【東京】死体に間違えられた

毎月1回のペースで東京に住んでいる被爆者の方々から被爆証言を聞く「ヒロシマ・ナガサキを受け継ぐ会(仮称)」は5月29日、日本原水協の事務所で渡部昭彦中野区原爆被害者の会(長広会)会長の話を聞きました。

渡部さんは「あまりみんなの前で話したことがない」と言いながら、広島市内の地図や『絵で読む広島の原爆』(文=那須正幹、西村繁男=絵)などの資料を使いながら話し始めました。以下はメモです。

15歳の時に爆心地から約2kmの地点で被爆。当時中学3年生でしたが、学徒動員のため金剛砥石製造工場で作業中でした。

金剛砥石の原料は砂のため、粉じんと泥がすごく、作業スタイルは「無帽」「上半身裸」「長ズボン(ほとんどの人は半ズボン)」「素足」でした。

原爆が落とされた瞬間、朝礼を終えて作業を開始したばかりでした。社員の作業指示に基づき前日までに型枠に流し込まれた生乾きの半製品を乾燥炉の窯に搬入する作業を手渡しで行っている時に、「ピカッ!」と稲光が走りました。

次の瞬間、地面の下から突き上げてくるような衝撃とともに工場家屋が「グシャッ!」と倒れこみました。何が起こったのか理解できず、工場の近くに爆弾が落ちたのかと思いました。

同じ場所で働いていた友人や社員はいなくなっており、独り取り残されてはとの不安感も手伝って屋根伝いに工場に向けて大声をかけながら探して歩いていると工場内から返事があり、友人Aが友人Bを救助している現場に行きあいました。

友人Bを救助した後、友人Aと近くの大田川で体を洗うことにして入水すると、女子挺身隊約200人が体を洗っていたので、川渕から約20メートルは血の池となっており、周囲には何人もの死体が浮いていました。

学校指定の避難所・大芝自動車教習所の練習コースに行ったところ、火傷、ケガ、自力で歩いて帰れない人ばかりいます。爆弾が落ちたのなら地面に大きな穴が開くはずなのに、これはいったい何だ!?と驚きました。原子爆弾という名前も知らないので、想像もつきません。見たことのない焼夷弾なのかとも思いました。

ほどなくして、消防団、青年団の人たちと一緒に勤労動員先の工場長の家族と病人、老人の避難先への転送に参加。片道4kmの道のりを大八車で2往復しました。

その途中、何度か泥砂のような雨に降られました。いわゆる「黒い雨」ですが、真っ黒ではなく、10円玉大の雨が時折にわか雨のように降り当たると痛かったです。

翌8月7日早朝、市街地から消防隊が何台かのトラックで乗り付けて死体となっている人たちの遺体の引き取り(処理)にやってきた声で目が覚めましたが、そのまま寝ていたので遺体に間違われて持ちあげられました。そして、人手が足りないので手伝ってほしいと言われ、否応なく遺体をトラックの荷台に積み上げる手伝いに参加させられました。

昼頃、避難所を後にして帰路についている最中に、三篠(みささ)川のほとりには死体が散乱、浮遊しており、干満のたびに死体が川を上ったり下ったりしていました。

白島(はくしま)町へ入るとまだ焼け跡が燻っていて熱かったです。

常盤橋を渡り、神田川沿いに広島駅方面に向かう最中、砂洲約200メートルにわたり3~4列で櫛の歯状に死体が並んでおり、そのほとんどが川の水のあった方へ頭を突っ込んでいるといった悲しい光景でした。

広島駅構内には運ばれてきた多くの死体が点在しており、火傷を負った方々が休んでいるのか、汽車を待っているのか座り込んでいました。駅前の市電2両は完全に焼失しており、各々多くの乗客が折り重なって黒焦げになったまま置かれているという、何ともむごい光景でした。

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