愛知県平和委員会青年・学生部は5月12日、被爆者の証言を映像記録としてDVDに残す取り組み「被爆体験聞き撮りプロジェクト」(愛称「ききプロ」)の13回目を名古屋市守山区で行い、堀三郎さんと金本弘さんから体験を聞きました。
「愛知県平和委員会 青年・学生部ニュース」第16号から紹介します。
被爆体験と原発事故重ねて
堀さんは広島で17歳の時に爆心地から4km離れた三菱の工場内で被爆。ピカっと光って数秒後、ドーンと工場が壊れるかと思うくらいの衝撃があったそうです。
2時間後、建物疎開のために市内に入っていた仲間を捜すことと、けが人を三菱の工場などに運び、うちわであおいだり、ウジを取ったり、赤チン(なくなると塩水で代用した)を傷口に塗ったりして看護したそうです。
市内から無傷で戻ってきた仲間も4、5日で亡くなり、自分もいつかはそうなるのではと恐怖を感じたことや、15年経って白血球の減少が起こり、結核、心筋梗塞、肝臓に良性腫瘍が見つかるなど病気のことも聞かせていただきました。
福島の原発事故で被曝者を出してしまったショックやこれから放射能被害が出るのではと危惧されていると力を込めて訴えられ、原発と原爆のつながりと自分たちのすべきことを再確認しました。
被爆者の実感なかった
金本さんは、広島に生まれ、9ヶ月の時に叔母と一緒に爆心地から2kmの己斐駅で被爆しました。ガラスの破片などが口の中に入り、近くにいた兵隊に用水路で口をすすいでもらい九死に一生を得たそうです。
24歳になり、広島から愛知に教員として就職し、平和教育として被爆体験を話してほしいと頼まれるまで、自分が被爆者だとの実感はなかったそうです。
実家では、原爆のことや8月6日のことは黙殺されていて、話題が出なかったため、金本さんも自分がどこで被爆したかは、24歳の時に叔母に話を聞くまでは知らなかったそうです。現在、94歳でご健在であるお母さんは、原爆のことは一切話されないとのことでした。当時15歳だった叔母の腕に火傷があり、夏でも長袖を着ていたことや、金本さん自身もずっと病弱だったこと、血液検査で白血球や赤血球の値が異常に低く、医者に「60歳まで無事に仕事ができたのはラッキー」と言われたこと、それらが原爆のせいだと思い当たったそうです。
継承の姿勢を考えた
原爆が家族、親戚の間に悲しく、苦しく、やるせない思いをもたらし、沈黙を選択せざるを得なかったという金本さんのお話から、被爆体験の継承への難しさや課題、聞き撮る側の姿勢も問われてくると改めて思いました。
また、堀さんの救護活動で同世代の少年少女の悲惨な状態を目の当たりにして、こんなことは二度と起こしてはだめだと思ったことが平和活動の原点だったというお話に、核兵器廃絶の強い思いを感じ、その思いも含めて受け継がなければと感じたききプロでした。