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原水協通信

毎月発行している日本原水協の機関誌です。国内外の反核平和運動についての情報が満載です。 日本原水協のウェブサイト→ http://www.antiatom.org/

「核兵器の全面禁止を!」

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【平和行進】北海道→東京(内陸)コース通し行進者 五十嵐成臣日誌4(6/1-6/12)

6/1 長万部町役場訪問。昔は機関区があり、人口も多かったが、今では激減。メイン通りはシャッター街でした。 午後、八雲町へ。役場訪問。夕方町内を行進。ここの国立病院は廃院の方向とか。行進の参加者の半分近くは全医労の方たち。

6/2〜3 午前中は森町を町内行進。この町は「いかめし」で有名。駅前にのぼりが立つ。 七飯町へ。大沼より行進。雨模様で、町役場に着く頃には土砂降りに。役場での歓迎集会には中宮町長も参加。核兵器廃絶の署名は町民の過半数を集めたところ。「核兵器禁止は当然」「原発の廃棄物を地下処分するのもとんでもない。どこに埋めても被害を広げる」と語っていた。 大雨のため行進は断念。五稜郭近くから函館中心部へ(雨の中の行進だった)

6/4 青森へ。平和公園で引き継ぎ集会後、行進。100人ぐらいが参加。子どもの参加も多い。県庁近くまでの行進。雨模様のためか新町通りも人が少ない。

6/5 青森市を出発。この日は津軽半島の各町村を訪問(蓬田村、外ヶ浜町、平舘村、今別町、三厨村、中泊町)し、五所川原市で引き継ぎ集会。ここも3回目。立ねぶたの会館を外から見る(中に入ったことはない。残念)

6/6 五所川原市内を行進した後、つがる市、鶴田町、板柳町と町内を行進し、浪岡(青森市)へ。これまで中学生数人を平和学習のため送っていたが、一昨年の市長選で当選した市長は止めた。中学生たちは、復活するよう署名を集め、目標の777人分を上回り、1000人分を超えてさらに集めている。

6/7 藤崎町、田舎館村、黒石市などを行進し、弘前市へ引き継ぐ。医療生協の強いところで、引き継ぎ集会には160人も参加。市内行進。

弘前城追手門前行進

6/8 市内行進も150人以上。車の中から手を振る人、頭を下げる人など多い。 大鰐町へ。今日は小学校での授業が3時間のため、小学生が自転車で行進についてくる。 いかりがせきを通って秋田との引き継ぎ場所の矢立峠へ。 引き継ぎ後、大館市を歩く。市のメインの通りがシャッター街と参加者の声。

6/9 大館市を訪問。大館市内には三菱のロケット燃焼実験場があるので、北朝鮮のミサイル発射は現実の問題と話す。 市内行進で下川沿へ。ここは小林多喜二生誕の地(9年前は林の中を歩いた記憶があったが、今は公民館に多喜二の本を置いてあるとのこと)。小学校などが作られていた。

小林多喜二生誕の地の石碑

小林多喜二出生地の説明板

能代市内を行進

6/10 能代に引き継ぎ。市役所周辺を行進。終了まで雨。この週は雨が多い。

6/11 今日は行進は休み。市内のスーパー「ITOKU」前でおこなわれているスタンディングに参加。参加者32人。

6/12 能代市を訪問。議会中なので総務課長と会う。その後、八峰町、三種町を訪問。

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【平和行進】国際青年リレー日誌「友達になった人々: 平和行進を振り返って」(ケイラ・ウォーリー:最終回)

日本を発ってから数日が経ち、(時差ぼけから回復しながらですが)、日本での体験を振り返っています。

私が日本に行った理由はいろいろあります。核兵器の影響について学びたかったし、日本の文化に触れたかったし、明らかに意義のあることに対して支持を表したかったからです。

小さな町の出身である私は、大学入学のためにボストンへ引っ越すまでは、社会運動や抗議活動についてほとんど目にすることがありませんでした。そのため、思い切って自分の殻を破り、初めての、しかも外国での抗議活動に参加しようと考えたのでした。

実際日本に来てみて、本を読むのとは違う種類の知識を得ることができました。ビキニ環礁の史実を学んだだけでなく、ある被害者の家族の悲しいお話を聞いたりしました。また、日本にある米軍基地の数の多さに驚いただけではなく、そこに暮らす市民の生活にこれらの基地がどのような影響を及ぼし、そして市民がどう感じているかについても学びました。

