40年前、私は友人に誘われてある集会に参加しました。その中で、Aさん(男性)が自身の被爆体験を語り、終わりに近い個所で「被爆者は人間らしく死ぬことも、人間らしく生きることもできないのです」と話したのです。当時私が、「生」と「死」に日常的に遭遇する大病院のナースとして働いていたからかも知れませんが、どういう意味なんだろう?と心に重く残りましたので、広島・長崎の被爆者について勉強し始めました。後日、集会に誘ってくれた友人が「あなたも集めてちょうだい」と「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名用紙を私に託しました。何筆集めたか記憶にありませんが、“核兵器廃絶”署名に私が接した最初の出来事でした。
しばらくして夜勤は「2人以上で月8日以内」を要求した“2・8闘争”にとりくむ中で、新日本婦人の会を知り入会。“井の中のかわず”が徐々に社会の中に飛び出し、様々な学習と運動が繰り広げられる中で、職場のみんなの要求(主に待遇改善)をも勝ち取っていきました。新婦人の中で、県本部委員→県常任委員→平和担当と選出され、県原水協の理事に加わりました。理事になって、核兵器関連の学習や運動をする機会と時間が大幅に増えました。
その中で学んだことの幾つかをあげると、
・核兵器廃絶に潘基文事務総長をはじめ“国連”が非常に積極的であること。
・私たちが集めた署名を“国連”は貴重だとし、大切に扱っていること。
・署名が“国連”を動かし、“核兵器禁止・廃絶”が国際政治の中心課題となったこと。
・ベトナム戦争時、フランスに核兵器使用を断念させたのは“世論”、中でも署名の力だったこと。
・60年前、アメリカの圧力の下動き始めた“改憲”や日本の“再軍備”及び“核保有”の議論の大きな歯止めになったこと。
など、学べば学ぶほど署名の力の偉大さに感服しています。
私が定年退職後、核兵器廃絶を目標とした署名の表題は「すみやかな核兵器廃絶のために」「いま核兵器の廃絶を」と変わりました。どの署名も私が集めた筆数は2000筆を超えていましたので、「核兵器全面禁止のアピール」署名も2011年途中から2013年末までに1000筆をと目標を立て、13年10月初めに到達。12月6日から始めた1000筆チャレンジャーとしての活動でも2014年5月中旬に到達。5月31日に開かれた熊本県原水協総会で、「私は2015年のNPT再検討会議に向けて、更に500筆を追加したい」と決意を述べました。
私は66歳の時に転落事故で右上腕骨を骨折しました。両上肢で署名板を抱えるのが困難になったので、首(肩)かけタイプのマイ署名板を作りました。後日、小型の署名板も2種作りました。また、署名用紙を30枚以上ストックしているので、いつでも署名行動加能な状態を保っています。具体的には、
・「6・9行動」「3・1ばらの花行動」「国連軍縮週間連帯行動」等に参加する。「6・9行動」のみを試算すれば、1回25筆集めると25筆×24回(1か月に2回、12か月)で600筆を集めることが加能です。
・いわゆる民主団体も入った実行委員会形式等の講演会・諸々の集会、催事等に参加して集める。
・電話や手紙で訴え、返信用封筒と署名用紙を入れた郵送作戦で集める。元クラスメイト、元同僚、友人…対象は多彩。
・私が客として通う衣料品店、クリーニング店、理容店、印刷屋等々に協力を依頼して集める。
・いつでもどこでも、署名板・用紙を持参する。
・目標を持つことが大事。節々で「残」を明らかにして、到達する具体的方法を練る。
等を実践しています。県原水協事務局で、原水協のできていない地域や団体を訪問した際、南阿蘇村では総務課が対応してくれ、担当職員が先に送付しておいた「世界大会パンフレット」をよく勉強していて、署名も原爆展開催も快諾。熊本市のJA本部は、市内のJA支所の代表者会議にかけ、署名用紙を自ら増刷し、後日800余筆を寄せてくれた等、他にも感動的な体験がありました。
熊本でも「一点共闘」にとりくむようになりました。例えば「秘密保護法」「憲法集会」の時に集まった顔は、過去に出会ったことのない顔も多いと私は感じましたが、その方々が喜んで署名に応じてくれました。とりくむべき課題は、憲法・原発など、種々様々たくさん有りますが、このアピール署名(課題)は最優先にすべきで、来年のNPT再検討会議まであと半年余り、緊急にとりくむべき運動として進めたいと考えます。この署名は、みなさんに待たれています。“核兵器全面禁止・廃絶”の運動があること自体を知らない国民もたくさんいると推察できますが、私の実感です。
「署名してください」とどんどん声をかけましょう。核兵器のない平和で公正な世界が1日でも1刻でも早く訪れますようにと願いを込めながら。