【宮崎】よびかけに30自治体中28名の首長が署名

昨年4月に日本原水協が非核の政府を求める会と共同でよびかけた「非核日本宣言」運動は、各自治体で3月議会が終わり、賛同署名や議会決議があがっています。首長・議会議長の賛同署名は、360人の首長、250人の議長に広がっています。

宮崎県では、「非核日本宣言」のよびかけに谷口義幸・日南市長、内野宮正英・川南町長が署名し、30自治体中28名となりました。また、「非核日本宣言」意見書がえびの市議会、北郷町議会で採択され、1市4町となりました。今年2月に賛同した谷口市長からは、「非核日本宣言のよびかけ」賛同書と一緒に2005年8月に「核兵器をなくそう」という市長の思いを掲載した市広報紙の「清流」という随想が送られてきました。(宮崎県原水協事務局長・毛利泰之)

清流⑤
2005年8月
「核兵器をなくそう」
谷口義幸

私がまだ2歳であった60年前の8月6日広島に、9日長崎に原子爆弾が落とされ、多くの人たちの犠牲を伴い、戦争は終わりました。

その原爆を造った人は、アメリカ・マサチューセッツ工科大学(MIT)の物理学教授、ビクター・F・ワイスコフ博士です。博士は、オーストリアのウィーンに生まれ、ドイツのベルリン大学で教えていましたが、ユダヤ人であったためナチスによって教職を追われ、スイス、デンマークと流れ、アメリカへたどり着き、オッペンハイマー博士の求めに応じて、原爆の製造に取り組みました。

後年、博士は、「私は、広島、長崎に落ちた原爆を造った1人。ヒトラーが咲きに開発するかもしれないと言われて、夜を昼にして、原爆づくりに励んだ。ウィーンの親戚がナチスに殺されたと聞いて、なにがなんでもヒトラーに負けてたまるか、という気持ちだった」と言っています。しかし、その原爆が、その時すでに降伏していたヒトラーのドイツではなく、一億総玉砕の道を突き進む日本の広島、長崎に向けられたとき、”大変なことになった”と思ったそうです。

そして戦後、科学者は原爆を造らないようにしようと言って、自ら「原子力科学者連盟」を結成したり、また、アインシュタイン博士提唱の「科学者非常事態委員会」に参加して、核兵器をなくす活動をしました。
ちょうど20年前の8月、東京学芸大学在職中、「教職員の海外研修」でアメリカを訪れた折のことでしたが、同月3日から9日までが「ヒロシマ・ナガサキ記念週間」で、原爆投下の時刻に教会の鐘を一斉に鳴らしたり、ミシシッピ川では灯ろう流しが行われたりと、全土でさまざまな運動が熱心に繰り広げられていました。

本市では昭和62年に「非核平和のまち日南市宣言」を行っています。全国、全世界へとその盛り上がりを期待するところです。原爆の悲惨さを、広島、長崎で経験した私たち日本人は、「核兵器をなくす!」という使命を負わされているのではないかと思います。そして、世界に恒久平和が訪れることを願っています。

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