WWW search Gensuikyo search

 
 

 

ベローナ報告
トマス・ニールセン、イゴール・クドリック、アレキサンドル・ニキーチン共著
第8章 ロシア北方艦隊核潜水艦事故
(部分のみ)

<目次>
核潜水艦事故
8.1沈没した核潜水艦
8.2原子炉事故
8.3死亡者をだした火災(略)
8.4事故の原因(略)
章末の注(略)
 

原子力潜水艦事故

 1961年から現在までのあいだ、ソ連ないしロシアの原子力潜水艦が関連する事故やその他の事件が多数発生した。この間、潜水艦事故で少なくとも507名が死亡している。もっとも重大な事故は、火災によって引き起こされ潜水艦の沈没という結果にいたったもの、炉心の過熱から原子炉の重度の損傷にいたったことによるもの(冷却剤喪失事故)、放射能漏れをまねいたより小規模の多数の事故によるものなどである。事故の影響をうけた艦船のほとんどが、ロシア北方艦隊に所属している。この章では、死亡または放射能漏れ、あるいはその両方をまねいた事故のみをとり扱う。
そのほかにも、北方艦隊潜水艦が関わった事件は多数存在する。このなかには、他の潜水艦との衝突、海軍基地・造船所での火事、潜水艦がはえ縄を切断した事故、潜水艦発射ミサイルの発射実験中の事故、流氷との衝突などがある。
 

8.1原子力潜水艦の沈没

 事故または広範囲の損傷のいずれかにより、現在6隻の原子力潜水艦が海底に横たわっている。2隻は、アメリカのもの(USSスレッシャーとUSSスコーピオン)で、4隻はソ連のもの(K-8、K−219、K−278コムソモーレッツとK-27)である。アメリカの潜水艦2隻とソ連の潜水艦3隻は事故によって沈没した。残るソ連の1隻は、修理は不可能で廃船には多大な費用がかかる、との責任当局の判断により、船底に穴をあけられ、カラ海に沈められた。ソ連の潜水艦4隻はいずれも北方艦隊に所属していた。
事故がおこった時間と場所は、それぞれすべてが異なるが、ソ連潜水艦の事故は、いずれも似たようなパターンをたどった。
 1.パトロールからもどるさいの潜水中の火災。
 2.潜水艦の浮上中。潜水中および浮上した位置の両方において、潜水艦救出がこころみられた。浮上したときはすでに、船は動力および外部との接触能力を失っていた。
 3.外部からの船体内への浸水。
 4.潜水艦の基本システムにたいする司令部のコントロール喪失。
 5.浮力および航行の安定の喪失。
 6.転覆および沈没。

 これら潜水艦の沈没の原因は、かならずしもすべて原子炉に関係する事故であったわけではない。沈没したソ連艦船の場合、そのすべてで、原子炉の閉鎖メカニズムが作動していた。特別の安全措置として、手動で制御棒が最底部までおろされたが、これは、生命を実際に危険にさらすほどの重大な被ばくの危険をともなう作業であった。
北方艦船の原子炉が関連したもので、深刻な結果におわった事故は数多い。たとえば、乗員の死亡または過度(許容量以上)の放射線被ばくとともに、潜水艦の大規模な被害をまねいた事故がある。被害の規模は、修理に高額の費用がかかり困難なものであった。被害があまりにも複雑なため使用不可能となったものもある。

