浪江町仮設住宅に愛と平和のちひろカレンダーを届けたみなさんの感想

日本原水協は12月5日、福島県二本松市にある浪江町庁舎を訪問し、馬場町長と懇談するとともに、150世帯の被災者が暮らす仮設住宅を訪ね、自治会の役員の方とともに一軒一軒訪ねて、ちひろカレンダーにお見舞状、「核兵器全面禁止のアピール」署名をそえて手渡し、実情をお聞きしました。参加者の感想を紹介します。

▲杉内仮設住宅の皆さんと

一日も早く人間らしい生活が出来るようにしてほしい

馬場町長との懇談という大変いい機会に恵まれました。日本原水協の方々には本当にお世話になりました。

仮設住宅は、二本松の中でも一番交通の不便なところで、なおかつ標高が一番高い。山林に囲まれて、夏は仮設住宅の床下からムカデなど虫が這い出てくるそうです。生活環境が悪いこの場所で住み続けるのは健康上良くない。一日も早く人間らしい生活が出来るようにしてほしいです。

(二本松原水協代表 伊藤 絋)

 

▲馬場町長と懇談

町長の国連人権委員会での発言ぜひ実現して欲しい

浪江の馬場町長と懇談、仮設住宅の訪問と短い時間だったが有意義な時間でした。馬場町長との懇談で、日本原水協から「国連の人権委員会での発言」を提案され、大変画期的な事で、是非実現して欲しいです。町長が「皆さんのご支援に一日も早くお返しが出来るようにしたい」と述べたことが印象的でした。

また、仮設住宅を訪問する中で、自宅があるのに何故ここに住まなくてはならないのか、早く故郷に帰って畑をやりたいというお年寄りが多く、あらためて怒りがこみあげてきました。これからますます寒くなる中お年寄りの健康が心配です。

(二本松原水協事務局長 柴田 敏夫)

 

▲カレンダーを馬場町長に手渡す福島県のみなさん

東電の役員は仮設住宅に住んで住民の痛み知るべき

やっと馬場町長との懇談がかなってほっとしましたし、お話を直接聞けて本当によかったです。仮設住宅での「原爆写真展」の開催と署名活動にむけたとりくみに弾みがつきました。準備に取りかかります。

訪問した仮設住宅は、二本松市内とは聞いていましたが、こんなにも町場からはなれた交通の便の悪いところとは思いませんでした。訪問し、お話ができた方はほとんどお年寄り。「5年は帰れないと聞いた時ショックだったが、いま、10年はだめかもしれないとあらためて聞かされて、生きる気力がなくなっちまった」というおばあちゃん。ここに避難してきてから亡くなったお年寄りが何人かいたそうです。避難されている方の苦労、不安がこれほどまでに深刻になっていることにあらためて触れました。東電の役員は仮設住宅に住んで、住民の痛みを知るべきです。

(福島県原水協事務局長 石堂 祐子)

 

 ▲カレンダーを受け取る杉内仮設住宅自治会役員の皆さん

これからも避難者に思いをはせながら

私はこれまで、自治労連が行っている「自治体キャラバン」において、県内各地の首長をはじめ、被災自治体(原発事故により役場機能ごと移転している自治体)の首長と懇談する機会がありましたが、浪江町長との懇談は初めてでした。特に、浪江町長は原水爆禁止世界大会に自ら参加し、壇上で発言をするなど、国内外に強く浪江町の現状を発信するため行動する首長であることから、とりわけ原発政策や町がおかれている現状についての発言には、どんな言葉が出るのか期待するところでした。

特に印象に残っていることは、「放射線健康管理手帳」を全町民に配布し、日々の行動等を住民自ら記録するとりくみでした。加害者である国や東電が県民の被曝に責任を持つことは至極当然であるにもかかわらず、具体策を示すこともできず、そうかといって何かを模索している様子もない中で、自治体が率先して住民の健康を守るという姿勢は、本来の自治体のあり方そのものであり、私は国や東電と浪江町とのコントラストは一層際だったように思います。

