マーシャル諸島の国民からの、特に、さまざまな苦しみを経てきたロンゲラップの女性からのごあいさつを送ります。1954年のブラボー実験から62年の記念行事にお招きいただきありがとうございます。日本を訪れ、正義のためにたたかっている友人のみなさんとお会いできることはいつも喜びです。温かいおもてなしに感謝します。
私が初めて日本と焼津に来たのは2000年でした。当時私はロンゲラップ選出の上院議員に当選したばかりで、未熟で、世界の核問題やマーシャル諸島の問題についてもあまり知りませんでした。人権を守ることの意味も、自分が服務する国民、家族、友人の人権が侵害されてきたことさえも知りませんでした。今日までの十数年間のあいだにそれを教えてくれたのはみなさんでした。マーシャルの私たちは全員、みなさんの真の友情に心から感謝しています。自らの被爆体験から核兵器がもたらす被害と影響について人々の認識を高める活動を献身的に行い、マーシャルをはじめ世界中の核被害者へ連帯の手を差し伸べてくださいました。心から感謝します。
それ以来、みなさんの足跡をたどりながら、私たちは多くの障害を乗り越え、たくさんの活動を積み重ねてきました。人々の意識を高め、被ばく者とまだ若い政府を支えてきました。今年初めて、3月1日の核被害者追悼デーは政府よりもNGOが中心になって組織されます。青年の組織を含め、3つの新しく結成された団体が共同して、人権を守るということについて一般国民を啓蒙しています。私たちの人権は気候変動によっても侵害されており、核被害の問題と切り離して考えることはできません。
そして今年初めて、核被害者追悼行事を、現在私が生活し働いているクワジェレン環礁のイバイ島でも行ないます。また、マーシャル諸島政府による核保有国の提訴について国際司法裁判所(ICJ)で審理が行われます。マーシャルでは最近新政権ができたばかりで、この提訴への対応がどうなるのかまだわかりません。オランダ・ハーグでの公聴会が3月7日に始まるそうです。わが国の政府がどのような決定を行うにせよ、それが世界平和と、人々の権利の享受、正義の実現につながるものとなるよう、一緒に祈ってくださるようお願いします。
アメリカは、わが国政府が要請した、多くの新たな被害事例への追加補償を求めた「状況変化申し立て(Changed Circumsances Petitions)」を拒否し、被ばく者に対する医療プログラムの改善も行っていません。しかしICJへの提訴は、被ばく者であるレメヨ・アボン、リノク・リクロン、ナミコ・アンジャイン、ベティ・エドモンド、ネルジェ・ジョセフ、エルミタ・ボアスたちに、これらの問題に終止符を打ち、新たな出発点となるかもしれないという希望をもたらしています。これらロンゲラップの女性たちは、アメリカが「世界平和のため」として核実験を行い世界の超大国になるための犠牲にされ、大変な苦しみを経験してきました。彼女たちは、故郷を高い放射能で汚染され、家を失い、避難生活を強いられています。
1954年3月1日、ビキニ環礁から300マイルの所にあるロンゲラップ環礁と、ビキニから約100マイルの所を航行中だった第五福竜丸はどちらも、「ブラボー実験」という同じ爆弾で汚染されました。これが日本とマーシャルの人々の生活を永遠に変えてしまったのでした。
今回、私はベティ・エドモンドの話をしたいと思います。ブラボー実験の時、彼女は12歳でした。空から降ってきた死の灰を雪か石けんと思い、手に一杯すくって、自分の髪の毛や顔、腕などにこすりつけて遊びました。他の子供も同じように遊びました。その日おそくなって、子供たちは助けを求めて泣きました。かゆくて転げ回り、吐き気がし、体じゅう痛くて、下痢に苦しみました。診てくれる医者も薬もない中で、島の82人の大人と子供たちは、苦しみを和らげるためにできることは何でもしました。3日後、アメリカ人がやってきて、島民をクワジェレンの基地に避難させました。そこでは、人体への放射線の影響を研究する4・1プロジェクトが始まっていたのです。島民はそこに3か月間留め置かれ、その後マジュロ環礁のエジット島に移され、1957年までそこで暮らしました。その後、ロンゲラップに帰島させられたのです。1985年、ロンゲラップ島民は汚染されたロンゲラップ環礁での生活から逃れるために、クワジェレン環礁の不毛のメジャット島に移住しました。そして、現在もそこで暮らしています。
ベティは流民の生活を強いられた一人です。子供のころから快適とは縁のない生活をし、彼女と家族は研究の対象で、自分たちに人生があるなんて感じられず、いつも恐怖にさいなまれながら生きてきました。彼女は被ばくして以来、米国エネルギー省の医学調査プログラムの対象であり、エネルギー省が自分を治療しているのか研究しているのか、いつも疑っていました。
今ベティは乳がんを患い、家族と離れ、ホノルルの慣れない土地で治療を受けています。彼女はそれまで欠かすことなくエネルギー省の診察を受けてきました。彼らは、甲状腺癌、乳癌、結腸癌、胃がん、肝臓がん、そして糖尿病や血球数の低下などの病気も検査します。しかし、彼女は昨年の11月に初めて癌を知らされ、ホノルルに来るように言われたのです。その時、彼女の癌はすでに進行しており、手術が必要で、治療には4か月かかることを知ったのです。彼女は2月の後半再びホノルルにもどりました。手術の傷が化膿したからです。彼女は乳がんの前に二度甲状腺の手術を受けています。流産も幾度か経験し、夫もガンで亡くなりました。これがベティの人生です。これが核兵器が人間にもたらしたものです。早くに死なないで運が良かったと言われるかもしれませんが、その分苦しみは長く続きます。彼女は島民がロンゲラップに戻ることも支持していません。帰島するにはまだ十分でないと考えているのです。ロンゲラップのインフラを整備することだけでなく、よりよい食料安全計画、経済発展も必要です。そして何よりも、放射能の汚染除去が、米国、マーシャル諸島政府、ロンゲラップ環礁自治体と人々の間で合意された安全基準を満たすまで、きちんと行われるべきです。
ベティが強い心をもって生きていてくれて、控えめながらも、自分の経験を話してくれたことに感謝します。話をすることは時には困難です。というのも、人々に放射能による真の被害を理解してもらうためには、マーシャルの伝統的な慣習も破らなければならない時があるからです。ベティ、あなたは私たちの英雄であり、あなたの人生のたたかいは、私たちと世界のためのたたかいです。私の叔父であるジョン・アンジャイン、ネルソン・アンジャイン、私の父、ジェトン・アンジャイン、いとこのリジョン・エクニランらと同様、私たちはあなたを決して忘れません。
最後に、ブラボー実験が私たちに与えた被害を風化させてはなりません。このようなことが再び起これば、その傷跡は数百年を超えて続くからです。私たちの先人たちを大切にし、お互いに連帯し、核兵器が二度と使用されることがない世界を実現しましょう。