何らかの誤操作や事故が発生しないとは決して言い切れない。実際、使用される兵器の大きさについては細かく等級付けがされているが、緊急の状況下で核兵器がまさに使用されようという事態は、事故の可能性に満ちている。(440) この国連軍縮研究所の研究(p. 11)は、「いったん衝突が起こった場合は戦争拡大の危険が非常に高い」と強調している。
(viii) 戦術核兵器の「小ささ」についてはいくぶん疑いがある。しかもこの兵器の詳細の正確な点についてはどの核大国も当法廷に何も提出していない。一方マレーシアは、当法廷への陳述で「爆発力の低い核兵器の…製造につながるような研究開発を禁止」するとしたアメリカ国内法を引用した(陳述書 p. 20)。これは5キロトン未満の爆発力をもつものと定義されている(広島と長崎へ投下された原爆はそれぞれ15キロトンと12キロトンとされている)(441)。これほどの火力を持つ兵器は、それを覆すような証拠がないもとでは、この個別意見の中で概説してきたような、核兵器に伴うすべての危険を備えていると推定される。
(ix) 特定の標的を正確にねらうことのできる兵器ならば使用することができるとの主張がなされている。しかし、先ごろの湾岸戦争の経験は、もっとも高性能あるいは「小型」の兵器であっても、正確にその意図された標的を撃つとは限らないことを示した。核兵器の場合にこのような誤爆がおこったら、非常に重大な結果がもたらされるであろう。
(x) もっとも小型の核兵器の使用によってもたやすく誘発される核戦争の場合に、WHOが百万人から十億人の死者がでると推定していることを考えると、このような規模の死傷者についてエジプトがおこなった陳述の中で示した、次のような考えに賛同するよりほかはない。
「小型化の粋を極めたとしても、このように危険の範囲を投機的に見積もることは、人道法の一般原則に真っ向から反する」(CR 95/23, p. 43)
(xi) 化学・細菌兵器から類推して、このような兵器を少量使用すれば被害の規模も比較的小さい、よって、制御可能な量を使う事ができるから、化学・細菌兵器は違法ではない、と論じるものは誰もいないであろう。同様に、もし核兵器が一般的には違法だというのであれば、「小型兵器」にも例外はありえないはずである。
核兵器が本質的に非合法的だというのであれば、少量の使用や、小型版だからといって、それが合法となる事はありえない。同様に、もしある国が化学兵器あるいは細菌兵器で攻撃されたとしても、その国が同じ兵器を少量使って反撃する権利があると主張することは、ばかげている。これらすべての兵器がたとえ自衛のためにでも許されていないことの根本的な論拠は、それらの効果がすべて戦争における必要性を越えて及ぶことになるという、単純な理由によるのである。
(xii) もしも当法廷ではどの国もそのような意見は提出してはいないが放射線の発生を完全に 除去できるような核兵器があるとすれば、かつそれが大量破壊兵器ではないとすれば、これは当法廷の能力をはるかにこえた技術的データを扱う問題となり、合法的な核兵器と非合法の核兵器を当裁判所が定義することは全く不可能になるだろう。よって当裁判所は、一般的な条件の下での合法性についてものを言わねばならない。
すべての 核兵器が非合法ではない(つまり、核兵器は一つ残らず違法というわけではない)と、当裁判所が権威をもって宣言することは、核兵器の使用あるいは使用威嚇を望んでいる者たちが「自分たちが使うあるいは使おうと考えているある特定の兵器は国際司法裁判所の判断の解釈の範囲内である」と主張できる道を開くことになる。これを取り締まることは誰にもできないだろう。ある国が使用を選択するいかなる核兵器の使用にも扉が開かれることになるだろう。当法廷がいかに明確にその理由を述べたとしても、核兵器使用を望む大国が、法廷が述べた論拠の範囲内の兵器をわざわざ選ぶと仮定するのは、まったく非現実的である。
勧告的意見を出すことに反対するいくつかの議論
1.勧告的意見には実際の効力が全くない
法律がどうであれ、核兵器使用という問題は政治的問題であり、政治的に提起され、政治的に決着がつくべき問題だとの議論がある。そうかもしれないが、問題がいかに政治的であろうが、法律の意味を明らかにすることは常に価値がある。それは効果がなくも、的外れでも、さまつなことでもない。
当法廷が、法をそのあるがままに肯定することは重要である。法に堅実に基づいた判決は法が本質的に有する権威の力によって敬意を集めるものである。それは法が尊重される世論の風潮を作り出す助けとなる。このような判決が出されれば、当法廷が政治的問題にかかわらず法を明確にし発展させるという任務を遂行していることが、人々に知らされるという意味で、当裁判所の権威を高めることになるだろう。