この平和行進のおかげで、これまで見えていなかった、アメリカの外からの視点を通して物事を見ることができました。日本のニュース番組では、ドナルド・トランプ大統領やアメリカの出来事のニュースをよく見かけましたが、そのことにショックを受けました。それは、アメリカのニュース番組では日本の総理大臣のニュースを目にすることはほとんどないからです。アメリカ国内にいる私たちは、いかに自分たちが世界に影響を及ぼしているかを忘れているのではないかと思います。他の国々の人々は遠い存在であると感じ、また自分たちの日常生活が世界の問題からさほど影響を受けていなくても、私たちアメリカ人がいかに世界に大きな影響を及ぼしているかを忘れがちです。例えば戦争などが米国本土に影響することはほとんどないからです。ビキニ水爆事件のとき、日本の食料供給の大半が核実験の放射能で汚染されたこと(それに関して謝罪もなかったこと)を知ったときは、本当に理解できませんでした。そんなことはアメリカではあり得ないからです。

行進を続けながら学習するにつれて、特に世界で最も影響力のある国の市民として、これら全てに関する自分の知識がいかに不十分なものであったかを、何度も考えさせられました。歴史の授業では、アメリカが広島、長崎に原子爆弾を投下したこと、それが何年のことだったか、そして何人の人が死んだかを学びました。そしてテストでいい成績をとるためにそれを暗記しました。そこには感情や共感などといったものは存在しませんでした。行進の間、自分が日々実体験していることを、必要な教育の一環にするにはどうしたらいいだろうかと常に考えていました。単に事実を学習するだけではなく、人に対する考え方を変え、自分の得た知識をすぐ目の前にある実際の状況に当てはめるのです。日本はもはや私にとっては遠い外国ではなくなりました。

外国というと普通、人はその国の政府とか軍とかを頭に浮かべると思います。そのようなものの考え方が、容易になんらかの目的(あるいは利益)の名のもとに、町を壊滅させ、戦争へ向かわせようとするのです。しかし、政府がどのような立場をとっているかということだけで、遠くにある国を判断することはできません。国家というものは、隣人とか同僚とか家族とかといった人々から成り立っているのです。でもそれに気づかないまま、私は日本をそのようにとらえていました。しかし、実際すばらしく優しい日本の人々と出会い、一緒に食事をし、一緒に歩き、また家に泊めてもらったりもして、私には本当の友人ができました。このような人々を実際に自分の国の市民と同じ人間、あるいは友だちと考えるならば、こんなに多くの人々を殺すことなどできないと思います。

ボタンを一押しするだけで一つの市全体の人々を抹殺できる力と、さっき述べたような、自分とかけ離れた存在として他国民を捉える考え方は、とても危険な組み合わせであり、直接手を下すのは決して不可能なほどの恐ろしい非道な行為をもたらしかねません。このような物の見方と、非人道的な悪を実現する道具の両方を変える必要があります。これらの恐ろしい兵器はなくさなければなりません。さらに重要なことですが、私たちは、文化交流や直接会って触れ合うことで、お互いを理解する真剣な努力をしなければなりません。自らの安全地帯から抜け出して別の文化に身を置くことは恐ろしいと感じるかもしれません。ですが、現状のままだと、未来はもっと恐ろしいものになってしまうでしょう。

(翻訳=小林明子)

1945年、広島

【平和行進】北海道→東京(内陸)コース通し行進者 五十嵐成臣日誌3(5/18-6/1)

5/18

岩見沢市に移動し市役所訪問、市の中心部で「ヒバクシャ国際署名」を集めた後で市内を行進。小選挙区候補の女鹿さんも参加。「この選挙区はJR北海道の廃止路線の半分がある。大変なところです」と。

5/19

江別市は2015年に「平和都市宣言」をおこない、「平和の碑」を作った(宣言文には、核兵器の禁止の文が入っている)。市役所、教育委員会の訪問後、ここは水道部を訪問(10年以上前より訪問しているとか)。主に話題は、原発事故の問題。「放射能が降ってきたら、水道事業は打撃を受ける」。一事業所では対応できない。

