宮城県から福島県へ引継ぎ
北海道―東京間の2013年原水爆禁止国民平和大行進・太平洋コースは6月23日、宮城県から福島県へと引き継がれました。引継ぎ地点の新地町役場前には、地元相馬・双葉原水協の大内秀雄さんや県原水協事務局長の石堂祐子さんなど福島のみなさん、ツアーで参加した東京、神奈川、京都、兵庫などの代表、日本原水協事務局などおよそ50人が参加、行進旗や被災地連帯旗を受け継いで、新地町と相馬市の市内を元気に行進しました。
「いいねコール」や「今でしょコール」でアピール
浜通りの行進二日目の24日、相馬市の松川浦から出発。道行く除染や復旧作業のトラック運転手、地元住民に、「核兵器の廃絶、いつやるの?」、「今でしょ!」、「被災者への補償、いつやるの?」「今でしょ!」など、「いいねコール」や「今でしょコール」でよびかけました。
続いて、今も避難が続く南相馬市小高区の住民が多く避難する鹿島区の仮設住宅では、コールを聞いて5人が手を振って出迎え。全員快く、「核兵器全面禁止のアピール」に署名し、話が弾みました。農業をしていたという女性は、「これまで食べる米を援助してもらうなど考えたこともなかった。自分で米を作れないのはつらい」と語っていました。「暑い中大変でしょう」と飲み物をふるまってくれる人も。
南相馬市からペナントに署名いただく
午後の南相馬市市役所では、復興企画部の阿部貞康部長が応対し、ペナントも快く「南相馬市」と記載。高草木代表理事は、昨年浪江の馬場町長とともに小高の高校生がおこなった訴えが、会場を涙に包んだことに言及しながら、「是非これからも市長や市の行政関係者、市民のみなさんが世界大会に参加してほしい」とよびかけました。
住民が一人もいない小高区を行進
この日の行進のハイライトは、昨年4月以降、立ち入りが可能になった南相馬の小高区です。小高では、住民が昼間に立ち入ることは自由になりましたが、住むことはできません。その中を平和行進は、「今でしょコール」「いいねコール」を響かせながら住民が一人もいない「繁華街」を行進、時々通る作業のトラックからドライバーが手を振る光景もありました。
小高から宿舎の相馬に戻る海岸線のコースは、津波の塩水と放射能で汚染されたかつての田んぼが、今は荒れ地と化しています。改めてあの洪水とともに東電福島第一原発事故が引き起こした被害の大きさに一同、息を飲みました。
渡部寛一南相馬市議の案内で2年ぶりの行進
昨年は行進できなかった南相馬市小高区は、居住はできないものの立ち入り制限が解除になったため、2年ぶりの行進が実現しました。震災当時の住民の避難、原発爆発の危険が迫るなか、自衛隊と協力して行方不明の住民の捜索に当たったことや、現在の市民の避難状況や困難な生活について、南相馬市の渡部寛一市議が案内しながら説明してくれました。
人気のない街は、時おり除染作業や復興事業のトラックや作業車が通行するだけで、倒壊した家屋の片付けも進んでいません。小高駅前の自転車置き場には、2年前の3月11日に高校生が残した通学用の自転車が何十台も放置されたままでした。行進団は、ぽつんぽつんと営業を再開している商店やガソリンスタンドで働く人々に手を振りながら、ピースコールを響かせて行進しました。
南相馬市の東生涯学習センターで開かれた交流会には約30人が参加。地元・南相馬の渡部議員や荒木議員が被災当時の様子や、市民生活の現状などを説明し、全国の人たちに伝えてほしいとよびかけました。
参加者はそれぞれの状況を「2年経ってようやく話せるようになった」と言いながら、現在直面している補償問題、生活再建などの努力や困難を語り、「震災も原発事故も全く終わっていないことを広く知らせてほしい」と訴えました。「核兵器と原発の根は同じだとわかった。広島・長崎のことをもっと知り、被爆者のたたかいからも学びたい」との声もありました。
(日本原水協代表理事・高草木博)