 以下では、ソ連の原潜事故のなかで、もっとも深刻なケースとなった3つの事故について述べる。米国の2隻の潜水艦事故については、巻末付録で明らかにした。
 

8.1.1 K-8

 最初のソ連の原子力潜水艦事故は、プロジェクト627A-ノベンバー級の艦船K-8の事故であり、この潜水艦は、1970年4月8日、演習「オケアン(OKEAN)」を終えて帰る途中に沈没した。第3(中央)、第8区画の二ヵ所で、同時に火災が発生した。潜水艦は浮上したが、船員たちは火を消すことができなかった。炉心非常システムが作動したため、潜水艦は、事実上動力を失った状態となった。予備のディーゼル発電機も作動しなかった。管制室と隣接するすべての区画には、火災による煙が充満した。船を沈没させまいと、最後尾の主要バラストタンクに、空気がポンプ注入された。4月10日には、空気タンクは空になり、第7、第8区画が浸水し始めた。4月10日夕方、護衛船が一部の乗組員を避難させた。4月11日午前6時20分、潜水艦は、ピッチの安定性を失った結果、水深4680メートル点に沈没した。船長をふくむ52人が死亡した。事故の詳細は、1991年まで秘密とされていた。
 

8.1.2  K-219

 1986年10月、戦略原子力潜水艦K−219(プロジェクト667A−ヤンキー級)は、ミサイルチューブ内部で爆発が起こり、大西洋のバーミューダ島北の海域で弾道ミサイルを積載したまま沈没した。爆発は、第4区画(ミサイルの区画)でリークを引き起こした。ミサイル燃料からの蒸気と煙が破損したミサイルチューブから流出し始めた。爆発の際、同艦の二基の原子炉のうち一基のみが稼動していた。艦は浮上し、もう一基の原子炉が起動された。水が入りはじめたにもかかわらず、第4区画で火災が発生した。電気系統のショートが、同艦の非常システムの一つを作動させた。必死に制御棒を下げるなかで一人の命が失われた。なお海上にとどまっていたが、海水が主要バラストタンクに流れ込むと潜水艦の浮力はしだいに失われていった。第二の原子炉が停止したとき乗組員は救助船に移された。艦長と9人の乗組員が司令塔に残ったが、へさきが沈みはじめたので彼らも船を見捨てざるを得なくなった。10月6日11時03分、潜水艦は沈み、4名の命が失われた。

 ミサイルチューブ内の爆発の理由は明らかではない。どのように事故が起こったかについて、二つの推論がある。ミサイルチューブそのものの欠陥か、あるいは、アメリカ潜水艦との衝突に続く火災の発生かである。潜水艦は二基の原子炉を備え、16発の核ミサイルを積載していた。
 

8.1.3 K-278(コムソモーレッツ)

 1989年4月、原子力潜水艦K−278、コムソモーレッツ(プロジェクト685−マイク級)が、火災のためノルウェー海に沈没した。コムソモーレッツは、チタン船体をもつ独特な潜水艦であり、水深1000メートルまで潜水が可能であった。1989年4月7日の朝、船は、ベア島の南180キロ地点を水深160メートルで、その拠点であるザパドナヤ・リトサへの帰路についていた。11時3分、第7区画でおこった火災により警報機が作動した。船は、火災発生から11分後に浮上。しかし、火により電気システムがショートしたため、原子炉緊急システムが作動した。猛烈な勢いの火により、圧搾空気システムから漏れが生じ、その結果火が広がった。船員らは消火にあたったがなすすべもなかった。潜水艦は動力を失い、ついには圧搾空気も底をついた。17:00には、空気の漏出は悪化し、潜水艦は浮力と安定を失った。船員らは、救命ボートで避難をはじめたが、ボートの数は足りなかった。救命ボートはおろされたものの、乗組員から距離がありすぎた。17:08、潜水艦は、水深1685メートル地点に沈没し、司令官と41人が死亡した。81分後、アレクサンドル・クロビストソフ号が救出にあらわれ、生存者25名および死者5名を収容した。この火災の正確な原因は不明である。推測のひとつとして、第7区画の酸素濃度が高すぎたため、電気システムのショートが引き起こされた、という見方がある。

イラストの解説(イラスト自体は略)
 原子力潜水艦コムソモーレッツは、1989年4月7日、ベア島の南のノルウェー海域に沈没した。この潜水艦は、原子炉と核弾頭二発を搭載したまま沈没し、現在、水深1685メートルに横たわっている。

