世界には、人類が方向を誤った場所がふたつあります。広島と長崎です。ここは、私たちが、今回軌道修正する上でスタートを切る理想的なの場所でもあります。
憎しみ、憎しみ、恐怖がもたらした恐るべき結果が、その下で暮らす私たちに今なお不気味な影を落としている場所にこそ、私たちは、希望、楽観、平和の種をまき、育てるべきでしょう。
クライストチャーチの平和活動について話す内容を考えていた際、この政策がどう具体化されているかを、効果的かつしっかりと示す必要があると感じました。
そのために、クライストチャーチの平和政策の歴史を少し振り返りたいと思いますが、その前に、平和に対する願いがどこへ向かっているかを示すお話をさせてください。
クライストチャーチでは、現代社会のほかの都市と同じように、近年において市の中心地が大きく変化を遂げた街です。経済、社会、技術が変化するなかで、私たちは、市の中心地域を新しい方法で使う必要があるという課題に直面してきました。旧市内を刷新し、活性化させる形でです。
他の都市と同様に、平和を作る上で一番の助けは、繁栄しているという実感である、という事実に向き合わなくてはなりませんでした。経済的繁栄だけでなく、精神的繁栄の実感もです。
旧市内のあり方を変えて行くなかで、世界屈指の「ガーデン・シティ(庭園のまち)」として、市民が心の豊かさを感じるうえでの核心部分が、市の公園、庭園、街に自然があふれているという現地点からさらに前進する必要があるというのが、私たちの課題となっています。
クライストチャーチ市の議会は、旧市内の一角を購入する決議を採択しました。この場所を、旧市内開発の新モデルにふさわしい計画を進めるためですが、その際私たちは、この区域がビルだらけにならないよう手段を講じました。
この地区の再開発計画の一環に、旧市内平和公園がありますが、そこでは、市民が自然に親しめるようにしました。同時に、私たちとしては、市民がそこで平和と、平和を追求し守ることを考える場所にもなってほしいと願っています。
長崎の原爆を生き延びたくすの木の種から育った木を、伊藤市長が私たちの市に寄贈してくださいましたが、公園には、このくすの木が植樹される予定です。くすの木は、長崎で起こった惨事の生き証人として、また、そのむごさを私たちに知らせてくれる存在となるでしょう。同時に、最も恐ろしい情況をも生き抜く自然と人間の力も教えてくれるものとなるでしょう。
この公園は、私たちの未来の旧市内の呼び物となります。そこを訪れる人は、平和の必要性を感じ、私達全員がひとつの惑星に住むものであるということ、私たちすべてが直接関連し合っていることを想い起こさせてくれる場所となるでしょう。
長崎から来た一本の力強い木は、中心街の活気ある場所となり、クライストチャーチの景観となるでしょう。この話で、クライストチャーチの市民が、どれだけ、確固とした、恒久の世界平和を望んでいるかがお分かりになっていただけると思います。これは、私たちの市に深く根ざした願いと意志です。
2002年5月、私たちは、オタウタヒ(先住民によるこの市の呼び名)/クライストチャーチを、ニュージーランドで最初の徹底した平和都市であると宣言しました。平和構築の長い歴史を認識するためでした。
クライストチャーチは、平和と反核問題において、ニュージーランドだけでなく、世界の先頭に立つ役割を果たしてきました。クライストチャーチはまた、長年にわたり、社会における女性の役割向上の活動でも先頭に立ってきました。
クライストチャーチの女性は、参政権運動に参加して、1893年、ニュージーランドに世界で最初の女性選挙権を勝ち取りました。1887年、国際問題を平和的な方法で解決するための「常設仲裁裁判所」を要求したのもこの女性達でした。
この裁判所は、第二次世界大戦後の1946年、世界法廷の名でも知られる国際司法裁判所として知られることになりました。
1947年、広島と長崎の惨事を祈念する最初の公の行事が、クライストチャーチで開かれました。1976年以来、私たちは毎年、灯ろう流しの式典を、市の中心を流れるエイボン川で行っています。広島と長崎で亡くなられた方々を哀悼し、このような惨事が誰の身にも二度と降りかからないようにすることの大切さを胸に刻むためです。
1960年、ニュージーランド核軍縮運動が創設されたのもクライストチャーチでした。故エルシー・ロックとメアリー・ウッドウォードという女性が中心になって起こした運動です。