午後、行進と市民センターで激励会。

5/20

朝、札幌へ。野幌100年記念公園より札幌市内へ幹線コースの他、市内各地より6コースが札幌駅へ向けて行進。幹線コースでは、小学2年の男の子や5歳の幼児が「原爆ハンタイです。友達と仲良く遊びたいです!」などとコールした。大通公園では、いっせいに咲いた花を見る観光客や市民が集まり、平和行進に手を振る人、拍手する人など、注目の行進となった。行進にはのべ650人以上が参加した。

5/21

行進はお休み。市内散策。

5/22

札幌市を訪問。市長、議長、教育長(いずれも代理)に署名、ペナント等をもらう。

北海道平和行進の前半のまとめを道原水協事務所でおこなう。

5/23

北広島市へ。広島県東広島市の人たちが、明治に移住し開拓した地であり、東広島市とは姉妹都市を結んでいる。毎年、被爆者の方に市内の学校に語り部をしに来てもらうなど、平和教育に力を入れている。副市長、議長、教育長と懇談。「被爆国の日本が核兵器禁止に反対とは、認められない」と話していた。竹葉公園より行進し恵庭市へ。

夕方、激励会。昔、動労闘争で八王子に行き、JMIUの方にお世話になったと話す人も。激励される。

5/24

朝、恵庭市を訪問。秘書課主査と議会事務局主査と会い、募金、ペナントを受け取る。雨模様のため行進が中止になり千歳市へ。ここも秘書係長、議会事務局次長と会う。募金のみ。今、千歳市は市議選最中。地元の人の話によると、議会閉会直前に議席数を減らされ、自衛隊出身者(自民党)、公明党の現議席数以外の4議席を8人で争う激戦とのこと。

5/25

千歳市内の行進。保守無所属の市議候補者も行進団に手を振ってきた。選挙中のためか行進参加者も少な目。

午後、苫小牧市入り。勤医協苫小牧病院で院内集会の後、60人の参加で市内行進。終了後、苫小牧駅前で「ヒバクシャ国際署名」行動。下校してくる高校生も署名。

5/26

苫小牧市を訪問。市長、議長は出張中。代理の方に会い、募金、ペナント、「ヒバクシャ国際署名」を受け取る。市は毎年、小・中学生2人を広島に送って報告会や作文を書いてもらっている。

午後、白老町へ。行進参加者は10人。すれ違う車の中から手を振る人も。

登別市へ。ここも市長、議長は出張中。教育長も外出中のため、代理の人が対応。

5/27

雨の中、登別市を平和行進。かなりの雨で自動車の水しぶきがかかり大変だった。

登別市雨の行進

江別市も同じだが、市街の中心を通っていた道道のバイパスを作ったところ、バイパスに大型店舗ができ、旧市街の小さい店舗はシャッター通りに。車を持たないお年寄りは生活できなくなっている。若い人は大都市へ出て行き、街はどこでもお年寄りばかりに。

5/28

室蘭市で平和行進。20人が参加。

5/29

室蘭市役所を訪問して伊達市へ。

夕方、伊達市内を平和行進。参加者20人。伊達市は噴火湾に面して周りは山に囲まれ冷たい風が入りにくく暖かいところ。稲作や野菜、いちごが作られ農業が盛ん。

伊達市の行進参加者と

5/30

伊達市役所を訪問。市長、議長、教育長は急用のため、代理の方が対応。募金、「ヒバクシャ国際署名」、ペナントを受け取る。午前10時より洞爺湖町に向けて行進。

伊達市。思いのこもった手作り弁当

洞爺湖町役場で伊達町との引き継ぎ。町長などと面談。「強い者が弱い者を支配するのは許されない」「核兵器はなくさねば」と真屋町長。

この後、一昨年まで行進団の引き継ぎがおこなわれていた北海道虻田高校を表敬訪問。校長先生との面談の後、この高校が約25年前移転した時に作られた「平和の鳩」のモニュメントを見学。当時の高教組の先生たちの平和と反核の想いを伝えている。 fz-5.com/blond/

虻田高校の平和と反核のモニュメント。鳩のデザインは原水協が使ったものと高教組の先生は言っていたが?

