「ビキニ事件」の内部被ばくと「福島原発被災」のこれから
幡多高校生ゼミナール顧問
高知県太平洋核実験被災支援センター事務局長 山下正寿
「〝ビキニ事件〟とよく似た福島原発事故」
福島原発事故の放射能被災が深刻化し、ついに海の高濃度放射能汚染が広がりはじめた。現在の福島原発事故の政府対応の特徴は、放射能汚染の過小評価と情報の矮小化を基本姿勢としているために、事故処理が後手に回り、深刻化していることである。「ビキニ事件」も、第5福竜丸だけにスポットを当て、事件の実相を矮小化した政府対応が見られる。被爆マグロを廃棄した船は延1000隻をこえる。アメリカの水爆実験を目撃した第5福竜丸の漁船員は2週間で焼津港に帰り、急性放射線障害と診断された。しかし、死の灰を浴びたその他の被災漁船は水爆実験と気付かず、操業を続けていた。
水爆実験は、ビキニ・エニウェトク環礁で、1954年3月1日から5月14日まで6回行われていた。実験の回数が重なるほど大気や海水の汚染は深刻な状態になっていったが、漁船員らはスコールで体を洗い、雨水を利用し、海水風呂に入り、獲れた魚の内臓を食べたりした。これらのことが、内部被曝による晩発生障害で漁船員を苦しませる原因となった。
しかも、日本の漁港にもどった第5福竜丸以外の被災船については、ガイガーカウンター(放射能探知機)に放射能反応があっても、「頭を洗っておけ」と船員に注意するくらいで、検査対象は船体とマグロの汚染であり、人体の検査記録は除外されていた。
「海水の汚染は食物連鎖で深刻化する」
福島原発事故対応で、水産庁は当初HPで「放射能は食物連鎖を通じて魚体内で濃縮・蓄積しない」と非科学的な見解を示していた。また、「海に流出した放射能水は、やがて拡散・希釈する」とし、ビキニ事件の海水汚染が上層と下層が温度差のため混ざらずに移動し、沖縄近海で汚染魚が取れだした事実を無視した。こうした政府の対応が、東電による一方的な放射能汚染水の海中放棄を許し、外国からも抗議されることとなった。東電は4月21日、海に流出した汚染水の放射性物質の総量は、少なくとも4700テラベクレル、約520トンと公表した。6月3日に、東電は福島第一原発1~4号機の建屋地下などにたまっている汚染水の総量は計10万5100トン、ヨウ素・セシウムの放射能は計72万テラベクレル(同原発の外部への放出限度の327万年分)と公表した。
三陸沖は世界三大漁場と呼ばれ、親潮の運ぶプランクトンを貝や子魚が食べ、イカ、サンマ、ニシン、カツオ、マグロが育つ豊かな漁場である。 福島原発沖は親潮と黒潮がぶつかり、黒潮が沖に流れ、一部は反転して西日本の沿岸に沿って下り、この流れにのるカツオが「下りガツオ」とよばれる。放射能汚染されたプランクトンを貝や小魚がたべ、食物連鎖で半減期30年ほどのセシウム137が肉に、ストロンチウム90が骨に集まる。4月に入り、茨城県沖で獲れたコウナゴから4000ベクレル/kgの放射能が検出され、海底土、海草、ジャコ、イカなどからも検出されているが、今後カツオやマグロなど高濃度の大型汚染魚が出てくる可能性がある。
海へ垂れ流していた放射能汚染水が一時的に止まっても、今までの累積した汚染水(地下水)や原発周辺に累積した放射能が雨のたびに海へ流れだし、海水と海底の泥に堆積する可能性がある。
「ビキニ事件」の時、日本政府の調査船・俊こつ丸は、1954年5月15日から水爆実験被災の第1次調査を行い、ビキニ環礁150キロのところで最大汚染水域に突入した。海水の放射線量は7000カウントをこえ、水しぶきを浴びるだけでも危険という状態で、プランクトン(10000カウント)も魚(かつおの肝臓48000カウント)もすべて汚染されていた。汚染海水は、深さ100メートル、幅約10キロから100キロのベルト状になってゆっくり西方に流れていた。
ビキニ事件から2年後の1956年5月26日から6月30日まで、俊こつ丸による第2次調査が行われた。その結果、海水汚染は北赤道海域の面まで広がり、魚体内には1954年の水爆実験時の放射能が未だに残っていることも判明した。
「汚染マグロ検査の中止」
