【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月14日)

5.14(1)

三浦から横須賀へ

今朝は自然の空気と海辺の波音のなかで気持ち良く起きました。布団と、米粒のようなものを詰めた枕の感触、そして足に伝わる畳の感じ…。

朝食をここの旅館で食べましたが、これまた美味しかったです。串焼きにして干した魚と、卵、野菜などいろいろいただきました。加えて、有名な納豆もありました。納豆は、大豆を発酵させたものです。味は濃く、卵と混ぜるとさらに濃厚になります。私は以前、広島で納豆を食べたことがあります。納豆はふつう、朝食に出されます。培養菌の少し強い臭いがしますが、食べるのにはまったく問題はありません。納豆の風味は私にはちょっと強すぎるので、今日は食べる気になりませんでした。茶碗一杯分も食べきれないと思い、納豆は残すことにしました。

5.14(2)

朝、出発の準備をしているとき、行進の仲間たちが、竹田さんが前回の平和行進の際に撮った写真を見ようと、パソコンの周りに集まってきました。竹田さんは、自分のホームページも開設しています。(takeda-a.net/

私たちは、出発式に出るため、三浦市役所に向かいました。

公園で、鶴の碑を見ました。折鶴は、幸運、長寿、復興への願いの象徴です。折鶴は、第2次世界大戦時、広島で2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが、病床で折り続けたことで広く知られるようになりました。

彼女は、12歳で白血病を発症し、回復を願って紙の鶴を折り始めました。彼女の目標は1000羽折ることでした。体調が悪くなり、644羽を折ったところで亡くなりました。級友たちは、禎子さんに、彼女の目標を引き継ぐと約束しました。

もう一つの説は、佐々木さんは1000羽の目標を達成したが、病気が治らなかったので、もうあと1000羽折ったというものです。この話は、多くの人びとの心を動かしました。そういうわけで、私たちが行く先々で、たくさんのご家族が折り鶴を寄せてくれますし、私たちは、託された折鶴を広島まで運び、彼らの代わりにお供えするのです。広島にある禎子の像に行けば、たくさんの折鶴を見ることができるでしょう。折鶴は、日本中から寄せられてきます。私もいつか、1000羽の鶴を折って、お供えしたいと思います。そのためのプランを練るつもりです。

平和行進の東京-広島コースは、800キロメートルです。1000キロ近い距離です。2都県を通過しただけで、1000人を超える方が行進に参加してくれたことを誇りに思います。私たちはまだ出発したばかりです。この平和行進は、日本の多くの人びとにとって、本当に記念碑的な事業だと思います。この行進に参加するすべての人が、誇りをもっています。

三浦市役所の職員たちから、歓送のメッセージをいただいて出発しました。商店街を通過しましたが、小さな通りで、店はまだ全て閉まっていました。通りは、魚を加工する店が連なっていました。魚は、日干しにした後、パックされて配送に回ります。

5.14(3)

三浦市に三崎という地域があります。ここには、マグロを加工する港があります。

道沿いの丘の上には、広大な土地がビニールで覆われているのが見えます。植物を育てるためのビニールハウスは、日本ではありふれた農業技術です。極度に強い日光から植物を保護し、夜のうちに湿気を吸収して水に変え、植物に与えます。何千というビニールハウスの列が見えます。そのなかには、大根やキャベツのような野菜もあることでしょう。道端に、私の頭ほどもあるキャベツをたった100円で売っているスタンドがありました。大根は、私の腕くらいありました。とても安く、かつ新鮮です。

水に浮かぶ睡蓮のように、キャベツでいっぱいの畑がありました。葉が大きいため、まるでそこで泳げそうなくらいのキャベツの海に見えます。

急な上り坂を登りました。4車線の道路だったので、あまり渋滞にならずに済みました。駅の側で休憩し、昼食をとりました。

私たちは、駅のトイレを使いました。日本では、人や物を探しているときは、特別に駅の中に入ることができます。トイレは、チケットを買わずに使うことができます。駅員たちは、私たちのことを疑わず、無賃乗車するつもりはないものと信用してくれるのです。日本人は正直で信頼できる人たちなのです。

5.14(4)

根岸の近くの公園に着くと、たくさんの横須賀の団体のメンバーから歓迎を受けました。私は、9条の会(日本国憲法9条を守るために運動している団体)のおの・ちづるさんに会いました。