 

5/31

壮瞥(そうべつ)町を訪問。ここは幹線コースに入っていないため、今まで一度も行進団が訪問しなかった町。今回初めて訪問し、国民平和大行進について説明。来年から訪問を快諾してくれた。佐藤町長も「アメリカが核兵器で脅すから、北朝鮮も持とうとする。核兵器はなくすべき」と。

平和行進が初めて訪問した壮瞥町の佐藤秀敏町長との握手

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【岡山】ヒバクシャ署名の成功を 県原水協総会ひらく

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【平和行進】国際青年リレー日誌「富士山の裾野を歩く」(ケイラ・ウォーリー 14日~18日目)

この2、3日たくさんのことを、美しい富士山が見える土地で吸収してきました。(この写真は私のホテルの部屋から撮ったものです。素晴らしいというしかありません。)

富士山の東側にある、(オスプレイの飛行演習から、長距離迫撃砲の発射まで)さまざまな訓練をおこなっている米軍と自衛隊の演習場に行ってきました。どちらかというと公園に見えるその場所を見て、そこが演習場だということにとても驚きました。この演習場があるために、富士山は世界自然遺産には選ばれなかったと聞きました。

次の日は(戦車の)演習場として使われている海岸を訪れました。およそ100年前に、農作物を守る防風林として農家の人たちが植えた松林を歩きました。そして林を抜けると浜辺が目に入るかと思いきや、目の前に広がっていたのは軍隊が建てた(松林が演習場に広がるのを防ぐ)この壁でした。このように美しい場所が、人殺しの訓練のために使われるのは残念なことです。

そのすぐ横に、市が建てたこの看板がありました。

海岸は一般開放されています。壁の両側に階段があり、そこから壁に登り、壁の上の小道を通って浜辺に出て行きました。海岸ですれ違う人も何人かいたので、人々はこの場所によく来るようでした。演説した方によると、米軍と自衛隊のどちらも、市役所に演習の日程を連絡したりしないそうで、当日の朝にバリケードを立てて1日中この場所を閉め切って使うそうです。海岸の一部、戦車が通ったあとは不自然に平坦になっていました。地元から行進に参加された人たちは、この状況を喜ばしく思っていないように感じました。

行進の途中、たくさんの古い伝統的な日本式家屋がある地域を通りました。本当に日本を見ているのだと感じ、嬉しく思いました。通訳の方によると、市内でもこの地域だけに伝統的な家屋が残っているのは、ここが第二次大戦の(核ではない)爆撃を受けなかった数少ない地域の一つだからだそうです。私たちはあまりにもたくさんの日本の文化遺産を破壊したのですね。

昨日の行進は、被爆者の慰霊碑がある、遠くにまるで空に浮かんでいるような富士山を見晴らす美しい寺院に向かいました(残念ながら電線越しの景色でしたが)。

右側には平和運動の象徴である色とりどりの千羽鶴が見られます。

最後に、第二次大戦に関する、被爆者たちの悲惨な姿や画像も含まれた短編映画を見ました。後日英語版ももらえるようなので、ぜひ友達や家族に見せたいと思います。誰もが、特にアメリカ国民こそ、核戦争の影響をその目で見るべきです。

この数日間はとりわけ美しい風景を見ることができました(そして大変素晴らしい人々にもお会いしました)が、私の母国がこの土地をあまりにも簡単に地図の上から消滅させることができるかもしれないと考えると、大変悲しく思います。日本にはいかなるアメリカの歴史よりも、はるか昔につながる豊かで奥深い文化があります。私にはとても把握しきれないほどの歴史です。

今、この時代、誰も戦争の残虐行為の犠牲になるべきではなく、そしていかなる国も、そのような思慮を欠いた暴力行為によって、自分たちが受け継いできた遺産を失うべきではありません。もし私たちの国の軍の指導者たちが、自分たちが爆弾を落とした土地の美しさを目にし、自分たちが殺した人々に会っていたならば、そのような破壊行為はできなかったと思います。

(翻訳:岡本真樹子)

【平和行進】国際青年リレー日誌「神奈川から静岡へ引継ぎ」(ケイラ・ウォーリー 15日目)

神奈川県湯河原町から静岡県熱海市へ

ここ2、3日は、平和行進の他の方々と一緒に、伝統的な日本の宿に(そしてどなたかのお宅にも)滞在していました。そのため、他の平和行進者と親睦を深めることができました。

