ポロニウム「毒殺」事件のミステリー
野口 邦和(日本大学、放射化学・放射線防護学)
2006年11月23日、毒を盛られた疑いで重体となっていたロシア連邦保安庁(FSB)元中佐がロンドンの病院で死亡した。尿から高濃度のポロニウム210が見つかったため、ロシア治安当局関係者による毒殺関与が疑われている。FSBはロシアの防諜、テロ・過激派対策、国際テロ対策などを担当する治安組織で、前身は旧ソ連のKGB(国家保安委員会)だ。
元中佐は、1998年にロシア政府と対立する政商ベレゾフスキーの暗殺をFSB幹部から命じられたが、それを拒否したと記者会見を開き内部告発した。また、1999年夏にモスクワなどロシア国内で起こったアパート連続爆破テロはチェチェン独立派武装勢力によるものではなく、FSBの仕業であると2002年に著書の中で告発したこともある。
11月1日、元中佐はロンドンの某ホテルのバーでロシア人実業家と元FSB職員の2人と面談した。その後、すし店でイタリア人と食事をした。同日夜から体調を崩し、17日に入院。22日に容体が悪化、23日に死亡した。
元中佐の死についてロシア治安当局関係者の関与が疑われているのは、元中佐がプーチン政権の批判者だったことに加え、病床で口述した痛烈なプーチン批判の書簡を友人が公開したからだ。
一方、FSBの元同僚による復しゅう説やチェチェン共和国の親ロシア政権による暗殺説もある。プーチン政権の信用失墜を画策したベレゾフスキーの周辺が、同政権の仕業と見せかけ殺害した説もある。元中佐が自らの死を覚悟してポロニウムを飲み、同政権の仕業と偽装した可能性も排除できないという。
ホテルのバーのカップから高レベルのポロニウムが見つかったため、犯行現場は同店とみられている。同店の従業員、元中佐と面談したロシア人2人やイタリア人の汚染も確認されている。ロシア人実業家にいたっては元中佐と同様の症状を示し、危篤状態という。
ポロニウムは銀白色の金属で、その同位体はすべて放射性だ。最も重要なのはポロニウム210だ。ビスマスを原子炉で中性子照射して生産でき、ロシアは月8グラムを生産・輸出しているという。
元中佐から見つかったポロニウムは致死量の100倍を超え、入手には2000万ポンド(約45億円)かかるという。個人の犯行ではなく資金力豊富な組織の犯行に相違ないが、ポロニウムなどという超希少物質を使い、死ぬまでに3週間以上かかる内部被ばくを殺害方法として用いていることから、実行犯は殺しのプロではなく素人であるといわざるをえない。それにしても不可解な事件だ。