当時、平和を主張することがどんなに勇気のいったことかを忘れてはいけないと思います。世界のほとんどが、冷戦として知られることとなる影にとり憑かれ、おびえていた時代でした。
核兵器というとてつもない不正を世界からなくすための、この勇気、このたたかいは、ニュージーランドと海外の両方でみられたいくつかの強い支持がなくては続かなかったでしょう。
クライストチャーチ出身の国会議員で、首相であったノーマン・カークという人物がいます。今年は、太平洋でのフランス核実験という私たち全てに対する公然の侮辱を立証するために、彼がモルロア実験場にフリゲート艦オタゴ号を派遣してから30年目にあたることを、私は誇りに思っています。
平和に向けた構想力をもったこの政治家は、南太平洋非核地帯の創設と包括的核実験禁止条約に向けた会議を主催したいと考えていました。これらの目標は、前者が1985年、後者が1996年について達成されました。ノーマン・カークが在職中に早すぎる死に会った後のことでした。
それから30年たった今、ニュージーランドが、カーク首相というどれだけ真に偉大な指導者を失ったかは、容易に理解できると思います。最近、シラク氏は、核実験が世界におけるフランスの地位を向上させたと発言しました。カーク氏が生きていたなら、彼は、この発言に徹底的な「ノー」を突きつけていたに違いありません。私たちにとって、フランスの名声は高まりなどしませんでした。核実験により、南太平洋におけるフランスの権威は落ちたのです。
核実験に反対した人たちは、私たちの敬意を受けるに値します。1982年、クライストチャーチは、ニュージーランドで非核宣言をした最初の都市となりました。
1980年代、40ほどの地域グループが定期的に会合を開いていました。個人の平和を世界平和を達成する努力につなげることで、平和への展望を高めようと協力するための会合でした。
1987年、ニュージーランドはまた世界の舞台にあがりました。今度は、国自体を非核国として宣言し、核艦船が海域に入ることを禁止したのです。
時はまさに、冷戦が始まろうとしていたころでしたから、このような立場をとることにより、いくつかの分野で私たちは大きな犠牲を払いました。一方、世界の平和を支持する人たちの間では、私たちの地位はぐっと高まりました。
1986年、反核運動において、クライストチャーチでもう一つ画期的な出来事がおこりました。もと裁判官のハロルド・エバンス氏が、のち、世界法廷をして核兵器の適法性に関する勧告的意見を出させしめることとなった、試みを開始したのです。
クライストチャーチの平和活動家である、ケイト・デュースさんについては、この世界法廷計画が彼女の台所で生まれたという伝説があります。この話は完全には正しくなくて、自分の台所を平和の崇拝の場所でなく、いつでも気軽に立ち寄れる場所にしておきたいという彼女の気持ちからこういう話が生まれてきているのだと、わたしは思っています。
クライストチャーチでは、このように、家庭からアイディアがうまれることがおおく、ご存知の方も多いと思いますが、(国際司法裁判所に核兵器の勧告的意見を求める)「公共の良心の要求」宣言に400万人が署名し、世界の700の団体が支持したあと、110のメンバーを持つ非同盟運動が、勧告的意見を求める国連決議を提出したのでした。
1996年、世界法廷は、今ある国際法のもと、核兵器による威嚇または使用は一般に違法であり、核保有国には、誠意を持って完全核軍縮に向け交渉をおこなう義務があるとの意見を出しました。これは、核兵器の呪いから世界を解放したい私たち全てにとって、一歩大きな前進でした。
1999年、クライストチャーチは、核兵器の廃絶を求める(国連)決議を後押しする、世界の242の自治体の仲間に加わりました。
私たちは、世界平和市長会議のメンバーです。平和市長会議は、ここ長崎と広島の市長が始めたもので、現在は、107カ国の547の市が参加しています。
2年後に核不拡散条約の次の再検討会議が開かれますが、それまでに、この会議に、平和を求める世界の人たちの明確なメッセージが届くよう、有効に道徳的圧力をかける方法を、この会議は与えてくれていると思います。
私たちのメッセージは、素晴らしく簡潔なものです。私たちは、世界からこの悪を無くしたい。2020年までに非核の世界を。みなさんもこの目標を支持してくださるものと確信しています。私は賛成です。