「ビキニ事件」の1954年3月当初、放射能に汚染されたマグロの部位は内臓やエラであったが、8月以降になると肉や骨からも放射能が検知されるようになり、特に半減期が30年と長いストロンチウム90などによる深刻な影響も現れてきた。12月に入っても船体から16000カウント、マグロからは2000カウントの放射能が検知される船もあった。しかし、11月に成立した鳩山一郎内閣は12月6日に閣議決定し、アメリカ原子力委員会の主張を取り入れ、マグロの放射能検査を12月末に打ち切った。1955年1月4日、日本政府は、慰謝料200万ドル(7億2000万円)の支払いをもって、アメリカとの最終的な解決をはかるという政治決着をおこなった。「ビキニ被災問題妥結は、日本政府による日本の反米感情を一掃するための具体案だ」とするアメリカ寄りの鳩山内閣によって強引に事件の幕引きが進められた。
福島原発事故の政府対応は、最初から、検査を意図的にせず、数値も低く示す姿勢が変わっていない。サンプリング回数が少なく、少し大きめの魚は骨・頭・内臓を捨てて、身だけを計測している。このまま推移すれば、汚染魚が消費者に届くようになり、パニックはおさまらない。漁業者にとっては、厳しい時であるが、今は丁寧な放射能検査を政府に要求し、漁業補償体制を確立することを優先し、消費者に汚染魚を届けない姿勢を示す事で信頼をえてパニックは収まるだろう。ビキニ事件の時のように、『騒ぐほどマグロの値が下がる』と漁民が口を閉ざせば、補償金も切り下げられ、漁民の放射能被災も放置される可能性がある。復興の名のもとに、挙国一致の総動員体制づくりは、原因究明を曖昧にし、事件をもみ消し、内部ヒバクシャを広げることになる。
「深刻なビキニ被災船員の健康実態」
マグロ船第2幸成丸(室戸・192トン)は、故崎山秀雄船長の漁業日誌により航路が明らかになった。1954年2月24日に神奈川県浦賀を出航し、3月1日の時はビキニに向かって航行中のため実験に気がつかずにビキニ東方1000キロの海域で17日間の操業を続けた。操業終了前に2回目の実験が行われ、帰路の4月7日に3度目の実験と、航海中に3度の水爆実験があった。4月15日に東京・築地に入港し、都の検査で船の方向探知器やビン玉から4000カウントが検出された。
乗組員20人(保険登録者のみ)を追跡すると生存者7人、病死12人(ガン4人、心臓発作4人など)、不明者1人であった。病死者は70代前半2人、後の9人は40~60代であった。
新生丸(安田・172トン)の乗組員については、宿毛市の漁村から同じ船に乗り継いだ7人をグループとして追跡した。7人は1954年の南方海域の操業中に白い灰を目撃し、東京に入港した時に検査を受け、魚、船体、漁具に異常が認められたと全員が証言している。このグループはもう一度、1957年に第8達美丸に乗って、サモア諸島海域で操業中に、クリスマス島の核実験を目撃している。7人中、生存者は1人であり、病死6人(ガン4人、心臓発作2人)、50代が3人であった。生存者の1人も心臓近くの血管と胃の手術をしている。なお、新生丸は19人の乗組員が保険登録されており、死亡者は14人、生存者2人、不明者3人であった。第5海福丸は4月7日帰港時に汚染マグロ340本が海洋放棄された。乗組員の判明者18人中9人が病死(ガン5人)し、生存者もリンパ腺ガン、結核、胃潰瘍などで手術をしている。
第2幸成丸、新生丸、第5海福丸の3隻の漁船員のガン死亡率は、0.615%、2.0%、0.65%となり、広島原爆爆心地から1km以内の原爆被爆者の0.504%よりも深刻な被曝をしていたと推定される(沢田昭二、名古屋大名誉教授)。これらの漁船はいずれもビキニ東方で操業し、第5福竜丸に近い位置にいた漁船である。
高知県ビキニ被災調査団による自主的な健康診断が1986年に室戸市(8人)土佐清水市(10人)、1989年室戸市(47人)で高知民医連の協力で開かれ、計65人の被災漁船員が受診した。1986年の検診者18人の血液検査の結果、好中球減少症(10人)、低リン酸血症(11人)など増血機能に障害が明らかに見られると診断された(森清一郎医師)。ストロンチウム90が体内に摂取され、脊髄に付着し、33年を経ても内部被ばくの影響がみられる。1989年の室戸の検診者47人の聞き取り調査で、脱毛(2人)、嘔吐(2人)、歯ぎん出血(1人)、顔面異常黒色(1人)など放射線急性障害が見られた(脱毛は3~500ラド)。また、既往症は、胃・十二指腸潰瘍手術(7人)腎臓手術(1人)甲状腺手術(1人)であった。検査成績は、高血圧22人、心電図異常10人、造血機能障害炎27人(白血球4人、血色素8人、ヘマトクリット13人、血小板2人)肝臓障害炎36人、腎臓障害炎25人、腫瘍マーカー(癌の疑い5人、癌を考える2人)などであり、総合判定では、異常なし3人(検査・左室肥大2、既往症・心臓病1、胃潰瘍1)、軽い異常11人、再検査必要10人、精密検査必要14人、治療必要9人であった。