仮設住宅訪問では、平日の日中ということもあり留守宅が目立ちましたが、行動の中で数人の避難者と対話ができました。その中で、避難者が抱える共通の思いは「早く浪江に帰りたい」という一言に尽きるのだろうと感じました。住民自らの運動などにより「壁に断熱材を入れてほしい」「お風呂に追い炊き機能を付けてほしい」といった物理的な要求はおおよそ解決されているようでしたが、いつまでも仮設住宅に住み続けるわけにはいきません。この事故により家族がバラバラになっている(物理的にも精神的にも)と訴える方もいましたが、少なくない住民がそうした生活を強いられているのだろうと思うと居たたまれなくなりました。

私自身も原発事故の被害者ではありますが、一日も早い原発事故の収束と浪江町への帰還を実現するため、これからも避難者に思いをはせながら活動していきたいと思います。

(郡山市職員労働組合執行委員 影山 和哉)

 

▲一軒一軒訪ねてカレンダーを手渡す

復興のために人員派遣する自治体職員として、一人の国民として被害にあった方々の側にたって行動したい

この度は、このような企画に参加でき、大変有意義な経験となりました。

馬場町長との懇談では、自治体として原発事故に対する様々な施策や、国、東電に対しての要請など、私たちの想像以上の困難さがあると感じました。実際お会いしてお話しいただき、町長の想いをお聞きすることができてよかったです。以前馬場町長が話されていた、「浪江町に帰るといっても意見は様々、帰りたいという人もいれば戻りたくないという人もいる」という住民の意見は、この原発事故を受けよくわかります。そのそれぞれの想いを形作っていく行政を担う町の役割は計り知れないものと思います。町長が言われていた「今、福島の人たちは避難生活を強いられて、生活が壊されている。人として、生存権、幸福追求権、財産権、今福島の人たちの人権は守られていない。今の福島の現状を是非世界にも発信していきたい」という言葉は、心に響きました。仮設住宅を目にした時、そこに住む人々の『福祉』が本当に守られているのかといつも感じます。最低限住むところもあり、寒さもしのげるかもしれませんが“その人らしい生活”は、仮設住宅で実現できるでしょうか。出身単組でもある自治体の高梁市として、2011年の6月から現在もなお、行政派遣として職員を送っています。送りだす自治体も人員が有り余る状況とは言い難いですが、復興のための支援を現在も行っています。そのおかげもあり、労働組合としても、職員団体としても浪江町職員の方々とは少しずつつながりができていることをうれしく思います。その反面、同じ自治体職員としての大変さも感じます。自治体職員として、また一国民として今後、どういう支援が必要か考えさせられました。

仮設住宅では、住民の方から「もともとは浪江町の津島にいたが、二本松の仮設住宅がある場所は寒くて、昨年は仮設住宅自体が夏用の作りで生活が耐えられなかった。今は、断熱材が入って多少まともになった」「買い物に行くにも車でないといけない。バスが仮設住宅から週に数回出ているが、たくさんの買い物は出来ないので困る」「両親とは別で生活している。仮設住宅は狭くて正月もみんなで集まることもできない」など、直接お話しすることで様々な声を聞き、いろいろ知ることができました。今もなお帰れない状況、それは原発があったからです。核兵器も原発事故も放射線の被害は想像ができません。町長も町民の健康が心配と言われていましたが、何が起こるかが分からない、人によって様々な症状、発症の差があるということが、放射線被害の恐ろしいところです。実際、原発が爆発した際に受けた放射線や、今もなお恒常的に受け続けている放射線のことを考えると町民の方々の健康が心配です。様々な人々のそれぞれの言い分はあるかもしれませんが、原発問題を考える時、今の原発事故で被害に遭った福島の方々等のことを思えば、再稼働や再建設などできないはずです。人の命をうばうようなエネルギーは絶対なくすべきです。改めてそう感じました。平和利用といわれる原発でさえ、なくさなくてはいけないと考えるのだから、核兵器のような人殺しの兵器はあってはなりません。原発ゼロとあわせ、核兵器がない世の中になるように今後とも行動をしていきたいと思います。

大変お世話になりました。ありがとうございました。

(自治労連青年部書記長 岡崎 加奈子)

 