また、事故の原因のもうひとつの推測として、事故発生の直前に、この潜水艦は航海に不適との検査結果がでていた、との主張もある。そのほか、K−278の乗組員らがコムソモーレッツを操作する資格をもっていなかったとする説もある。
 

8.2 原子炉の事故

 放射能放出をまねくもっとも深刻な事故は、潜水艦に搭載された原子炉の炉心溶解である。これは、核事故とよばれる。軍艦原子炉に関連する大規模および小規模事故は、数多く発生してきた。こうした事故は、その程度に応じて2つに分類できる。
1. 核事故
2. 原子炉事故
 

8.2 核事故

 核事故は、制御のきかない連鎖反応が起こりうる「制御の喪失」(調節の喪失)事故、または、「冷却剤喪失事故」のいずれかに分類される。ソ連原子力潜水艦が就航していた時期全体を通し、10件の核事故が発生した。一つは、1970年にチャーリーI級のK−329建設中におこった。燃料補給作業中だったK−11およびK−431でも事故が発生、造船所での軍艦原子炉の補修中に1件(K−314)、潜水艦の改良中に1件(K−222)、海上で4件、炉心閉鎖中に一件(K−314)起きている。太平洋艦隊潜水艦の事故が2件、北方艦隊が7件、残る一件は、ニジニ・ノブゴルドにある造船所で起こったものである。

K−19
 ロシア潜水艦の最初の事故は、北方艦隊の弾道ミサイル潜水艦K−19(プロジェクト658−ホテル級)で起こった。1961年7月4日、北大西洋での演習中、K−19の一次冷却循環系統の立ち入り不能個所で漏出が発生した。漏出は一次冷却循環系内の圧力を調整するパイプで起こっていることが突き止められた。漏れは、圧力を急激に引き下げ、原子炉非常システムを作動させた。

 炉の過熱を防ぐためは過剰な熱を取り去らなければならず、これは、炉の中に冷却材を継続的に循環させることによっておこなわれる。一次循環系に冷却材を供給するためのシステムは内蔵されておらず、連鎖反応の制御かきかなくなる恐れがあった。炉に冷却剤を供給する急場しのぎのシステムが工夫された。それには、一次循環系の漏れに対処するさい、将校、見習い将校などが原子炉区画内のなるべく離れた、放射線に満ちた条件の下で長時間にわたり働かなければならなかった。この場合、放射線は毒ガスや蒸気からくる。乗組員全員が大量の放射線にさらされ、8名が50ないし60シーベルト(5000ないし6000レム)の放射線を浴び、急性放射線障害で死亡した。乗組員は、ディーゼル機関の潜水艦に避難し、K−19はコラ半島に曳航されて帰還した。

K−11
 第二の核事故は、1965年2月、潜水艦K−11(プロジェクト627—ノベンバー級)の艦内で起こった。潜水艦は、セベロドビンスク海軍造船所のドックにおかれており、炉心を取り出す作業がおこなわれていた(作戦1号)。2月6日、原子炉の蓋が開けられ、翌日、さきに制御棒を固定しないまま蓋が持ち上げられた。放射能を含む蒸気の漏れが探知され、状況は急激に悪化した。放射線監視装置の針は目盛りを振り切り、要員全員が退避した。続く5日間、専門家が問題の原因を突き止めようとする間、潜水艦ではいっさいの作業が中断された。間違った結論が出され、2月12日、ふたたび原子炉の蓋を持ち上げる試みがおこなわれた。このときもまたまた制御棒を固定しなかった。炉の蓋があげられると、蒸気が噴出し、火災が発生した。放射能汚染のレベルや人員の被ばくのデータは存在しない。結局、炉は廃棄となり、交換された。

