原水爆禁止2003年世界大会
国際会議

ロシア連邦
アイグル(チェリャビンスク核被害者組織)議長
ミーリャ・カビロワ



  親愛なる友人の皆さん、

  世界大会ご参加の皆さんにごあいさついたしますとともに、私を大会にご招待下さり、皆さんの前でお話できる機会を与えて下さった実行委員会に感謝を申し上げます。

  広島、長崎への原爆投下の犠牲者にささげられたこの世界大会に私が参加するのは、今回で3回目になります。日本の国民が感じている痛みが私にはよくわかります。

  1945年、皆さんの国は、原爆投下という恐ろしい悲劇を体験しました。それは核の時代の始まりでしたが、他の者たちにとっての教訓とはなりませんでした。

  核兵器は、現代文明の悲劇的なパラドクスです。初めに2つの大国が、最も優れた物理学者や化学者や技術者の頭脳と数千人の労働力を集中し、大量の資源を使って、最初の原子爆弾を創りました。そしてどちらがより強力で、完全で、殺傷力がある兵器と運搬手段をもつかという、恐怖の競争が始まりました。狂気の軍拡競争が世界中を巻き込み、さらに英国、フランス、中国の3カ国が核兵器の保有国になりました。そして20世紀の終わりに、恐怖の「核クラブ」にインド、パキスタンとイスラエルが加わりました。核兵器は、数百万人を殺すことができる大量破壊兵器から、地球上の生き物をすべて殺してしまえるほどの悪魔の力になりつつあります。

  戦後、ロシアの中央にあるウラル地方に、ソ連にも全世界にもそれまでなかったような独特の原子力産業の施設が短期間で建設され、操業を開始しました。

  最初の原子力産業施設、その先駆者とされているのは、1948年に操業を開始した化学コンビナート「マヤーク」です。極秘条件のもとで、核爆弾の爆薬となる兵器用プルトニウム生産が行なわれたのは、まさにここでした。この大規模な事業は、戦後の核軍拡競争時代のさなか、非常に劣悪な条件のもとで行なわれました。限界まで短縮された核兵器製造の期限と、厳格な秘密体制と、常に急がされたことが原因となって、人びとの健康がひどく軽視されました。また技術および設備が未完成であったこと、放射線が人間と自然環境に与える影響についての知識が欠けていたことも、この状況を促進しました。米国との軍拡競争で遅れをとるまいとするあまり、原子力産業の安全な技術を開発し、放射性廃棄物を貯蔵し、再処理することには少ししか注意が払われませんでした。当時、放射性廃棄物を離れたところに保管するという問題は、軍事用プルトニウム生産と抽出という課題ほど重要とは思われていませんでした。化学コンビナート「マヤーク」の生産能力があがり、液体放射性廃棄物の保管場所が不足し、それらの保管場所の管理が不充分だった結果、このプルトニウム生産コンビナート周辺の多くの川や湖、そしてかなり広大な土地が放射性核種で汚染されてしまうことになったのです。

  こうして、1948年から1952年にかけて、液体放射性廃棄物が浄化措置をなんら行なわれることなくテチャ川に垂れ流されました。テチャ川水系に約300万キュリー相当の放射性廃棄物が投棄されました。41の居住区に暮らしていた12万4千人が放射線に被曝しました。900人以上が慢性的な放射線症にかかりました。

  でもこの悲劇が最後ではありませんでした。2つ目の放射線漏れ事故は1957年の9月29日に起きました。コンビナート「マヤーク」の敷地内で高濃度放射性廃棄物の入った容器が爆発し、周辺に2000万キュリー相当の放射性物質がばらまかれたのです。この事故の結果、391の居住区の33万5千人が被曝しました。

  3つ目の事故は1つ目と2つ目に比べ規模が小さく、液体放射性廃棄物の貯蔵所にされていたカラチャイ湖が干上がり、むき出しになった湖底から放射性のほこりが風に乗って広がったため起こりました。それは1967年のできごとでした。ほこりに含まれた約60万キュリー相当の放射性物質が拡散しました。このときさらに68の居住区に住む4万2千人が被曝しました。

  この3回の放射線漏れ事故の結果、周辺の環境には、チェルノブイリ原発4号炉からもれた放射性核種の総量を上回る量がばらまかれました。

  コンビナート「マヤーク」で原子力産業の操業が始まってから55年たった現在、原子力の擁護者が2つの異なる、全く正反対の顔をもっているということは明らかです。1つ目の顔は、核兵器を製造する献身的な労働を象徴する、英雄としての顔です。2つ目の顔は、何千人もの人びとの健康に被害を与えた環境汚染事故と結びついた、悲劇の顔です。

  今でもロシア政府はこれらの事故の被害を取り除くことができず、人びとは汚染された土地で暮らし続けているのです。ムスリュモボ村だけでも約4千人が暮らしつづけています。この村は、年平均の被曝放射線量があらゆる被曝許容基準を超えている、高リスク地域として認定されているのにです。

  これらの地域にすむ人びとの健康について、世間の注意を喚起する必要があります。労働することができない人の数が増えており、早期死亡率と障害者の割合が上昇しています。腫瘍、不妊、また奇形をもって産まれてくる子どもの例が大きく増加しています。

  日本の国民は、58年間原爆投下の恐怖を覚えています。わたしたちは55年間放射線の被害で苦しんでいるのです。

  一核大国の中の「核」地域に住むわたしたちには、離れたところで傍観者として立って、わたしたちの運命が政治エリートや軍部のエリートによってどのように決定されるのかを待つことは許されません。わたしたちは、核政策の分野で解決策が準備され、採用される過程に参加しなければならないし、そうする義務があるのです。わたしたちにはそうする権利があります。

  これはわたしたちが抱える共通の問題です。この場には核兵器の生産、実験、そして核爆弾投下の被害者が集まっています。わたしたちはそれぞれこんなにも違いますが、わたしたちを結びつけている願いは一つです。それは未来の世代が核産業の人質とならないよう、核兵器のない世界で暮らすという願いです。若い世代には、核兵器の生産と使用を禁止する国際法や条約の作成と採択という、崇高な使命があります。核の脅威から解放された世界への希望を社会に残さないような、権力—金—兵器—権力という悪循環を断ち切らなければなりません。

  このスピーチを準備しているとき、4枚の写真をコピーしました。それは日本、カザフスタン、イラク、そしてロシアという、世界のいろんな場所で撮られた、放射線の被害を受けた子どもたちの写真でした。この写真を見て恐ろしくなりました。核兵器使用とその拡散を防ぐためにあらゆる努力をしなければ、将来わたしたち全員を待ち受けているのはこれなのです。


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