被爆者の会の方々の歩く姿が力に。生協の方たちが用意してくれるあたたかい接待に疲れを癒し。原水協と三者の懇談会でとりくまれた神奈川県13日間の行進最終日は湯河原町から。
神奈川の行進は、毎日被爆者の会の方たちが被爆体験を語ります。長崎の被爆者で、現在80歳の新宮さんは小6で被爆。「原爆投下から3ヶ月、4ヶ月で、学校の仲間が1人、2人と亡くなっていった。核兵器の恐ろしさは一瞬だけではないんです」。放射線被害の恐怖はいまだに続いていることを強く訴えました。
県内通し5回目、被爆者の会の塩瀬さん(74歳)。原爆で家族を亡くした無念、悔しさを、亡くした家族の写真を掲げながら歩きました。4回目の満智子さんは、横浜市緑区で米軍のジェット機が民家に墜落した時のことが、平和活動を始めたきっかけ。今年は道行く人にチラシを配りながら1日最低5人にはじっくり話したいと決めて歩いた中で、3人の方が被爆者でした。退職して県内通し20年のひさこさん。病院で働いていた時に、たくさんの患者を診ながら命の重さを感じてきたことで、命を容易に奪う核兵器をなくすために自分にできることをやろうと思ったから歩き続けてきました。
湯河原の町は、人通りは少ないものの、お店から顔を出し「ガンバって」と拍手する人たち。窓から手をふる人。小高い山の上に立つマンションから手をふる人も。あんな遠くからも応援がある。歩いているみんなで手を振り返します。すれ違った車からは「ありがとうございます」と言われました。
もちろん受け入れてもらえないときもあります。車を止めて、行進が過ぎるのを待つ人たちの気持ちもわかります。待たせるのが当たり前みたいに知らんふりして通り過ぎたら、嫌な気持ちになるもの。だから、行進から離れて車の方に「すみません、ご協力ありがとうございます。もう少しだけお待ちください」と頭を下げに行き、なぜ今歩かなければならないかを伝えると、多くの方々はチラシを受け取ってくれました。
一人の人は「ほんと、今の政府は危険だよ。暴走しているよ」と。
湯河原町長のメッセージを副町長が代読。日曜日にも関わらず、しかも毎年休憩する公園まで足を運んでくれます。
昭和60年に全会一致で「非核兵器都市宣言」をし、非核兵器都市協議会にも加盟。町長自身も「核兵器全面禁止のアピール署名」をしています。
雨の予報もどこへやら
日射しもすこし強くなり、晴天にみんなで歌う
♪青い空は青いままで子どもらに伝えたい
神奈川からの引き継ぎに出迎える静岡のみなさんと合流。
「今までなかった知識を平和行進する中で得ることができました。被爆のこと、核兵器のこと。ほんまに祖父や祖母がいたから私がいるんやなと思いました。神奈川のみなさんありがとうございました」わかやま市民生協の新人、今日で行進を終える山東恵子さん。
広島まで通し行進しているマラヤ・ファブロスさんは「出会ってきたたくさんの方々に感謝。家族のように接してくれた原水協のみなさん。生協さんのあたたかい接待ありがとうございました。いつも生協を見ると、ああ休憩できる!と嬉しくなりました」 と言って、みんなを笑わせてくれました。
「戦争をなくすのは頭のいい科学者ばかりではない、わたしたちのような普通の人たちの行動。核兵器をなくすのは被爆者だけでなく、わたしたちの後に続く者の願いでもあるんです。神奈川のみなさんお世話になりました。また帰ってきます。静岡のみなさんよろしくお願いします」と。
同じく広島まで通し行進している村田澄男さんはこみあげる涙をおさえながら「みなさんと一緒に行進する中で得たことは初めて知ることがたくさんありました。神奈川のみなさんに感謝します。核兵器なくなるまで、元気に歩いていきます!ありがとうございました。静岡のみなさん、よろしくお願いします」と挨拶されました。
静岡へ引き継がれると途端に恵子さん、マラヤさんも涙が。
これから静岡は12日間、初の募金隊もはじまります。
(日本原水協・大越文)