【山梨】核兵器廃絶国際デー 甲府駅コンコースで6日間連続「原爆と人間」パネル展 県在住被爆者のメッセージを配布

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山梨県原水協も入っている国連核兵器廃絶国際デー山梨県実行委員会は、9月21日から26日まで甲府駅北口ペデストリアンデッキで「原爆と人間」パネル展を開催しました。

6日間の累計で来館者943人、「核兵器全面禁止のアピール」署名95人分、7693円のカンパが寄せられました。

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パネル展では、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が作成した広島と長崎の被爆の実相パネルをはじめ、ユーコープやまなしや新日本婦人の会のNPT(核不拡散条約)再検討会議・ニューヨーク行動のとりくみ、山梨県被爆者の会所蔵の「被爆者の描いた絵」などが展示されています。

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日本大学国際関係学部の女子学生が来場し、「『戦後70年、私たちは、いかに戦争と平和を語り継ぐか』のゼミと『長崎原爆の写真展』をやります」「この展示も参考にします」と写真を撮って行きました。

高校生は「戦争は本当に怖いことだと感じました。たくさんの小さい子の悲しい写真があって、同じ日本で起こっていたと思うと怖いです。二度と戦争はしてはいけないと思った」と感想を語りました。

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パネル展では山梨県原水爆被爆者の会(甲友会)の遠山陸子さんのメッセージを来場者に渡しています。

「原爆と人間パネル展」にあたって

山梨県原水爆被爆者の会(甲友会)遠山陸子

広島に原爆が投下された時、私は3歳でした。爆心地から4kmの自宅の中に居りました。その時は大きな怪我も数分の違いで免れました。でも当時中学1年生であった兄は、学徒動員で市内に出ていて爆心地から500mのところで被爆しました。自宅には友人や他の人たちのおかげで帰り着きましたが、翌朝亡くなりました。兄は「もっと家族と話し合いたい」「落ち着いて勉強できる時代が来て欲しい」とどんなに願ったことでしょう。被爆者の私たちは、またあの悲しみを味わいたくはありません。

原爆は後々まで、被爆者の身体をむしばみます。2歳〜3歳の子どもが母に背負われて市内を横切ったという友人が、世のため、家のため役に立ちたかったと大学で学んでいた20歳の時に突然白血病で倒れ亡くなりました。同じような人が今も次々にがんが発症し苦しんでいます。

70年前の世界大戦では、広島、長崎で21万人、沖縄で20万人、本土での空爆を含め日本中で310万人、世界中では7000万人もの人々が犠牲となり亡くなりました。私たちの国は、「戦争は大きな悲しみしか残らない」ことを学び、憲法によって戦争を放棄したはずでした。その憲法のおかげで、70年間、日本では戦争はありませんでした。でも、近年日本は、持たないはずの武器を世界の上位になるくらいも持ち、戦争のできる国になろうとしています。戦争のできる国にならないように、小さな事でも手をつなぎあって行動することが私たちの使命だと思っています。

最近、原発が再稼働されました。原発に使われるウランは、原住民の方達は「手にしてはいけないもの」だったそうです。「核と人間は共存できない」と訴え続けられて来ました。原発も核兵器に使えると聞きます。もう原発は要りません。日本はどこかで、道を間違えたのです。いのちを大切にした昔の心豊かな生活に戻りましょう。

今年8月、私は山梨県の代表で広島の平和祈念式典に参列させていただき、あらためて平和を求めていきたいと思いました。

次の世代の人達のために!  かわいい孫たちのためにも!

2015年9月 (富士吉田市在住)

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