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第16回 核政策のルーツを探る(1)

原爆使用を否定したジェフリーズ委員会

 1944年の夏には、ドイツに対する戦争の決着が見え始め、それとともにドイツの原爆の可能性がないこともわかってきました。そのころ、アメリカでは原爆に関する2つの委員会が発足しました。7月末に、シカゴの冶金研究所の責任者のアーサー・コンプトンは原子力計画の将来を検討する「ジェフリーズ委員会」を発足させました。一方、8月29日に、ルーズベルト大統領の科学顧問のブッシュとコナントは軍事政策委員会の下に「戦後政策委員会」を発足させました。

 その年の11月、ジェフリーズ委員会は「ニュークレオニクス要綱」と題した報告をコンプトンに提出しました。この報告はタイトルが示すように、エレクトロニクス(電子工学)に対応したニュークレオニクス(原子核工学)という名前を提唱し、その中身として、アイソトープの利用、原子力のエネルギー利用などとともに、原爆の土木工事への利用などをあげています。また、アメリカが原子核の研究とニュークレオニクス産業で指導的な地位を保つとともに、原爆を「都市や全国民を絶滅するために使われてはならないのが、われわれの熱烈な希望である」として、核戦争の手段を効果的に管理できる警察力を持った国際管理機関の必要性を述べています。

戦後政策委員会

 一方、1944年12月に提出された戦後政策委員会の報告は、原子力利用の領域では「将来の国家安全に関して軍事的潜在力が大変大きく、引き続いて平和時にも軍事目的に相当の優先度を置く」べきであることを強調しています。そして、戦後政策においても国家による全面的行政支配の下に原子力利用を置くために、戦後の原子力委員会につながる構想を述べています。

 戦後政策委員会とジェフリーズ委員会の報告の違いの根底には、科学者は軍の命令に従うべきであるという陸軍の要求と、原爆使用については政策決定者は科学者の意見を考慮すべきだという科学者の要請の対立がありました。両方の委員会に関与したА・コンプトンは板挟みになっていました。

暫定委員会の設置

 1945年4月12日ルーズベルト大統領の急死によって、副大統領からトルーマンが大統領に就任しました。その直後の25日、原爆開発の実質上の責任者であったスチムソン陸軍長官はトルーマンと会見しました。スチムソンは原爆についてルーズベルトから何も知らされていなかった大統領に、原爆に関する主要な問題、とくに米ソ関係において原爆の持つ意味を知らせるために覚書を用意しました〔この覚書の翻訳はM・シャーウィン著『破滅への道程』(加藤幹雄訳TBSブリタニカ1978年)の付録Ι参照〕。しかし、原爆を日本に対して使用することがはたして賢明な政策であるかどうかという疑問は提起されていませんでした。そして、原爆の問題も含めて「戦後における原子力の研究、開発、管理およびこれらを実施するために必要な立法措置に関する調査と政策提言を行なう」ための特別委員会の設置が準備中であることを報告しました。スチムソンは、議会に諮らず、行政府が秘密裏に原爆を開発してきたことについて議会の権限を侵していない形をとるために「暫定委員会」と呼ぶことも話しました。

 5月3日、暫定委員会の8名の正式委員が決まりました。委員長はスチムソン陸軍長官、委員長代理ジョージ・ハリソン特別補佐官、ラルフ・バード海軍次官、ウイリアム・クレイトン国務次官補、科学行政官のバーネバー・ブッシュとジェームス・コナント、カール・コンプトンMIT学長、国務長官予定者のジェームズ・バーンズが選ばれました。委員会の下に置く科学顧問団に、ロバート・オッペンハイマー、アーネスト・ローレンス、アーサー・コンプトン、エンリコ・フェルミの4人が選ばれました。

実らなかったボーアの最後の努力

 スチムソンがトルーマンに会見した同じ4月25日に、ニールス・ボーアは科学行政官のバーネバー・ブッシュに会って彼の最後の努力をしていました。ボーアは1944年にチャーチル英国首相とルーズベルト大統領に会った成果もなく失意の1年間を過ごしていましたが、戦後の核軍備競争を回避する道は、ソ連と国際協定を結ぶこと以外にないと確信していました。バーネバー・ブッシュはボーアの説明に感銘を受け、ボーアがルーズベルトとの会見に用いた覚書のコピーとこれを補完したボーアの文書に、自分もこれを支持するという手紙を付してスチムソンの原子力特別補佐官のバンディに送りました。しかし、バンディは特別補佐官のハリソンと合作で自分たちの覚書をつくり、これをスチムソンに提出したため、スチムソン陸軍長官がボーア覚書を読むことはありませんでした。バンディとハリソンの覚書には、原子力が国際関係に及ぼす意味について焦点が当てられていましたが、肝心のソ連に対する早期アプローチの必要性にはまったく触れていませんでした。そして、スチムソンに暫定委員会の早期発足を迫ることに重点が置かれていました〔この覚書の翻訳は前出『破滅への道程』の付録K参照〕。

 スチムソンの特別補佐官たちがボーアの意図を理解できなかったのか、意図的にソ連との対応を避けたのかはわかりません。また、暫定委員会のメンバーになった科学行政官のバーネバー・ブッシュはボーアの考えに感銘を受けながらも、ボーアほどには核軍拡競争の結果に深刻な危惧を抱かなかったのかも知れません。

 暫定委員会は5月下旬から6月上旬にかけて開催されましたが、5月31日の会議が、日本に対して原爆投下の具体的方法を含めて決定したもっとも重要な会議になりました。名前は暫定委員会でしたが、この委員会の決定はその後の人類の歴史を大きく変えるものになりました。

「原水協通信」2003年7月号(第713号)掲載