K−27
 1968年5月24日、原子力潜水艦K−27(プロジェクト645)は、航海中であった。海上試運転の間、原子炉は、出力を抑えて運転されていたが、5月24日、原因は不明だが出力が不意に低下した。乗組員は出力を回復させようとあれこれ試みたがうまくいかなかった。同時に、原子炉のおかれた区画ではガンマ放射線が毎時150ラド(150R/h)まで上昇した。放射性ガスが安全緩衝タンクから原子炉の区画に漏れ、潜水艦内の放射線が上昇した。炉は止められ、燃料部品のおよそ20パーセントが破損した。事故は、炉心冷却上の問題によって生じたものであった。1981年、潜水艦そのものがカラ海に沈められた。

K−140
 1968年8月、原子力潜水艦K−140(プロジェクト667−ヤンキー級)がセベロドビンスク海軍造船所に修理のため停泊した。8月27日、船の性能向上の作業の後、炉の出力が制御がきかずに上昇した。制御棒の一つが高い位置に引き上げられたとき、炉の一つが自動的に始動した。出力は通常の18倍に上がり、炉内の圧力と温度は通常の4倍に上昇した。炉の自動的始動は、制御棒の電気系ケーブルの配線が間違っていたことと操作者のミスとによって起こったものであった。艦内の放射線レベルは上昇した。

K−429
 1970年、最新鋭とされた潜水艦K−329(プロジェクト670—チャーリー級)がニジニ・ノブゴロドのクラスノエ・ソルモボ造船所で停泊していたとき、同艦の原子炉が始動し、制御がきかなくなった。これは火災と放射能漏れ発生へといたった。

K−222
 1980年9月30日、原子力潜水艦K−222は、原子炉の総点検のためセベロドビンスクの工場に停泊していた。作業のあいだ、同艦乗組員は工場の要員を艦内に残して昼食に出かけた。適切な取り扱い上の指示を守る点で違反があった結果、制御措置を取らないまま安全対策制御機構(Safety Rod Mechanism)に通電された。自動装置が作動しないまま、制御棒が引き上げられ、原子炉が制御に始動した。この結果、炉心が破損した。

K−123
 1982年8月8日、バレンツ海で航海中、潜水艦K−123(プロジェクト705−アルファ級)の原子炉から、液体金属冷却剤が漏れた。この事故の原因は、蒸気発電機からの漏れにあった。およそ2トンの合金が原子炉のある区画に流れ込み、原子炉に修復の余地のないほどの損害をあたえた。この潜水艦は、修復に9年の歳月を要した。

K−314
 1985年8月10日、潜水艦K−314(プロジェクト671−ビクター級)は、ウラジオストク外側のチャズマ湾の海軍造船所内にいた。この潜水艦の原子炉は、燃料補給中に臨界に達したが、これは、原子炉の蓋が持ち上げられた際に制御棒がまちがって外されたからであった。その結果起こった爆発により大量の放射線が放出し、ショトヴォ半島から6キロの範囲および海軍構内外側の海が汚染された。破壊した原子炉があった区画室は、いまだにその核燃料を含んでいる。

K−431
 1985年12月、原子力潜水艦K−431(プロジェクト675エコー�U級)は、ウラジオストクの外側にある基地にもどる途中、原子炉が過熱状態となった。この潜水艦は、現在パブロフスクの海軍基地のドックに収容されている。

