私の被爆体験
松本秀子
私は昭和20年の8月6日まで(人類最初の核爆弾が投下された日)広島市材木町に10人家族で住んでいました。その材木町は今の平和記念公園の中心あたりにありました。今は材木町という町名すら残っていませんが、そこにはひと抱えほどの自然石に【材木町跡】と刻まれた石碑が説明板と並べて建てられています。
最近でも時折「原爆が落ちたのが誰も住んでいない公園でよかったね」という声を耳にします。とんでもないです。今でこそ広い静かな公園になっていますが、広島で一番にぎやかな場所で、大きな商店が軒を並べ、たくさんの人が暮らす繁華街だったのです。そこへ原爆が投下され、中島地区一帯は廃墟と化したのです。そして復興の過程でこの広い祈りの場ができたのです。
爆心地から1㎞圏内には、南に広島県庁があり、北に広島城が高くそびえ、広島は日清戦争の頃には大本営が置かれる軍都だったのです。
昭和20年頃にはアメリカ軍の空襲を受けるようになりました。
空襲火災の延焼を防ぐため、建物強制疎開が急ピッチで行われ、その後片づけに市内中の中学生男女1、2年生全員と、近郊の人達も動員されて作業にとりかかろうとしたその時・・・。
私はいつものように朝7時頃、母の作ってくれたお弁当を持って「行ってきまーす!」と家から3㎞南の翠町にある女学校へ行きました。これが家族との今生の別れになるとも知らず、校舎の2階で友達とお話をしていました。
すると、突然、本当に突然、何の前触れもなく、世の中がオレンジ色に包まれ、とっさに机の下にもぐり込みました。それから静寂の5〜6秒、今のうちにと立ち上がった瞬間、ものすごい爆風と爆圧に圧迫され、粉々になったガラスを右側面の顔、肩、腕に受け、血を流しながら校庭の防空壕まで走り込みました。
そのあと、何の動きもなく、学校からの指示もなく「市街地が大変なことになっている」との情報があり、家に帰ることにしました。お昼頃、御幸橋の上には今のものすごい閃光に身を焼かれ、火煙の中から逃れて来た人達が倒れ込み、座り込む人、髪は逆立ち、皮膚は引き裂かれて垂れ下がり、次から次へと足を引きずりながら避難して来る人、人、人。どうしてあげることもできず、声も出ません。地獄でもこれ程ではないであろう程の惨状です。
この人達はつい先程まで、セーラー服姿の可愛い少女や、ゲートル姿の凛々しい男子中学生でした。やがて軍隊のトラックで江田島や、鉄輪島に収容されたようです。
その日は我が家には帰れず、大混雑の中、材木町の近所のおばさんのご実家に誘われてお世話になりました。その晩、広島が燃える真っ赤な夜空に誰も一睡もせず、翌7日早朝我が家を目指すも、まだまだ火が残っていて入れず、8日やっとあの我が家が・・・あの材木町が・・・見渡す限りの地球が私の足下に崩れ落ち、どことも知らない荒野にひとりポツンと立っている感覚、そのうち体が小刻みに震え、だんだん大きくなり、泣いていました。その声はまわりの不気味な静寂の中に吸い込まれていきました。
ようやく変わり果てた我が家に入りました。我が家の玄関と台所辺りにきれいな白骨が2体ありました。「ああ、お母ちゃんだろうか?」・・・「お姉ちゃんだろうか?」・・・見覚えのあるお茶の缶に拾いました。カラカラと鳴りました。
我が家の周りには炭のように変わり果てた、4〜5体の物体が・・・「これは弟の衛君ではないか」・・・「妹の記子ちゃんでは?」・・・と思いましたが、私はどうすることもできませんでした。
放心状態で歩いていると爆圧で両目が2〜3㎝も飛び出した遺体にもあいました。炭化したお母さんとまだへその緒でつながった赤ちゃん親子の遺体に思わず手を合わせました。南無阿弥陀仏。
空襲火災の延焼を防ぐため防火帯をつくろうと、建物疎開の後片付けに動員されたまだ12、3歳の男女中学生が、火傷の体を必死で支えながら親の迎えを待っていました。中にはすでに命尽きた人も・・・。