知り合って二週間しか経っていないのに、一緒に過ごした人々に別れを告げることがこんなにも悲しい気持ちになるということに驚きました。どの場所でも、長い時間一緒にいれば、誰とでも友達になることができるのだと知りました。文化の違いをどう考えるかを除けば、同じ人間として私たちの中には類似点があるということです。

これまでかなりのカルチャーショックがありましたが、それでもこの短い期間にも、私は神奈川の人々とつながることができました。実際、日本の文化を学ぶことを通して、たいていの場合私は人々と親しくなることができました。初めてここ日本に来たときは、家から遠く離れ、また、(洗濯や知っているエチケットのような普段当然のこととしているこまごまとしたことを含む)いろんなことに慣れておらず、必ずしも心地良さを感じてはいませんでした。

しかしながら、日が経つにつれ私は、お辞儀の仕方、日本の政治、温泉のエチケットの複雑さまであらゆることを質問していました。そして、気が付かないうちに(日本のおもてなしと思いやりのおかげでもありますが)友達ができていたし、実際に心地良ささえ感じてきました。自分と違う価値観の人々を理解しようとする際に必要なのが、心をオープンに持ち続けるということだと思います。確かに、少しの努力、寛容さ、そして相互尊重の気持ちを持ってお互いを理解することができれば、暴力は意見相違の解決策にはならないのです(その相互尊重の質というのは、すべての人が日本の文化から学ぶべき重要なものだと思います)。

神奈川でできた新しい友達と別れることは寂しいですが、静岡でもきっとまた多くの人々に出会えることでしょう。

(翻訳:小林明子)

【岡山】動き始めた核兵器禁止の世界-核兵器禁止条約実現へ、私たちの運動のめざすもの- 5/27県原水協定期総会

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【岡山】平和行進・世界大会グッズが揃いました 今年の目玉はNO NUKES Tシャツ

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【平和行進】北海道→東京(内陸)コース通し行進者 五十嵐成臣日誌2(5/12-5/17)

5/12

士幌町を訪問。町長出張中のため、総務課長と面会。「平和のために長いこと活動されていることに頭が下がります」と。この街は、明治時代に屯田兵が入植した極寒で最北の地で、他の屯田兵の部隊は、より条件のいい地に移って行ったが、この部隊は日露戦争に出兵したため移る機会を失ったとのこと。「冬は天井のすき間から雪が舞い込み、布団の上に雪が積もった」とか。

夕方に旭川に入り、引き継ぎの共産党事務所へ。

5/13

花咲スポーツ公園(陸上自衛隊旭川駐屯地の前)より平和行進が出発。バス停で待っている人や車の中から手を振る人も。国際青年リレー行進タスキは医労連の青年とそのお子さんが掛けてくれる。参加団体18、参加者約100人。

終了後、旭川駅前の買い物通りで署名行動。約40分間で28人分の「ヒバクシャ国際署名」が寄せられた。一本駅寄りの通りでは、新婦人などの「共同行動委」の人たちが「共謀罪」法案反対の署名を集めていた。

5/14

朝、深川市に行き、市役所前から行進。参加者約20人。「商店の人も店の前に出てきて手を振る人が増えた」そうだが、核兵器禁止条約ができることが関係しているのかな。

深川の周辺は、米の産地。田んぼには水が張られ、早いところは苗を植えられたところも少しあった。水が張られると、1〜2度気温が下がるとか。菜の花も産地。ここは油を取るための花。手入れが大変とか。あと1〜2で満開。

午後は共産党女性講演会のつどいに参加。講師は大阪の清水ただし衆議院議員。なにわ弁の大変面白い話に大笑い。

深川市内の平和行進で手を振る五十嵐さん(左から2人目=5月14日)

5/15

深川市役所を訪問、副市長が対応。「核兵器をなくすためのたゆみない運動が必要」とペナントに署名。市議会議長代理もペナントに署名。深川市内の7割の寺院が核兵器廃絶に理解し募金に応じているのは、「先輩たちの努力によるもの。これは守り続けなくては」と。

午後、妹背牛町へ。「モセウシ」とはアイヌ語のイラクサの茂ったところの意。「町長出張のため副町長が対応。この町は米の生産が中心。田んぼも大きい農家では5〜6町歩。作付けは大型の機械で大変なようだ!!菜の花の生産もしており、菜種油の生産も盛ん、菜の花は咲き始めていた。