アパルトヘイト体制の違法性について当裁判所が下した判決は、アパルトヘイトを実施している当の政府からの同意がえられるような見込みはほとんどなかった。しかし、この判決は、アパルトヘイト体制の解体に至る世論の気運を作り出すのに役立った。もし裁判所が自らの判決が無益な行為であるとの観点から考えていたなら、アパルトヘイトの廃止は、もし達成されていたとしても、ずっと後のことになっていたであろう。法を明確にすることはそれ自体が目的であり、目的のためのたんなる手段ではないのである。法が明確になれば、それが曖昧さに包まれているよりは、法への遵守をえられる可能性は高い。
「高度な政策」に関わる事項については、国際法の影響力はほとんどないという意見は確かにある。しかし、ブラウンリー博士がこの論について述べたように、「基準をまったくすべて取り払ってしまうよりは、危機のときには無効とされるかも知れない 禁止を掲げるほうがまし」(442)であろう。
この点について、私は、この個別意見の冒頭で引用した、核兵器の違法性について大衆的意識が高まっていることの価値について、アルバート・シュバイツァーが述べた鋭い意見にも注目を呼びかけたい。
国際司法裁判所は、法廷の関心事ではない政治の領域に関わる事項へのしんしゃくに左右されることなしに、法律がその託された権限を発揮できるよう、法を宣言し、明確化するという自らの司法的役割を遂行する必要がある。
2.核兵器は平和を維持してきた
合法性を主張するいくつかの国々は、核兵器がこの50年間、国際安全保障に中心的な役割を果たし、世界平和の維持に貢献してきたと論じている。
この主張が正しかったとしても、当法廷においての法的検討にはほとんど影響はない。威嚇による強い恐怖感で敵を抑止する心理的効果が生まれる、というだけの理由で人道法に違反する兵器使用の威嚇が、戦争法規の違反にならないわけではないのである。当法廷は、恐怖に依存する安全保障のパターンを承認することはできない。1955年にイギリス下院でおこなった演説の中で、ウィンストン・チャーチルは、当時直面しつつあった状況を、印象的な言葉でこう表現した。「安全は恐怖の元気な子どもとなり、生存は滅亡の双子の兄弟となるだろう」。安全が恐怖の結果であり、生存と滅亡は双子の兄弟同士であると語るような世界体制は、平和と人類の将来を、恐怖に依存するものへと変えてしまう。これは当裁判所が承認できるような世界秩序の基盤ではない。国際司法裁判所が専念するのは法の支配を支持することであって、力や恐怖の支配ではない。そして、戦争法規の人道上の原則は、当法廷が遂行するよう委託されている国際的な法の支配のなかでもっとも重要な部分である。
恐怖に依存した世界秩序は、われわれを、ホッブスが『リバイアサン』のなかで描いたような自然状態に引き戻すであろう。そこでは主権者は、「剣闘士の態勢をとっており、お互いにたいして武器を構え、にらみ合っている……これはWarreの態勢である」(443)
百年をこえる人道法の発展を含む三世紀以上の歴史を経て、現在、次世紀への境目にさしかかっている国際法は、恐怖に依存した国際法をたんに再承認する以上の能力をもっている。そして、恐怖に支配された国際法を再承認するならば、時計の針を、グロチウスが描いた国際的な法の支配よりはむしろホッブスが描いたような自然状態に戻すだろう。この同時代の人物たちの非常に隔たった世界観のあいだで、国際法は明らかにグロチウスの方の見解を守る役割を負っている。今回のこの提訴により、国際司法裁判所は、未来の歴史家が、国際法の歴史における「グロチウスの瞬間」とよぶであろう機会を与えられたのである。当裁判所がこの機会を利用しなかったことを私は残念に思う。抑止と国際法とのあいだにある矛盾に気がつかなかったこともまた、抑止ドクトリンには潜在的に存在するホッブスの言った「Warreの態勢」を長期化するのに一役かったといえるかもしれない。
しかし、これらの研究がいかに決定的であろうとも、世界平和を守ってきたから抑止は貴重であるとの議論の弱点は、これだけにとどまらない。その偽りは歴史的事実によって証明されている。過去50年間のあいだに核兵器の使用が一度ならず検討されたことはさまざまな文献で明らかになっている。そのうちもっとも有名な二つの例は、キューバミサイル危機(1962年)とベルリン危機(1961年)である。このテーマについての詳細な研究から、もっと多くの例を付け加えることができるだろう(444)。このような事態のたびごとに、世界はいわばかたずをのみながら、核破局のふちをさまよったのである。たいていは核のボタンに手をかける者たちの度胸試しであったこれらの対立状態の中では、何がおこってもおかしくはなかった。核兵器による交戦に至らなかったのは、人類にとって幸運であった。また、核兵器があったから世界は戦争勃発からまぬがれたというのも正確ではない(445)。1945年以来、100をはるかにこえる数の戦争がこれまで起きており、死者数は二千万人にのぼっている(446)。第二次世界大戦終了以来、おそらく1968年をのぞく毎年、世界のどこかで武力紛争はおこってきたという研究もある。また、1945年から1990年までの2340週間のあいだ、真に戦争がなかったといえるのはわずか3週にすぎない(447)、という詳細な推計数字もある。