K−192(もとK−131)
 1989年6月25日、コラ半島ガジィエヴォにある基地に帰る途中、潜水艦K−192(プロジェクト675−エコー�U級)は、搭載する原子炉2基のうちの一つに事故をおこした。事故発生時、潜水艦は、ノルウェー海の、トロムセーはセーニャから北西におよそ100キロメートル、およびベア島の南およそ350キロメートル地点にいた。主要回路での漏洩が見つかったため、潜水艦は即時浮上した。この漏れにより主要回路の冷却材レベルが低下し、乗員たちは、潜水艦の真水タンクから水の取り込みをおこなった。原子炉は、即刻閉鎖されなかった。この漏洩により汚染した水は、ポンプで海に捨てられた。この水の放射線濃度については何の情報もない。潜水艦の真水が底をつきると、ソ連の貨物船コンスタンチン・ユオンにホースがつながれ、原子炉の冷却剤の補充レベルの維持がはかられた。その後原子炉は閉鎖され、コラ半島に面したフィンマルク沿岸のあたりでディーゼルエンジンが停止した。6月26日の朝の時点で冷却材の温度は摂氏150度、同日の夕方には、120度、6月27日には、108度であった。
この潜水艦の近辺において放射性ヨウ素が検出され、その後、フィンマルクのヴァルデにある監視所でも放射性ヨウ素が確認された。おなじくK-192の救助に現れた北方艦船の補修船であり、船内に液体放射性廃棄物処理装置をもつアムール号には、放射性汚染冷却材が移された。6月26日、K−192の乗員たちによる、冷却システムのパイプから漏れを塞ぐ作業の途中、アムール号からの冷却剤の補充が止められてしまった。この供給停止の時間はどれだけか定かではない。しかし、冷却材補充の監視責任者が、夕食をとりに席を外した際、補充再開を「忘れた」のであった。この人物はのちに、自分は忘れたのではなく再開の命令を待っていたのである、と主張した。こうした命令は、夕食の前に発令されなかったのである。

 冷却材の喪失により、原子炉の温度が上昇し警報装置が作動した。ふたたび冷却剤の補充スイッチが入れられたが、すでに遅すぎた。冷却剤が補充されたために、過熱した燃料組み立て部に亀裂が生じ、水とウラニウム燃料の接触にいたったのである。この高度に汚染された水がアムール号へポンプで送られたことで、アムール号の処理装置に破損が生じた。その結果、海から直接海水をくみあげそれをまた海に捨てるという方法が採られた。K−192から海に投棄された汚染した水の放射線濃度および量は知られていない。この時点で船は、ノース・ケープとコラ沿岸のあいだの国際水域にあった。6月28日、K-192は、沿岸から12海里の場所にあるガジィエヴォの海軍基地に所属するアラ湾補給基地に到着した。この基地で、冷却剤の汚染濃度は、1リットルあたり0.3キューリー、全体で74TBq、2000キューリーと推測された。潜水艦の乗員は、最高で40ミリシーベルトの放射線をあびた。
 
 K‐192は、その後、アラ湾の基地内施設に収容されていたが、1994年、シュクバルの海軍第10造船所に移送された。浮力を維持するために、圧縮空気が船体にポンプ注入された。破損した原子炉の燃料部品は、通常のやり方では取り出すことはできない。

K−8
 1960年10月13日、北方艦船に所属する潜水艦で、海軍用原子炉が関係するもっとも深刻な事故のひとつが発生した。事故は、原子炉の冷却剤がなくなったことが原因で、この事故は、この原因に応じて分類されている。潜水艦K−8(プロジェクト627−ノベンバー級)は、バレンツ海で演習中、蒸気発電機と補償器の接受部につながるパイプ内で漏れが発生した。これらの漏れを食い止める装置も損傷を受けたため、乗員たち自身が、漏れを塞ぐ作業を始めたのである。彼らは、原子炉の冷却を確保するための原子炉へ水を供給する暫定システムをとりつけ、原子炉の炉心融解の危険の回避につとめた。大量の放射性ガスが漏れ、潜水艦全体が汚染された。計測器はある一定のレベルまでしか計測できないため、放射性ガスの濃度は確定できない。3名の乗員が、目に見える放射線障害を受けたが、モスクワの放射線専門家らによれば、ある乗員たちは、1.8から2シーベルト(180−200レム)の放射線に被曝したという。

(以下略)
 

このページの最初へもどる あるいは GensuikyoのTop Pageへもどる

 

Copyright (C) 1996-2009 Gensuikyo. All Rights Reserved.
日本原水協 〒113-8464 東京都文京区湯島2-4-4 平和と労働センター6階
Tel:03-5842-6031 Fax:03-5842-6033
 
お問い合わせフォーム