5/16

午前中、滝川市役所で「ヒバクシャ国際署名」をおこなう。人通りの少ない場所で8人分あまり。募金は通りがかりと思われる人が1000円を。100円だけ募金の人も。

午後は市役所を訪問。市長、議長、教育長の3人とも不在。「ヒバクシャ国際署名」のみ後日送ることを約束。

夕方、砂川市内を行進(自動車パレード)。前住職で九条の会会長の西川壮一さん(88)の寺、西願寺までパレードの後、交流会。

5/17

午前中、砂川市役所を訪問後、砂川商工会議所を訪問し、専務理事に面会。ペナントと「ヒバクシャ国際署名」をお願いし、快諾を得た。

午後、奈井江町で町長と面会。「核兵器廃絶の運動は継続が大切。そしてぶれずに続けてきたこと」と激励を受ける。8年前に奈井江商業高校に訪問した時、来年閉校すると聞いていたが、「新しい制服になります」とのポスターが貼ってあった。運動で閉校はなくなったとのこと。町内を行進後、美唄市へ。

美唄市内を行進した後、交流会に参加。新日本婦人の会の活動が話され、市内のほとんどの保育園を回り、「ヒバクシャ国際署名」を頼み(消防署にも)これから回収にまわらなくてはと・・・。

【岡山】美作原水協455回目の6・9行動 原水爆禁止2017年世界大会-広島にマイクロバスで参加を

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【平和行進】国際青年リレー日誌「小さな町から海軍基地の町へ」(ケイラ・ウォーリー 9日目)

小さな町から海軍基地の町へ(ケイラ・ウォーリー 9日目)

神奈川県三浦市―横須賀市、5月14日、5.6マイル

昨夜は、小さな三浦市にある日本の伝統的な宿泊施設の民宿に泊まりました。上の写真は、三浦市が平和都市宣言をした日本初の町であることを伝える平和記念碑です。行進の最中、何年も前にビキニ水爆実験で放射能を浴びたマグロを埋めたとされる地域(現在は住宅地)を通りました。

それから横須賀市に向かいました。東アジアで最大の米軍基地がある街です。街にいるアメリカ人の数(この1-2週間のなかで最も多くのアメリカ人を目にしました)で基地の存在が理解できました。米兵や彼らの家族の目を見つめ、微笑みながら「ノー・モア・ウォー!」と言う時、運動に賛成しない人々の中で抗議の声を上げることの難しさを感じました。

この数日間いくつもの軍事基地を見てきたので、当然のことながら私は、日本にある基地の役割、影響、評判などについて質問してきました。米兵による犯罪の増加が原因で、一般的には基地は否定的に見られているようです。なのになぜまだ基地があるのか?との疑問が自然に浮かびました。

アメリカによる日本の占領は1950年代に終わりましたが、日本政府は冷戦時代に危険な隣国からの防衛を求めて米軍基地を維持することを決めました(日本の憲法は自国の軍隊を著しく制限しているため)。

しかし冷戦が終結した今、日本にある米軍基地の存続について議論が起きています。北朝鮮は未だ脅威であり、特別な防衛が必要だと言う人がいます。しかし今日私が話した人々の説明は説得力がありました。北朝鮮が発射する核弾頭はほんの数分で日本に到達するため、日本にいる米軍にすら行動する猶予を与えないだろう、というのです。一方、いわゆる「核の傘」のもとアメリカが日本を援護するという形の威嚇は、核攻撃を「抑止する」のに充分だと言う人もいます。しかしこれも、今日どなたかが言われたように、日本の隣国による核備蓄の増加や近代化を阻むことにはなりません。なので長期的にはほとんど効果のないやり方です。何よりも、日本政府は現在、憲法を改正して軍隊を強化しようとしています。しかしこれによって近隣諸国との緊張が高まるのは必至で、彼らの核兵器開発の緊急性を高めることにもなるでしょう。