多くの集合住宅が密集する地域を通過しました。まるでフィリピンの集合住宅プロジェクトのようです。 今、マニラ首都圏で問題になっていることの一つに、大量の不法移住者(スラム居住者)への住宅提供問題があります。彼らを別の場所に再定住させることは解決策の一つですが、職場へのアクセスや交通手段の利便性などの理由で、移住させても結局都心に戻ってきます。再定住地域は、上下水道や電気、医療サービスがなく、子どもへの義務教育も保証されないため、生活環境は劣悪なのです。

5.14(5)

横須賀基地のフェンスに沿って歩きながら、私たちは、小泉元首相が住んでいる地域を通りました。おのさんは、この地域には、小泉氏を支持する右翼的な人や、保守的な人が多いと言っていました。小泉氏は、安倍首相と同じ政党に所属しています。小泉氏の事務所の前も通りましたが、国会議員である息子を支持する旗が掲げられていました。

おのさんは、小泉氏が原発の再稼働に反対していながら安倍首相の党に所属しているので、一体何を考えているのかわからない、と言いました。安倍政権は、早期に原発を再稼働したい考えです。

私たちは、米が浜通りを通りました。駅の近くに、たくさんの会社や商店が並んでいます。多くの米兵や市民が、歩きながら私たちに手を振ってくれます。横須賀市役所に到着し、職員から歓迎のあいさつを受けました。おのさんの助けを借りて、私は日本語で少しスピーチしました。

私は、笠木さんから、横須賀基地の前でスピーチするように頼まれました。基地の入口に向かって歩きながら、私は少し緊張しました。というのは、基地に反対する大衆行動で発言するのは、これが初めてだったからです。しかも、米軍基地の真ん前です。何人かの兵士がメモを取っています。「いいね」「今でしょ」の声をあげるチャンスです。私は、英語で短いスピーチをしました。「原水協のみなさん、神奈川の多くの基地を見る機会を与えてくださってありがとうございます。福島の被災者たちがいまだに仮設住宅で暮らしているというのに、ここの基地はきれいで大きくて、いったいどれだけの税金が使われているのでしょうか。私は、米軍が、ここから出て行き、この土地を日本国民に返すことを希望します。そして、ここから出て行って自国のお金を使ってください。米軍はアメリカに帰れ!」 私が覚えているのはこれくらいです。

その後、私たちは写真を撮ってもらいました。日本の自衛隊の軍艦や潜水艦も見ました。アメリカの軍艦は、山の向こう側にあるということで、見えませんでした。日本帝国海軍の軍港として開港してから150年になろうとしている横須賀基地は、第2次世界大戦後に アメリカの海軍基地になりました。多くの国がこの地域を欲しがりましたが、それはフィリピンのスービック基地のように、水深が深く、大型艦船が直接港に横付けできるからです。

行進の終着地点はヴェルニー公園でした。ここでは、多くのアメリカ人観光客が散策していました。

私は、しらい・ひさおさんに会いました。彼はいつもカメラを持ち歩いていますが、元はNHKのジャーナリストで、いまはフリーランスの記者をしています。私は「幻の声 (A Phantom Voice)」という、彼が作製したドキュメンタリーのサンプルをもらい、うれしく思いました。それは、広島で被爆した人たちの話です。そのうち、そのサンプルをスキャンして、このブログで紹介したいと考えています。

しらいさんは、横須賀基地と、日本の自衛隊の潜水艦や監視船が停泊しているドックの地図を見せてくれました。ここからは見えませんが、反対側にはアメリカ海軍の大きなドックがあり、空母ジョージ・ワシントンが停泊しています。

車に向かう途中で、私たちは、空母の点検修理にまつわる冗談を言いました。ジョージ・ワシントンは、来年、修理のためにアメリカに戻り、空母ロナルド・レーガンと交替する予定です。なので、抗議集会の名称は、「ワシントン」から「レーガン」に変えることになります。でももうこういったことは勘弁してほしいものです。

横須賀市をはじめ、周辺自治体に住む人たちは、彼らの頭上を飛ぶ軍用機について不満を言っています。はるか高く飛んでいても大きな音が聞こえるのですから、低空ならなおさらです。米軍は、訓練の一環として、低空飛行をおこなっています。ジェット戦闘機が、基地から空母へと飛んでいきます。米軍は、神奈川県の上空を飛行訓練空域にしているのです。こうした訓練活動は、空域の下に住む人びとをないがしろにしているだけでなく、住民を騒音と墜落事故の危険にさらすものです。日本政府は、基地周辺の住民の声に耳を傾けてほしいと思います。

私たちは、今日もまた和風旅館に宿泊しました。昨日と同じく、美味しいコース料理をいただきました。ほんとに豪華。オイシイデス!

(翻訳:佐伯一郎)

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