9月17日、前福岡県原水協事務局長の木村勇氏が逝去されました。今年の原水爆禁止世界大会−長崎で会えるものと思い私も会場に向かいましたがお会いできませんでした。まさか病気療養中とは予想もしていなかったので、突然の訃報に驚愕しています。重責を退任され、これから自分自身の人生を、そして一心同体で活動を支えてこられた奥様との時間を過ごしながら、原水爆禁止運動の行方を見定めたかったに違いありません。
私は1994年6月、何もわからないまま被爆地長崎の原水協事務局長に就任しました。木村さんは私より先に、そして私より後まで福岡県の事務局長を務め、その傍ら九州ブロックの全国担当常任理事として九州の運動をリードしてこられました。私も被爆地選出の全国担当として木村さんと共に活動してきましたが、私が大過なく任務を遂行することができたのも、地元の諸先輩とともに木村さんの影響が大きかったと感謝しています。
木村さんは私と同年代で、かつ1960年の安保・三池闘争の最中に青年運動に加わり活動をスタート、その後半は原水爆禁止運動にともに参加することになったのも何かの縁だったのかもしれません。
原水協運動では数々の思い出がありますが、中でも九州ブロック原水協学校を各県持ち回りで沖縄を含むすべての県で開催してきたこと、重要課題推進にあたっては九州各県原水協事務局長会議を開くなどして各県の運動強化と交流に役立てるなどがあります。このように木村さんは福岡県が九州最大の県として、世界大会−長崎がメインの時も広島も長崎も責任を果たす立場で奮闘されてきたし、九州の運動発展にも心を砕いてこられました。もちろん署名をはじめ各種のとりくみでも福岡県が先陣を切り私たちを励ましてきました。
木村さんは私が病に倒れた一昨年春、入院先の病院まで奥様とともに見舞いに駆けつけてくれました。検査室を出てエレベーターまでの数メートルで顔を見合わせただけで木村さんは帰られました。私の病状を察して言葉をかわすことを遠慮されたのだと思います。そしてその後、九州各県に連絡され、各県からのお見舞いを送っていただきました。すでに第一線を退いた私に、これほどの思いやりをいただき、木村さんの人柄をうかがい知ることができました。私はこうした原水協活動を通じて育まれた友情が今を生きる力となっていることを実感しています。
90年代後半、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名の国民過半数達成を目指して各県が県民過半数達成を競い合った時代が懐かしく思い出されます。今日本原水協は事務局のメンバーも若返り、各県の当時のリーダーたちの多くが後継者と交代する世代交代の時期に入っています。個人の人士に限りがあっても、その時々に果たした役割は新しい後継者に受け継がれ新たな発展が始まります。「核兵器廃絶」の国際的な流れは誰も止めることができないでしょう。安保法制化反対運動の新しい発展は、私たちに限りない希望を与えてくれています。私たちの過去の活動が、喜びと懐かしい思い出に変わるひとときに思いを巡らしながら、木村さんへの感謝の言葉とします。
(長崎県原水協・片山明吉)