惨いことに土橋辺りでは、たくさんの亡くなった人を兵隊さんが1か所に積み上げて荼毘にふしておられました。
私の同級生もお父様や、可愛がっていた弟さんを自分の手で荼毘にふしましたと、同窓会の時に話しておられました(その時彼女らは15歳の子どもでした)。
9日朝早く町の要所に書き出してある救護者名簿のおかげで父と鉄輪島で会う事ができました。父は中広町辺りの知人の家で建物の下敷きになりましたが、幸い大きな外傷はなく目を痛めていました。
鉄輪島にも大けがや火傷をした男女学生さんが、バラックの兵舎に収容されて看護を受けていましたが、次々に亡くなっていき、肉親の声をひと目、ひと声聞くこともなく裏の山に葬られていきました。
その間にも、空襲警報のサイレンに身を潜めながらの生活です。鉄輪島で二晩お世話になり、音戸へ行くべく市内を歩いていましたら、天満川のほとりで妹の喜久ちゃんの服の切れ端が私の目に留まりました。母の着物を仕立て直して私とお揃いを作ったのです。
あの日の朝、13歳の妹は土橋へ疎開の後片付けに行くと言っていました。閃光を浴びてくすぶる服を脱ぎ捨てながら天満川に入って行ったのでしょうか。7日の日に私はあのそばを通ったのに、見つけてあげることができませんでした。胸が痛みます。一生忘れることはできません。
17歳の姉は当時流川に在った「中国新聞」本社に勤めていましたが、消息もわかりません。母はあの時、家の下敷きになりながらも、とっさに私達子どもを両手に抱きかかえてくれたのだと思います。今も平和公園の下には、たくさんのお骨や暮らしていた街が埋まっています。2〜3年前、若い女性が「この辺りはそっと歩いてほしい」と静かな祈るような口調でインタビューに答えておられました。
慰霊碑の北西に直径10m位の丸い土まんじゅう形の原爆犠牲者供養塔があります。ここには国籍、宗教を問わず、約7万人のお骨と慈母観音像が納められています。私の家族、当時40歳の母、17歳の姉、13歳の妹、小学1年生になったばかりの元気な弟勉君6歳、4歳の妹記子ちゃん、2歳の弟衛君もこの供養塔に納められています。私にとって大切なお墓です。材木町に来たら必ずお参りに来ます。父と私は音戸に行き、疎開していた弟妹達も音戸で親戚のご好意で生きてきました。
父は、妻と子どもの6人と生活の基盤一切を一度に奪われ、その上、ひどい原爆症に痛めつけられ、髪の毛は抜け落ち、体中パンパンに腫れ上がり、口中の肉は溶け、歯は勿論のこと上顎の骨まで溶け落ちてしまいました。それを見てみんなで放射能の恐ろしさに震え上りました。42歳の壮年の父がいっぺんに100歳のおじいさんに変貌してしまいました。原爆症に痛めつけられ、その上がんを併発して父は58歳の若さで亡くなりました。
この戦争は何のための戦争だったのか?あの恐ろしい原爆は何をするための爆弾だったのか?犠牲になった人達に、お父さんに、お姉ちゃんに、妹達に何と報告すればいいですか。もうすぐみんなに逢いますけど・・・。
私は広島に行くのがイヤでした。当分行けませんでした。我が家を土足で踏みにじられているような気がして、今でも数字の8と6が並んでいるのを見ると体が緊張します。でも今は年齢も重ね、歌の好きな私は素晴らしい先生のご指導のもと、お仲間と一緒にコーラスを楽しんでいます。これも平和な世であればこそです。
戦争のない、核兵器のない世の中を願って世界中からこの広島に大勢の人が集います。この願いがあの人と、この人とハイタッチでつなげられたら素晴らしいと思います。つなげましょう。
「ピカドンが落ちたら 昼が夜になり 人がお化けになる」
被爆間もない頃、「中国新聞」に掲載されていた児童の句です。
原爆資料館の東側記念館に原爆投下直後の様子を被爆者が描いた絵が展示されています。シリーズごとに入れ替え展示されます。是非ご覧ください。