今日は富士宮市から隣の富士市へのコースでした。朝、浅間神社を訪れる機会がありました。穏やかな雰囲気に満ちていて、あんなに清らかな庭は今まで見たことがありません。神社を訪れたあと、平和行進の出発場所である平和の像へ向かいました。富士宮市の核兵器廃絶平和都市宣言は以下のとおりです。
「平和の象徴である富士山を持つ富士宮市は、核軍拡競争の悪循環が核戦争の危険を増大させていることを憂い、人類の生存と恒久平和のために、すべての核保有国に対し、核兵器の廃絶と軍縮を求め、わが国の非核三原則が完全に実施されることを願い、国際社会の連帯と民主主義の原点に立って、核兵器廃絶の世論を喚起するため、ここに『核兵器廃絶平和都市』となることを宣言する」
私たちが行進していると、富士宮市の人たちは非常に友好的に私たちを受け入れてくれました。行進の隊列と並行して、あちこちに分散して募金を呼びかける行進者たちがいます。「ボキン」という行動です。私がこの旅を始めてから、私たちはたくさんの惜しみない募金を受け取りました。 私は行進しながら、募金をしてくれた人がいるとジャンベをできる限り大きく打ち鳴らし感謝の気持ちを表しました。富士宮を回った後、短い集会をするため市役所に向かいました。今まで訪れた市と同様に、市議会の代表が平和行進への賛同と広島までの旅の幸運を願うメッセージを述べました。私もそこでスピーチし、グアムでのアメリカによる軍事化や、射撃場を使用するためにチャモロ族の人々からパガン島を奪う軍事計画について簡単に説明しました。昼食の後、富士市へ向かいました。
公園に到着して、平和行進の歌を演奏する2人のミュージシャンに出迎えられました。彼らは本当に一生懸命で、たくさんの人を参加させていました。彼らにジャンベで一緒に演奏しようと誘われました。私はこういう時はいつも光栄に思いながら参加します。音楽という言語がどんなに飛びぬけて素晴らしいものか、そしてそれが長い道のりで出会う人々とのつながりを作るのをどれだけ助けてくれたか、私はいまだに驚かずにはいられません。富士市役所で簡単に私たちの紹介があった後、市内を歩きました。予想通り、たくさんの寛大な募金があり、手を振る私たちにたくさんの人たちが応えてくれました。このコースは約2時間で、近くの公園で今日の終わりの集会をしました。集会の後、宿泊するホテルのある清水市に向かい、通訳のおかだ先生に会いました。おかだ先生は70歳で歴史に精通している方です。
夕食でおかだ先生のことがよくわかったのですが、彼が語った第2次世界大戦のとき静岡であった空襲の話に驚きました。おかだ先生は当時1歳で、兄は3歳でした。空襲のとき、お母さんが背中におかだ先生をおぶって、幼い兄の手を引いて逃げました。その時お母さんは敵機に見つからないよう必死になって暗い場所を探しました。そのうちお母さんは心に大きなショックを受け、靴が脱げて足から血が流れているのにも気が付かなかったそうです。彼はさらに、道路に横たわるおびただしい数の遺体にも驚かないぐらい、お母さんの感覚が麻痺してしまった様子も語りました。その様子がありありと目の前に見えるようで、聞きながら涙がこぼれそうになったほどでした。お母さんは戦後、めったにこの話をしなかったし、何があったのか語りたがらなかった、とおかだ先生は言いました。
日々行進をしながら、私はたくさんのことを学び、同じ悲劇を繰り返さないために緊急に行動せねばならないことに気付いています。平和行進の多くの参加者は人生の後半にさしかかっていますが、彼らがこんなに長距離を歩けることだけでなく、彼らが熱い情熱を抱いていることにいつもとても驚かされます。彼ら全員ではないでしょうが、多くが戦争の影響を受け、平和を守る必要性を自らの体験を通じて理解しています。私が見たところや、彼らが歌う歌から察するところ、彼らは若者と若者の未来の安全を深く心配しています。ある参加者の女性は毎年行進の参加者数が減っていることを悲しんでいました。日本では若者が平和行進に参加するのはまれなことなのです。22歳のだいすけさんと私が、静岡の行進者では最年少です。いつの日かこの状況が変わり、若者がもっとこの素晴らしい運動に参加するようになればと思います。私は、グアムでも日本でも、戦争を経験し生き抜いた世代の方たちに感謝しなければなりません。みなさんは全員が本当にたいへんな経験をくぐり抜けてこられました。みなさんの粘り強さと力強さには本当に驚かされます。みなさんが信念をもって平和のためのたたかいに献身されていることに感謝します。
(翻訳:国吉 綾乃)