こうした検査結果からビキニ被災漁船員の内部被ばくによる深刻な晩発性障害がみられる。現在の福島原発被災が、海洋汚染によって、漁船員から、消費者に内部ヒバクシャが拡大しないようにするためにも、健康調査を徹底しなければならない。
「米公文書・キャッスル作戦・放射性降下物」
公文書は、55年に米原子力委員会が米気象局と作成した報告書抜粋版で84年に機密解除されていた。世界界122地点で観測し、3月~6月の4ヶ月間、ほぼ毎日測定したd/m/ft2(約30センチ四方の粘着板に1分間に当たる放射能崩壊数)を、放射能減衰曲線に沿って、実験から100日後の予測数値と6回の総量も記録している。ビキニ環礁から東西に降灰は日本・フィリピン・メキシコなど北半球を中心に広がり、アメリカには日本の5倍も降っている。6回の実験の総核威力は48.3メガトン(広島原爆の約3220倍)、放射性降下物総量は100日後で22.73メガキュリー(2273万キュリー)である。また、ビキニ海域の放射性降下物の地図に、東京都衛生課の「船体に放射能のあった船」の記録を重ねると、第五福竜丸を含む5隻が200000d/m/ft2海域に、7隻が100000d/m/ft2海域に、10隻が50000d/m/ft2海域にいて、日本のマグロ漁船の船体汚染が米「公文書」で立証されたことになる。ビキニ水爆実験で「死の灰」は成層圏に達し、1年以上も北半球全域に降り、ストロンチウム90、セシウム137など60年近い放射能汚染が続き、今も地中や海中に残留して人間の発ガン率を高めた原因と言われている。
福島原発事故による放射能汚染は、長期化し海洋汚染が進めば、日本だけでなくアメリカ西海岸に届き太平洋を巡り、世界に広がる危険性がある。ビキニ核実験の影響でいまだに日本の沿岸に微量の放射能汚染海水が流れつづけている。放射能汚染は長期にわたり、その解決には国際的な協力が求められている。
「核廃絶への道に青年の参加を」
高知県西南部・幡多(はた)郡に、1983年の夏、公立高校9校を結ぶ自主的サークル「幡多高校生ゼミナール」(幡多ゼミ)が結成され、地域の現代史調査にとりくんだ。1985年、原爆被爆40周年にあたり、地域のヒバクシャ調査中にビキニ水爆実験被災漁船員の存在に突き当たった。「高校生たちは、ビキニ事件の社会的背景、水爆実験と放射能、気象と「死の灰」、マーシャル諸島のくらし、黒潮と漁業など「知りたいから学ぶ」本物の学習を積み重ねて、後輩へと引き継いでいった。「学び、調査し、表現する」活動は、幡多地域から室戸、東京(第五福竜丸)、焼津、広島、長崎、沖縄へと「平和の旅」を軸に広がり、歌・紙芝居・合唱構成詩・本・VTRそしてドキュメンタリー映画「ビキニの海は忘れない」など、社会に向けて溌剌とした意見表明を続け、2011年に第2回「焼津平和賞」を受賞した。
活動のなかで、「社会科で現代史をほとんど教えていない」「日本は海に囲まれた国なのに、学校で漁業のことを学ぶ機会がない」など、教育の課題も明らかになった。家族や地域のかかわる課題解決能力が、今の日本の青年期教育に決定的に欠けていて、学校の狭い視野での学習の繰り返しで、成長がゆがめられている。身近な社会とのつながりを持てないままでは、進路選択も出来ず、進路が絶たれる深刻な事態に直面しても打開の道筋を見つけることが出来ない。
福島原発事故についても、高校生を「原発見学」に参加させた教育委員会や学校の責任が問われる。原子力発電や放射能汚染についての科学的な判断力の育成と原子力に頼らないクリーンエネルギーや暮らしの見直しを含む学習が求められている。教育もまた「学力神話」から脱皮し、自らの生活を守り育てる学習をすすめたい。
2010年は、NPT・核拡散防止条約会議の成果、国連事務総長のヒロシマ平和記念式典への参加、そしてビキニ環礁の[負の世界遺産登録]と核廃絶の道がより現実的かつ国際的に加速された。
ミクロネシア連邦憲法前文にかかげられた「世界はひとつの島なのだ」というスローガンを掲げ、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニを結び、日本の青年が先頭に立ち、国際的反核ネットワークを広げ、核廃絶の大道に参加する道を広げたい。