ビキニ事件被災の実相を風化させず、後世に語り継ぎ「核兵器廃絶」を三浦の地から全世界に発信していくことをめざす「ビキニ被災60周年・三浦市民集会」が4月20日、同市市民ホールで開かれ、400人が参加しました。
60年前の1954年、マーシャル諸島ビキニ環礁における米国の水爆実験による放射能を含む「死の灰」で、マグロ漁船や乗組員が被害に遭いました。三崎町(現神奈川県三浦市)の三崎港から出漁したマグロ船150隻以上が被災し、被爆したマグロ約200トンを廃棄しました。このような大被害、経済的な大打撃を受けた三崎町民は、1954年4月20日、今回市民集会が開かれた近くの市場で、水爆対策三崎町民大会を開き、「被害の完全補償の実施」とともに、全国に先駆けて「原爆の禁止」を求め決議し声をあげました。この町民大会と一連の運動は、原水爆禁止運動の原点とも言える運動でした。この60年前の4月20日を記念し、今回の市民集会が開かれました。
集会では、開会セレモニーとして、地元三浦市の「シーサイド少年少女合唱団」が演奏し、20人の少年少女の美しい歌声に大きな拍手が送られました。
立命館大学の安斎育郎名誉教授が「放射能被害の歴史といま、そして・・・」と題し記念講演をおこないました。安斎さんは、ビキニ事件の歴史的背景として核軍拡競争や原発開発の経過もひもとき、「ビキニ事件は米ソの政治的対決の間で起きた」と述べ、「核による事故の想像を超えた威力と放射能の(私たちの)感覚を超えた脅威を知るべきだ」と訴えました。そして、原発事故や放射性廃棄物について「現場に見に行けないのが原発事故の深刻さ。廃棄物処理は幾千万年の世代に負の遺産を残す」「覚悟を決めて100年単位で54基を廃炉にするしかない」と話しました。
市長があいさつ
集会に参加した吉田英男市長はあいさつで、多くの市民が集会に参加したことを喜び、「原爆やビキニ水爆、福島原発事故、それぞれ悲痛な思いをした人が必ずいます。普通に考えて、なんでこんな危ないもの(核)を持っていなくてはならないのか」と述べました。
広島・ビキニ・福島の体験をつないで
集会では、「各被災者からその実相を聞く」と題し、広島の原爆投下、ビキニ事件、福島原発事故で被害を受けた3人が、それぞれ体験を語りました。
広島で被爆し、マグロ漁船に乗りビキニ事件にも遭遇した岡路正史さん(86)は、同級生の半数が原爆で死んだ悔しさを涙ながらに語り、マグロ漁船員の鈴木若雄さん(82)は、なじみの飲み屋の女性から「灰かぶりは来るな」と言われたことや、たくさんのマグロを捨てたことなどを語りました。原発事故に遭い3人の子育て中の穂積順子さん(34)は、「子どもが将来差別されないか、病気にならないか不安は拭えない。原発はゼロにしてほしい。こんな思いをするのは私たちで最後にしてほしい」と訴えました。
市ぐるみのとりくみに
集会の最後に「集会宣言」が採択され、市内の3つのコーラスグループが登壇し、「花は咲く」を全員合唱して市民集会は終わりました。
この集会では、「核兵器全面禁止のアピール」署名も呼びかけられ多くの人が署名しました。
市民集会は、三浦市内の団体・個人、県原水協などが参加して、昨年11月に実行委員会準備会が結成され5ヶ月間のとりくみで、人口4万6000人の町で400人の市民が参加する集会を成功させました。実行委員会の呼びかけに、賛同と賛同金を寄せた団体は41団体に広がり、町内会掲示板にポスターが張り出され、チラシは町内会の回覧板で回され、町の多くの店先にチラシが置かれました。市民集会には、三浦市、三浦市教育委員会、神奈川県原爆被災者の会、神奈川県生活協同組合連合会、マスコミ各社などが後援しました。
協力連帯しながら2015年へ
プレ企画でとりくまれた、2月23日の「〜放射線を浴びた『X年後』」上映会は180人が参加し、ビキニ事件に大きな関心を広げる機会となりました。また、この市民集会を前後して、約10日間、市民ホールで「ビキニ被災60年・写真展」も開催されました。これらのとりくみが、今回の市民集会の成功にもつながりました。
集会を成功させた実行委員会では、ビキニ事件を風化させず後世に語り継ぐとともに、「核兵器廃絶」を三浦の地から全世界に発信していくため、2015年NPT再検討会議にむけ、署名をはじめ様々なとりくみを通して、「決して途絶えることなく、粘り強く一歩一歩、互いに協力連帯し合いながら、進めていく」(集会宣言)ことを決意しています。
(神奈川県原水協事務局長・笠木隆)