 ▲いろんな話が聞けました

原発事故の上に、被災者・被害者を棄民化する なんて酷薄な社会だろうか

2011年12月の原発事故「収束」宣言への憤り、事故が風化していくという焦りを感じました。メルトダウンし、放射能を出し続けている福島第一原発。事故の経験が活かされない、同心円30kmの「避難計画」。一時帰宅中に、万が一、また事故が起きたらどう避難するというのでしょうか。

独自の「放射線健康管理手帳」を全町民2万1千人に渡した浪江町。身体に「何か」があったとき、被害を立証する為です。そもそも低線量被曝により将来「何が」起こるのかは分かっていません。原発事故の賠償、限度額や時効など「収束」には程遠いです。

福島第一原発事故、被災地域を忘れ去られないため、日本国内のみならず、海外へも情報を発信していく必要があります。

私は、浪江町の実際を知りませんでした。想像力に欠けた自分だから、せめて見聞きしたことを周囲に話そうと思います。

((株)きかんし 大城 伸樹)

 

▲「核兵器全面禁止のアピール」署名にもサインしてもらいました

被爆者と共通する課題、福島の方たちを思う

昨年の大震災以降、10数回目となる被災地訪問となりますが、初めての仮設住宅訪問でした。それもカレンダーを届けるという、心温まりながらも身の引き締まる思いでした。

まず驚いたのは、二本松市にある浪江町仮庁舎内の放射線測定器の数値。常に「0.7~0.9」が表示されていることです。仮設とはいえ屋内でこの数値なのは、きわめて線量が高いといわざるをえません。事故直後より空間線量が低下しているなかで、土壌などの除染が不十分であり、いまだに福島原発から空中に放射線がまき散らかされていることを示しています。

こうした状況のもと、馬場有町長が「町民の健康管理が第一」という姿勢に感動しました。町長が繰り返し「政府や東電の本気度が問われる」と言明されたことに共感するとともに、運動体に身をおく自分たちに何ができるのかを考えさせられました。千葉県では、被爆者団体(友愛会)と民医連、原水協の3者でとりくんでいる被爆者健診がこの9月で丸42年となりました。この間の受診者はのべ3万5千人をこえ、被爆後67年たった今でも被爆者は健康不安におびえています。福島の方たちを思うと、健康不安を解消するとりくみは共通するものがあると考えるだけに、馬場町長の「町民の健康管理が第一」という姿勢と、「健康手帳の全町民配布」はすごいこと。こうした経験を踏まえて、今後の活動にいかしていきたいです。

(千葉県原水協事務局長 紙谷 敏弘)

 

 ▲少しでも穏やかな気持ちで新年を迎えてほしいです

「仮」では済まされない現実 これからも自分たちにできることを

馬場町長が、世界大会出席を議会で報告したことや、原爆展に協力してくれること、支援に感謝しいつか恩返ししたいという気持ちや、これからも外へ発信していく決意などを話してくれ、嬉しさと心強さを感じることができました。同時に、放射能の恐怖は今でも終わってないことを痛感しました。町長は、次に爆発が起きたらどうやって町民を避難させるか、ということを一番に考えていると言っていたことに驚いたし、ショックでした。役場にもリアルタイムで放射能を測定する機械がロビーに設置されていました。それを見て、福島の人たちは低すぎるとか、うちの近所はもっと高いとか、そんな話も成立してしまいます。そんなに、放射能が当たり前に身近になってしまって率直に悲しいと思いました。

仮設の方々にカレンダーを配りながら話を聞いていくと、やはり「収束」とは程遠い現実がありました。仕事がない、やることがない、といってやるせない気持ちを話してくれる人がたくさんいました。4畳半に5人で寝ている家族の話や、昨年は冬に水道が凍り床板を剥がしてみんなで暖房で暖めたことなどを聞いて、ただ生活していくことがこんなに大変なまま2年も過ぎようとしているなんてとショックでした。周りを見回しても、何もない。普段の買い物さえ二本松市内までいかないといけないといいます。仮設住宅なのに、「仮」では済まされない現実がたくさんありました。支援を終わらせてはいけないという気持ちを新たに、これからも自分たちにできることをしていこうと思いました。

(日本原水協国際部 佐藤 愛)

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