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2015年3・1ビキニデー日本原水協集会・国際交流会議
ピーター・アンジャイン「2015年NPT・被爆70年を核兵器のない世界への転換点に」

2015年2月27日 静岡
マーシャル諸島共和国 ロンゲラップ島民代表 ピーター・アンジャイン

 私はピーター・アンジャインと申します。被爆70年を記念する今日のこの会議で、ロンゲラップ環礁自治体政府、島民、とりわけ1954年ブラボー実験の被ばく者を代表して、みなさんの前で発言できることは光栄であり、名誉に思います。

 彼らを代表して、みなさんに連帯と感謝の意を表します。お忙しい中、今日を非常に特別な、意味のあるものにするためにここに集まった皆さんに感謝し、拍手を送ります。とりわけ被爆者の方々へ敬意を表します。
 
 今ほど、今日のテーマを議論するのに良いタイミングはないと思います。そして、直接被ばくした人以上にこのことをよく理解できる人がいるでしょうか。世界中の被ばく者たちと同様に、ロンゲラップの人々も、被ばくを記念することの重要性を深く理解しています。

 1946年から1958年の間に、アメリカはマーシャル諸島で67回の核実験をおこないました。この総出力は、1・6個の広島型原爆を毎日12年間爆発させ続けるのに相当します。この中でも、注目すべき実験は、アイビー作戦とキャッスル作戦です。

 第2次世界大戦が終わった直後、まだ戦争の記憶も生々しいうちに、アメリカは聖書に言うイスラエルの子らを引き合いに出して、「全人類の利益のために」核実験をおこなうと言ったのでした。ビキニ島民が自分たちの環礁を離れることを強要された状況が想像できます。しかし、これは核軍備競争に勝利するというアメリカの野望のためでした。10・4メガトン級の「アイビーマイク作戦」に満足しなかった米政府は、71マイル東のロンゲラップに86人の住民がおり、すでにその方向に風が吹くことを12時間前に知りながら、1954年3月1日にブラボー水爆実験を強行しました。

 私たちは「全人類の利益のため」におこなわれた実験の副次的な被害者とされています。15メガトンのブラボー実験は広島に落とされた原爆の1000倍の威力を持っていました。爆発から4時間以内には、放射性降下物(「死の灰」)が島に降り注ぎました。外にいた人々の頭とむき出しの腕の上に、きめ細かい白い灰が落ちてきました。それは家々の貯水槽の中で水に溶けました。白い粉を雪だと思い、子どもたちはそれで遊びました。味見をしたり粉で顔をこすったりしました。その夜、村のあらゆる場所から、子どもたちのうめき声、泣き声が聞こえてきました。症状は目の痛みから皮膚のやけど、ひどい痒み、下痢、嘔吐などです。ロンゲラップ島民にとって、それは私たちの伝統的な暮らし、文化、環境そして人体の破壊の始まりでした。実験から3日後にやっと、高レベルの放射能にさらされているという理由で、ロンゲラップ島民は、ウトリック島民と一緒にクワジャレンに避難させられました。一方でビキニから北東へ300マイルほどの所にあるアイルックでは100数人の島民が放置されました。

 ロンゲラップ島民はエジット島で生活することになりました。そしてブラボー実験から3年後に、エネルギー省は私たちを再びロンゲラップへ戻しました。戻ってすぐに、人々がまた病気になりましたが、アメリカは一貫してロンゲラップは安全だと言い続けました。一方、1960年代前半に、エネルギー省の医師は、被ばく者の重大で予想もしていない病気などを調べ始め、甲状腺節を切除する手術をおこないました。1960年から82年にかけて、ロンゲラップ島民の24件の切除がおこなわれています。同じ時期、ウトリックでは15件の切除がおこなわれました。1972年11月15日、私の叔父で当時のロンゲラップの村長、ジョン・アンジャインの息子、レコジ・アンジャインは、米国メリーランドの国立研究所病院で、骨髄性白血病の治療の最中、亡くなりました。