これは明らかに複雑な問題です。最良の解決法も分からないのに、自分がアメリカに帰ってから一体何ができるのかと、この数日間考え続けています。今日ある人が、まもなく国連で開催される平和会議(核兵器禁止条約交渉会議)の素晴らしさについて話してくれたのが、私の疑問に対する答えにもなりました。この会議は具体的なステップではないかもしれないけれど、核兵器は非人道的で悪の兵器であるという考え方を確立し、これを規範とするためのものだと言うのです。すべてについて具体的な答えを持たなくても、この問題に対する世界の考え方を変えることができれば、核兵器のない世界を実現する最良の方法についてのより多くの考察が可能になるでしょう。

(翻訳:中村みずき)

【岡山】「核兵器は絶対にいりません!」と署名 5月度6・9行動を行いました。 「笠岡市 すすめる会」が宣伝・署名行動

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【平和行進】国際青年リレー日誌「雨の一日、軍事基地について学ぶ」(ケイラ・ウォーリー 5日目)

雨の一日、軍事基地について学ぶ(ケイラ・ウォーリー 5日目)

神奈川県相模原市―座間市 5.7マイル 5月10日

今日は雨が降っていたので、ありがたいことにそんなに長い距離を行進しませんでした。一日の前半は、(日本の多くの都市と同様に)米軍基地のある相模原市を通りました。私はアメリカがいまだに日本を占領していたとは知りませんでしたが、明らかに第二次世界大戦以来ずっと占領し続けています。

昨年、相模原の米軍補給廠で、原因が明らかにされていない爆発があり、近隣の建物にまで被害を及ぼしました。アメリカは何が起こったかについて何の声明も出さず、損害に対する弁償もしませんでした。アメリカと日本の関係を学べば学ぶほど、私は恥ずかしさと失望感を感じざるをえません。

それから行進は、これまでで最も小さい都市である座間市へと入りました。しかし、小規模都市であるゆえ、私がこれまであまり見たことがなかった美しい日本の伝統的な家屋に出会うことができました。もっと大きな都市で見る建造物は日本式というよりはアメリカ式のように見えます。なので私はこれらの家を見て興奮を覚えました。

この興奮は、別の米軍基地にさしかかってかき消されてしまいました。この基地の前に立ち、そしてみんなと一緒に、自分と同じアメリカ人に対し、「ノーモア広島、ノーモア長崎」と繰り返し叫んだとき、私は、こちらを無表情に見つめる兵士たちよりも、行進の参加者や平和運動のほうにより一層の連帯感を感じている自分に気づきました。少なくとも平和という共通の目標に向かってみんなが一致団結することができれば――そしてそれをきっと誰もが心の中では望んでいると思うのですが――私たちはより良い方法で問題を解決することができるのにと思います。

ある市会議員の人が、座間市の政治家の間で核兵器について意見の相違があることについて教えてくれました。アメリカや他の核大国と同じように、北朝鮮を恐れている人々がいるからです。私たちは、恐怖という原始的な衝動から距離をおく必要があると思います。なぜなら恐怖というものは非理性的な決定をあおるだけだからです。世界全体の協調を達成するためには、私たち全員が立ち上がって、お互いの国を尊重し暴力に頼らない関係を作る必要があります。私たちが恐怖に支配され続けるかぎり、常に恐れる理由を持ち続けることになってしまいます。

(翻訳:小林明子)

【平和行進】北海道→東京(内陸)コース通し行進者 五十嵐成臣日誌1(5/4-5/11)

5/4

羽田発ANA便で北海道へ。午後、北海道原水協で道内通し行進者5人と道実行委員長、事務局長と打ち合わせ会議。署名、ペナントの扱い、自治体訪問など打ち合わせ後、通し行進者の集合写真。

5/5

朝7時30分発特急「宗谷」で稚内へ。稚内港からフェリーで礼文島へ。午後5時近くに着く。海は少し荒れ、「明日は欠航になるかも」とフェリー会社の人が話していた。

5/6

午前中、島内の観光バスで、スコトン岬、スカイ岬、桃岩、猫岩などを見学。島特有の花礼文ウスコキソウ、レブンアツモリ草はまだ先の6〜7月頃。

午後は東北6県の原水協が植樹した桜の木を訪問。写真を撮る。

島の人の話だと、昨年ウニも昆布も不漁とのことで、礼文島のものは少ない。ウニはホテル、民宿へは割り当てであってなかなか出せないとのこと、食事まで4〜5年前につくられた天然温泉「うすゆきの湯」に入る。

