原水爆禁止2003年世界大会
国際会議

被爆者
笹森 恵子(ささもり しげこ)


「アメリカ在住の被爆者の訴え」

  1. 被爆58年後の今も、あの時の悲惨な状態は決して忘れることはできません。
      私は当時13歳の女学校1年生で、学徒動員として建物疎開の後片付けに爆心地から約1.5キロの所におりました。空にB29が飛んでいるのを見て、私と一緒にいた友達に空を指差して教えたその時、飛行機から白い物が降るのを見たと同時に強烈な閃光が私の視界をすべて消し、強い風に飛ばされたようでした。気が付いた時には、私は赤黒い何も見えない、音のない世界にくるまっていました。暫くして、深い霧が晴れるように少しずつ明るくなりました。私は、強度のショックだったのでしょう、その時は何も見えない、聞こえない。そして痛みも感じられませんでした。上半身が火傷を受けておりましたのに。
      5日4晩生死の間をさまよいつつ、唯々私の名前と「お水をください」と繰り返し、もう一度言えば誰かに聞いてもらえるかもと言っておりましたら、奇跡的に私の両親に伝わり、5日目の夕方迎えに来てくれました。5日間何も食べず、治療も受けず、良くも生きていられたと思います。

  2. 広島、長崎の被爆者団体をはじめ、たくさんの被爆者団体、在外被爆者支援団体の方々が、外国に住んでいる被爆者への援護を要求して、30年近くも機会あるごとに厚生省や外務省を訪問して陳情書を提出し、あるいは、裁判をしたり、大変な苦労をされたおかげで、広島から被爆者検診治療団の訪米となり、また、今年から被爆者手当を在外であっても受け取ることができるようになりました。心から感謝しております。
      ですが、手当ての申込みと治療を受けるために日本まで行かなくてはなりません。日本へ飛行機で行くには、アメリカの西海岸から12時間、東海岸から10数時間かかります。被爆者はほとんどが70歳以上ですので、日本に行くことは簡単ではありません。病気の人も少なくありませんが、これらの人が日本に行くことは無理なことです。家庭の事情で行けない人もいます。日本に来れば治療し手当を支給するというのですが、日本に行ける被爆者と行こうにも行けない被爆者との間に、このような差別が生まれています。この不公平な在外被爆者に対する援助はなんとか改めていただきたいと思います。
      「被爆者はどこにいても被爆者」です。私たちは、国の内外の被爆者がひとしく援護が受けられるようになることを切に願っています。

  3. 誰も戦争は好まないと思いますが、自分の身のまわりに火がつかないと戦争の恐ろしさに気が付かないものです。人、一人の命がどんなに尊くて大切か。
      私には息子が一人おります。この子は、戦争のために人を殺したり、殺されたりするためにこの世に生を受けたのではないのです。世のため人のために何か役に立ってほしいと願いつつ、育ててきました。親ならみんな同じ想いで子どもを育てておられるでしょう。
      毎日の生活の内に世界平和への関心を取り入れて、みんなが未来への希望と行動への勇気を持って努力しなければならないと思います。一瞬にして多くの人々の命を奪い、傷を負わせ、さらに原爆病に罹らせ、心痛をもたらした原爆の恐ろしさをもっと世界の人々に分かってもらえるよう訴えなければなりません。多くの被爆者が原爆病の恐れと心身の障害を抱え、これに伴う生活の困難が未だに続いております。
      今ある核兵器を世界から絶滅させなければ世界平和への道は遠いと強く思います。


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