 この間多くの病気が報告されています。中でも、女性と子どもは最も被害を受けたと言えるでしょう。多くの女性が流産、死産、早産を繰り返し、くらげやぶどうの房のような奇形の子どもを産みました。米国はその間もロンゲラップは安全だと主張し、実験と健診を続けるのみで、私たちを救う措置は何らとりませんでした。子どもたちの将来を思い、ついに私たちは故郷の島を離れる苦渋の選択をしたのです。

 昔、ロンゲラップ島民は、5つの村で暮らしていました。ロンゲラップ環礁に3つ、アイリングナエ環礁に1つ、ロンゲリック環礁に1つの村があったのです。ロンゲラップ環礁は61の島から成り立っており、全体の広さは21キロ平方メートル、2600キロ平方メートルの環礁がありました。61年後の現在、マーシャルの他の地域と海外に住んでいる2000人以上を数えなければ、約350人の島民が、メジャット島に住んでいます。そこは、ロンゲラップから110マイル、イバイから66マイルのところにあります。メジャット島の長さは1マイルもなく、食物も豊富にありません。マジュロやイバイから送られてくる食料に大きく依存しています。島民の主な収入源は、3か月に1度分配される補償金の76ドルだけです。この状況をうらやむ人などいるでしょうか。これがアメリカ政府の言う幸福なのでしょうか。

 これが、核実験が私たちの愛する人々や土地、文化、生活様式などにもたらしたものです。そして、これは誰も元通りにすることはできません。しかし、私たちにできることがあります。それは、このような悲惨なことが他の誰の上にもくりかえされないようにすることです。

 ご存じのように、小国でちっぽけな国、米国に深く依存しているマーシャル諸島の政府が、アメリカも含め9つの核保有国を相手取り、2014年4月24日、国際司法裁判所(ICJ)に提訴しました。「私たちでなければ誰がやるのか。今でなければいつやるのか」、その気持ちで提訴はおこなわれました。これによってアメリカとの関係が危うくなるのを私たちはわかっていますが、トニー・デブルム外務大臣は、雄弁にも以下のように言っています。 「NPTは都合のいい時に、つけたり消したりする灯りのスイッチではない。国家とは条約に違反すれば、その責任を全面的に問われるものだ。さもなければ、それは脱退規定の乱用になる。これは、あらゆる国と世界というコミュニティ全体の懸念である」

 マーシャル諸島の人々の核問題についてのとりくみは、受け身的なものでしたが、自分たちの役割を果たそうとするこの提訴によって、それは驚くほどすばらしいものになりつつあります。フェイスブック上に「ケワン・ジェラ(意見交換の場)」というグループのページが作られ、6か月の間に3000人がメンバー登録しました。みんなが自分の権利を行使して、すべて事実に基づいた意見を表明し、懸念を書き込んで交流しています。今一番熱い議論がされているのは、マーシャル諸島が直面している諸問題で、その筆頭が核問題です。この核問題について特別委員会が作られました。委員会は、米国内で人々の関心と意識を高めることを目標に、3か月間にわたる特別キャンペーンを計画しています。私も委員会メンバーですが、委員長に選ばれたロサニア・ベネットさんも今、日本に来ています。不可能と思われていた核兵器全面禁止への道が、今や実現に向けて開かれようとしています。日本の皆さんとガーソンさんとミヒョンさんをはじめ、世界の皆さんのたたかいと支援に感謝します。

 みなさんのNPTへの粘り強い断固とした努力によって、NPTは核兵器国が核軍縮・廃絶の法的拘束力のある義務を負う唯一の条約になりました。私たちの被ばくの体験とこれまでの成果を手に、今、2015年NPT再検討会議と被爆70年を核兵器廃絶の転換点にするとの挑戦に意気高く挑みましょう。広島、長崎、チェルノブイリ、ネバダの悲劇を思い起こし、被爆者の痛みを自分の痛みとして感じましょう。私たちの子どもたち、孫たちの未来に思いをはせ、「原水爆の被害者は私を最後に」との久保山愛吉さんの言葉を胸に刻んで前進しましょう。ありがとうございました。