これまで世界的大戦争がなかったのは事実である。しかし、核兵器は戦争で荒廃した世界から人類を救ってきたわけではない。現実には、紛争がエスカレートし、かつ核兵器が手に入れば核兵器の使用をひきおこしかねない一触即発の危機にみちみちている。万一それが引き起こされれば、「言語に絶する悲哀を人類に」もたらすだろう。そしてそれは、国連憲章が防止すべき第一の目的に挙げたものなのである。
結論
1.当法廷に課せられた任務
(この個別意見のW.4のなかで)反核の大義のために力を尽くしてきた幅広い団体について言及してきた。環境保護主義者、医師、法律家、科学者、俳優や芸術家、国会議員、女性団体、平和グループ、学生、連合体など数え切れないほど多くある。彼らはすべての地域、すべての国に存在する。
さまざまな理由から、その反対の意見を主張する者たちもある。
これまでのところ、この問題に関しては権威ある法的定説がなかったために、当裁判所に対して意見を求める要請がなされた。この要請は、この世界最高の司法機関の意見はこの非常に重要な問題において、世界のすべての人々にとって役に立つであろうという考えにもとづいて、世界でもっとも高度な代議機関である国連総会によって行われた。
この要請は、こうして、国際司法裁判所に、この独特の問題について唯一無二の貢献をおこなえるまたとない機会を提供している。当裁判所は、勧告的意見によって、この問題において準拠すべき一定の重要な原則を、初めて法的に確立することになった。しかし、そうすべきであったにもかかわらず、これを全面的に行うには至らなかった。
この個別意見の中で、私は法に関しての自らの結論を述べてきた。当面している問題の意味の大きさを意識しながらも、私は現在あるがままの 法に注意を集中した。それらは慣習法、そしてとくに人道法によってうちたてられた無数の諸原則であり、これらが特に核兵器が引き起こす被害の例に適用される。最初に述べたように、この問題について熟考の上で私が出した結論は、核兵器の使用あるいは使用の威嚇は国際法と相容れず、かつ、国際法の制度の基盤そのものと両立しない、ということである。この個別意見の中で私はやや詳細にわたって自らの論の根拠を示し、なぜ、現行法によってあらゆる状況のもとで無条件に核兵器の使用と使用の威嚇が禁止されているかについて述べた。
この法的結論が、この問題についての道徳原理であり人類にとっての利益であると自分が考えている意見とも一致していることに、私は励まされる思いである。
2.人類にとっての選択肢
この個別意見を終えるにあたり、1955年7月9日に発表された、ラッセル・アインシュタイン宣言に短く触れたい。バートランド・ラッセルとアルバート・アインシュタインは、今世紀最高の知性を代表し、どちらも、特に原子に閉じ込められた力に関して権威を持って語ることのできる2人である。彼らは、世界のもっとも著名な多数の科学者らとともに、核兵器に関連して、全人類に向かって強く心に訴えるアピールを発表したのである。このアピールは、理性、人間性、そして人類の未来への懸念に基づいて発表された。理性、人間性、人類の未来への懸念は、国際法の機構に組み込まれている。
国際法のなかには、特に戦時人道法に関わった部分がある。私の今回の主張は、国際法の中の特にこの部分にもとづいて展開されたものである。そしてこの分野において、ラッセル・アインシュタイン宣言の中で発せられた懸念が、ひときわはっきりと共鳴して響いている。
「この致死的な放射能をもった粒子がどれだけ広く拡散するのか、誰も知らない。しかし、もっとも権威ある人びとは一致して、水爆による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している……
……私たちは、人類として、人類に向かって訴えるあなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へ向かってひらけている。もしできないならば、あなたがたの前には全面的な死の危険が横たわっている」
責任を果たすために必要な諸原則を整然と揃えることができれば、国際法は、きのこ雲の影を追い払い、非核の時代の陽光を呼び込むために重要な貢献を行なうことができるだろう。
人類の未来にとって、これほど深い意味をもった問題は他になく、未来の脈は、国際法の本文の中に力強く波打っている。この問題はこれまでのところ、国際法廷の場に持ち出されたことはなかった。初めてそれがなされた今、この問題には解答が与えられねばならない説得力をもって、明確に、そして断定的に。
(署名) クリストファー・グレゴリー・ウィーラマントリー
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