【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月25日)

5.24(1) のコピー▲久保山さんのお墓

今日は静岡市内の短いコースを歩きました。最初の休憩を取った後、安倍川に架かる近くの橋を訪れました。今日の天気は多少どんよりしていました。1時間半くらい歩いた後、焼津市に行き、市内のお寺で昼食を取りました。そこで、素晴らしい通訳として私を支えてくださっている粕谷さんと合流しました。昼食の間、地元の先生のお一人が、マグロ漁船「Lucky Dragon #5」の悲劇について簡単に説明してくださいました。日本語では第五福竜丸というそうです。粕谷さんが通訳してくれたおかげでこのお話を聞くことができました。

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第五福竜丸は、1954年3月1日にビキニ環礁でおこなわれた核実験による放射能で被爆しました。乗組員たちは、米国が指定した危険区域の外で操業していました。しかし報道によれば、ビキニに落とされた核兵器は、広島と長崎に落とされた核兵器の千倍もの威力を持つものでした。この核実験の数時間後、彼らは高い放射能を含んだ「死の灰」を浴びました。忘れてはならないのは、彼らは何が起きているのかまったく分からなかったということです。放射能の灰に汚染された食物を食べた彼らはまた、内部被曝もしていました。悲しいことに、彼らが捕獲したマグロもまた汚染されました。帰港直後、乗組員たちには急性放射線障害の症状が表れました。目立った症状は、脱毛、皮膚のやけど、歯茎の出血などでした。久保山愛吉さんは、ビキニ水爆実験の最初の日本人犠牲者とされています。彼は1954年9月23日に亡くなりました。その後、多くの乗組員が放射能の影響による癌で亡くなりました。この悲劇を忘れないために、毎年3月1日に焼津市で平和行進が行われます。今年の行進には2000人が参加したとのことでした。久保山さんのお墓を訪れることができ、とても光栄に思いました。お辞儀をして、彼に対する尊敬と、もちろん哀悼の気持ちも伝えました。広島と長崎への原爆投下に加えて起こったビキニの悲劇は日本に大きな衝撃を与え、その後反核運動は大きく盛り上がりました。

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昼食を取り第五福竜丸について学んだ後、第五福竜丸の母港だった焼津港まで行進しました。その後市役所で式典をおこないました。どの町でも暖かい歓迎が私を迎えてくれます。焼津の新婦人の皆さんにプレゼントとカンパをいただきました。こんなふうに支援してもらって本当に嬉しいです。皆さんの支援こそが私の原動力となり、長い距離を歩き、時折訪れる痛みにも耐えることができます。

今日はとても長い距離を歩きました。最後の行進地は大井川町でした。ここには自衛隊の基地があります。被ばくした第五福竜丸の乗組員たちは、この基地から米軍のヘリで東京へ運ばれ、治療を受けました。容体を調査するため米軍に日本から連れ去られるのではないかと、乗組員の家族は当時おそれていたそうです。大井川での行進は2時間ほど続きました。いつものように一日の終了式をおこない、私は参加者の皆さんに、この国と国民に起きたことに対する心からの哀悼の気持ちを伝えました。

ビキニ環礁で起きたことは大変恐ろしいものです。太平洋に住む数え切れないほど多くの罪のない人々がその影響を受け、しかもこの悲劇に対する正義はもたらされていません。不幸なことにビキニの人々は住む場所を奪われ、彼らの土地で幸せに暮らせることはおそらく二度とありません。土地と深く結びついているミクロネシアの島民たちにとって、これはとても悲しいことです。マーシャルの人々は、正当な補償を勝ち取るために現在もたたかっています。ビキニでの核実験による「死の灰」は、グアムなどマーシャルの近隣の島にも影響を与えたはずです。なぜなら、ミクロネシアとアメリカ本土との癌の発症率の格差は開く一方だからです。

第五福竜丸の悲劇が示すように、核実験の影響を封じ込めてコントロールできるなどと考えるのはばかげています。このような核実験がなぜ必要なのかまったく理解できません。原爆投下がもたらすものは、破壊と痛みという遺産だということは、広島と長崎の悲劇が示しています。私たちの住む地域を考えると、米軍の戦争遂行という観点からすると、彼らがミクロネシアの人々をどのように見なしているかが理解できます。米軍がビキニの人々を真に尊重し、彼らを対等に扱っていたならば、そもそも核実験などおこなっていなかったはずです。

(翻訳:中村みずき)

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