鳥取県原水協は、1990年の原水爆禁止日本協議会国際遊説団ニュージーランド班に伊谷周一事務局長(当時、広島原爆被爆者)を派遣、同国首都ウェリントン市議会による「原爆の火」(東京・上野東照宮に保存)の保存決議に応えた「火」の運搬と、同国平和運動との交流に協力した。「火」は同市植物公園内の日本庭園の石灯籠型トーチに「永久保存」されている。
そのような縁もあることから、今回「原爆の火」の保存に関するアンケート調査を行い、その結果をまとめた。調査対象は星野村の「分火許可団体リスト」(2006年3月現在)、豊橋市桜丘学園の「原爆の火サミット」資料(1999年)および山田和尚氏(下記)による「『心の火』分燈リスト」(2001年5月21日現在)にある83ヶ所で、趣意書にアンケート用紙を沿え分灯年月日、保存器具、燃料、経費などについて回答の協力をお願いした。
福岡県八女郡星野村出身の兵士(故)山本達雄氏は、アメリカによる人類史上初の広島原爆攻撃により爆死した叔父宅の地下倉庫で発見した「燃え残り」を持ち帰り、「恨みの火」「仇討ちの誓いの火」として火鉢やこたつにひそかに保存していたが、「報復では永久に平和は来ない」と心を昇華させ、23年後の1968年、星野村役場に提供した。同村は1990年条例を制定し「平和の火」として保存、以来2006年3月までに12の自治体、宗教施設などに分火(再分火を許さずの条件)している。
1988年第3回国連軍縮特別総会が開催されるにあたり、原水爆禁止世界大会実行委員会は広島→東京および長崎→東京の平和行進を組織し、広島コースは星野村の「広島の火」を、長崎コースは被爆者が長崎の被爆瓦と木の棒をすり合わせて発火させた「長崎の火」を先頭に掲げて全国に紹介、行進はいくつにも枝分かれして各処に分火・分灯した。「火」はさらにアメリカ大陸に渡り、国連およびニューヨーク市セント・アン教会に贈呈されたが、それらについての保存状況は不明である。
長野県松本市の青年団も平和行進団から分灯を受けたが、その後同市神宮寺に移譲した。1995年の神戸大震災にあたり「神戸元気村」を創設して復興事業に力を尽くされた山田和尚氏は、神宮寺の「火」を受け2000年から2001年にかけ北海道から沖縄まで「こころの火」と称して約50ヶ所に分火、分灯された。それらの火はさらに分火、再分火されたと思われるが詳細についての記録はない(星野村からは「『平和の火』と『こころの火』は別物として取り扱うように」との要請があった)。
また、「こころの火」はイギリスのグラストンベリーでの伝統的な音楽祭で点火されたのち王立博物館に分灯予定との新聞記事があり(朝日新聞)、また同国ロンドン市などでも分灯された記録があるが、その後の保存については不明である。さらに2002年1月、米国ワシントン州からニューヨークの同時テロで崩壊した世界貿易センター跡地まで、懐炉に入れた「原爆の火」を運ぶ行進の記事(日本海新聞)がある。
いま核兵器をめぐる世界の状況は、核保有国の拡散やアメリカのブッシュ政権の「核兵器をふくむ先制攻撃戦略」言明など容易ならぬ情勢もある一方、イラク戦争開戦前の数百万人におよぶ地球的規模の反戦デモその他、「戦争やめよ、核兵器許すな」の全世界的な潮流がかつてなく高まっている。
しかし日本では、平和憲法第九条を廃棄して再び「戦争する国」に改変しようとする動きが急速に強まって、あたかも「戦前」のような状況を呈し、「広島・長崎への道」への行進が始まるのではないかと危ぶまれる。
このような時にあたり、日本全国および世界に分灯されている「原爆の火」の存在とその果す役割をひろく報せ、日本と世界の平和を守りつづけねばならない。
大切なことは、物理的な「火」は消える可能性があるが、「火を守る」=「広島・長崎・被爆者を忘れない」=「人類の平和を守る」ことを理解し、一人でも多くの人々の心の中に「火」を灯しつづけることだ。
原水爆禁止鳥取県協議会
理事長 伊谷周一