5/7

朝8時に村役場前より平和行進が出発。フェリーの港まで行進。地元の教組の組合員、宗谷からの参加者9人と行進。フェリーで稚内へ向かう。

稚内市民センターで集会。6月の国連の会議に合わせてニューヨークに向かう北海道の代表も参加しあいさつ。たくさんの署名を持っていきたいので協力をと訴えた。

前日と同じで風が強く、行進は大変だった。参加者は40人。

5/8

稚内市、豊富町、中川町、音威子府村の4自治体を訪問。どこの自治体でも核兵器禁止条約国連会議で被爆国の日本が反対することを問題にし、「頑張って歩いてください」と激励された。

5/9

美深町訪問前に音威子府村にある旧美幸線のトロッコに乗車。連休中は1600人がトロッコを楽しんだとのこと。湿地帯には水芭蕉が花ざかり。

午後、美深町長と懇談。核兵器禁止条約に日本が反対したことに「唯一の被爆国なのになぜ反対なのか」と。

5/10

名寄市へ。新日本婦人の会名寄支部の方々と懇談。私の平和行進への思いなどを発言、「子や孫へ核兵器のない世界を手渡したい」と行進への思いについて話した。参加者も核兵器禁止条約をつくるためにも「ヒバクシャ国際署名」を一人でも多く集めなくちゃと。行進は25人が参加。

5/11

午前中、名寄市を訪問。副市長、教育長、議長と懇談。各氏とも核兵器禁止条約が作られることに、長年にわたり運動を続けてきたことが今日に結びついている。今後も地道な活動を続けてください」と激励される。

午後は下川町を訪問。名寄市と同様に激励される。士別市内の行進は参加者15人。

[…]

【平和行進】国際青年リレー日誌「東京から神奈川へ」(ケイラ・ウォーリー 2日目)

第2日:東京から神奈川へ

東京都港区芝公園 ⇒ 神奈川県川崎市稲毛公園 11.89マイル

今日はとても長い一日でしたが、とても面白かったです。東京から神奈川県川崎市まで行進しました。行進した人々の大部分は自分の県内だけを行進するので、すべての旗や横断幕を引き渡すセレモニーがありました。私が出会って話を聞いた人はみな、本当に、反核平和運動のためにすばらしい活動をしていました。川崎は、私が東京で見たものとかなり違っていました。私は今日のセレモニーでお会いした新しい人たちと実際に一緒に行進できるのを楽しみにしています。

しかし、私が一番楽しかったのは、行進の後の青年集会でした。私は同じ年代の人々と本当に素晴らしい討論をし、日本の青年の反核平和運動への態度について多くのことを学びました。

反核平和運動の現状とその背景について、平和委員会の人の講演もありました。15を超える国々が核兵器を持っており、ほとんどは数発から300発ぐらいですが、ロシアと米国は約7000発も保有しています(しかも第2次世界大戦当時よりもよりもはるかに強力なものを)。彼らが本当に世界全体を爆破しようと計画しているわけでないのなら、一体なぜこんなに核兵器をたくさん持つ必要があるのか理解できません。核大国(米国、ロシア、英国、フランス)が現在の国連での核兵器禁止条約イニシアチブに反対しているのは、北朝鮮を恐れているからですが、北朝鮮はこれまでにわずか8発しか保有していません。それに対抗するためには7000発も必要ないのではと思います。さらに、もし朝鮮が今日の破壊力を持つ核兵器で攻撃されれば、日本だけでなくアジアの広範囲にも影響が及ぶでしょう。

もっと続けて書きたいのですが、ブログへの短い投稿に収めるにはあまりにも多くのことがあり過ぎました。広島への原爆投下について被爆者の証言も聞き、とても正当化できないことだと思いました。今日聞いたすべてのことを、私たちは本当にもっと広く共有しなければならないと思いました。核兵器の生存者(「被爆者」と呼ばれる)は80代になっており、残された時間は多くありません。人々が、核兵器がいかに残酷なものかを実際に理解できるように、被爆者の証言を記録し、広く知らせるべきです。今日お会いした被爆者は、まだ小学生だった当時、焼けただれた人の皮膚が体から溶け落ちるのを見たと話していました。そのような話は歴史の教科書から得ることはできません。