最初に、大会実行委員会にたいし、この全体セッションで特別報告をするようお招きを受けたことにお礼を申し上げます。非核フィリピン連合、非核独立太平洋運動、また太平洋問題資料センターより、心から連帯のあいさつを述べさせていただきます。
私は、平和と正義を追求しつづけている同志として、こうして平和を訴える人々や平和活動家のみなさんに囲まれていることを大変光栄かつ嬉しく思います。太平洋地域の国民の精神と流儀にならって、日本の国民と広島の方々に敬意を表したいと思います。日本と広島の人々は、この国と世界の歴史の瞬間に原爆の惨禍を経験し、あの悲劇と不法行為の犠牲者が血の通った人間であったことを今もなお教えています。しかし、あの悲劇の瞬間こそが、私たちをいまもここに集めている理由なのです。私たちは悲嘆して非難するためや、絶望するのではなく、励ましあうために、すべての被爆者の平和と正義を求める声から、力とエネルギーを得るために集っています。
アメリカの侵略政策、アジアや世界のその他の地域への介入、また、こうした動きが私たちをどこにみちびくのかについては、多くの発言がされており、議論は続くでしょう。先に発言した友人の方々が、アメリカの国家安全保障戦略と、それがアメリカの「自由貿易」の課題とどう結びついているかを解明してくれました。
私は、アメリカの対テロ政策において、フィリピンがアフガニスタンに継ぐ「第二の前線」にされていることについて、さらに詳しく述べたいと思います。フィリピン政府は、国内にある米軍施設・基地の復活を含め、アメリカの対テロ政策に無条件の支持を宣言したアジアで最初の政府です。忘れてはならないのは、フィリピンの米軍基地が、朝鮮半島、ベトナム、インドネシアなど、アジア諸国にたいする軍事介入や攻撃の足場としてフルに使われてきたことです。アジアから遠くはなれた中東におけるアメリカの安全保障上の利益を支える梃子として、フィリピンは地域的に次のような重要な役割を果たしています。
アメリカは、国際的テロにたいするアメリカの戦略の一環として、フィリピンに「前方基地」を復活させることを計画しており、これは海外の米軍基地・施設を縮小または閉鎖するという冷戦後の流れに逆行するものです。すでに9月11日以前に、ランド・コーポレーションは、「アメリカ合衆国とアジア−新たなアメリカ戦略と軍事構成にむけて」(2001年5月)と題した重要な政策戦略を作成し、「将来の米空軍遠征部隊配備」を通してフィリピンに米軍を復活させることを強く主張していました。
フィリピン人として忘れられないことがあります。1899年、米訪問軍がフィリピンの国土に土足で踏み込んで、新生フィリピン共和国の自由と主権の土台を破壊し、征服戦争を始め、植民地化しました。アジアでの市場と軍事拠点を確保するためです。1899年のアメリカの侵略で、60万人以上のフィリピン人が死に、その多くが非戦闘員でした。これは当時のフィリピン人口の6分の1に相当します。歴史家は、この時期を米比戦争、「アメリカの、アジアにおける最初のベトナム」と呼んできました。
独立後の安全保障協定として、1947年に結ばれ1991年に廃止された軍事基地協定、1947年の軍事支援協定(のちに1953年の相互防衛支援協定に改定)、1951年の相互防衛条約などがありますが、これらの協定は、フィリピンの対外防衛についてアメリカが権限を握ることを容認する一方、フィリピン軍と警察隊には国内の革命勢力を鎮圧する役目を負わせました。
1999年に訪問軍隊協定が結ばれ、1991年に基地条約が破棄されて以降停止していたフィリピンにおける米軍の活動が復活しました。以来、米軍のフィリピン駐留の復活を正当化するために、様々な規模の演習が行われてきました。次のような演習です。
バリカタン演習は、1991年以来おこなわれてきましたが、上院が基地協定の提案を否決したあと、一時中止されました。1991年に否決された軍事基地協定提案は、通過米軍の演習を取り決めるものでした。しかしこれは、1999年のVFA批准によって再開されました。しかしながら、バリカタン演習の方針と実施は、2002年9月11日後変更されました。バリカタンは2002年初め、意図的に、バシランとザンボアンガ戦争区域において行われました。このときは、国家安全保障顧問のロイル・ゴレスが「実地訓練」といったように、実際の軍事作戦における本物の標的をつかったものでした。
バリカタンのこの転換は、現在のフィリピン軍の対ゲリラ作戦における軍事演習の公然とした公認の役割にかんするものでした。2000年5月9日付のジョセフ・エストラーダ大統領(当時)への「機動部隊ブラック・クレセント」という機密の覚書があります。これはモロ・イスラム解放戦線(MILF)にたいする機密の「オプラン・ミンダナオ/ブラック・レイン作戦を分析したものですが、このなかで、フォルナト・アバト国防長官(当時)率いるTFブラック・クレセントは、「バリカタン2000」比米軍事演習を装った対ゲリラ戦にかんする軍の先行訓練で、批准された訪問軍隊協定(VFA)と一致したもので」(5頁)、「イスラム人のいないミンダナオをめざすキリスト教徒自警団連合」と「ミンダナオ神聖兵士」を武装させ、M14、M16銃など20,763挺を配布した」(8頁)。この機密文書は、解禁となり、いわゆるミンダナオのテロリズムにたいする自警団の不当な利用を示しており、賞金かせぎに報奨金を与えるシステムをつくって強化しています。
元のクラーク米空軍基地、スービック米海軍基地の地域にもたらした環境破壊についていえば、有害物質の汚染の被害者は、アメリカ政府が、自分達の残していった有害廃棄物にたいする責任を否定し続ける中、いまなお苦しみつづけています。フィリピンにたいするアメリカの干渉の名残は、米国が同盟国や友好国をどのように扱っているかを示す典型的な例です。この情況については、フィリピン基地汚染除去人民タスクフォースを代表して参加している私の仲間が報告すると思います。
以前の比米軍事基地協定(MBA)のもとでは、アメリカの軍隊や施設は、限定された規模や区域の基地にしか駐留あるいは設置することができませんでした。これらの基地はいずれもルソン島に限定されていました。しかし、いまやVFAと提案されたMLSAで、インドネシアやマレーシアに近いミンダナオ南部を含むフィリピン全土が網羅されることになります。
MLSAは米軍が使用できる基地地域を特定してはいませんが、VFAと同様フィリピンの全ての島の陸海空全てを米軍に提供しており、それによって米軍はフィリピンのどこでも訓練、燃料や食糧などの補給、そしておそらくは海軍の戦艦の修理など、基地内と同じような活動をおこなうことができるのです。しかし、それより重大なのは、フィリピンがアジアをはじめ世界へ介入する基地として、9月11日以降、狂犬のように行動する超大国の単独行動の踏み台として、再び使用されることです。いまや米軍はフィリピン全土の港や空港を使用することができます。そして、もしフィリピンとアメリカが1999年のVFAを拡大解釈して、米軍の対ゲリラ作戦を含め、フィリピン領土におけるあらゆる種類の軍事活動を認めるMLSAのような協定が締結されれば、どのようなことになるかは、想像に難くありません。
対テロ戦争の名のもとに、最悪のテロ掃討作戦がすでに実施され、米軍の介入や米国防総省からの軍需物資の補給によって維持されています。アメリカはフィリピンに戦闘部隊を展開しつつあります。アフガニスタン、ついでイラクにたいし戦略戦争をおこなっているあいだ、アメリカは対テロ対策を口実に戦闘部隊を配備し、核兵器拡散阻止を口実に北朝鮮を強迫してきました。フィリピンおよび北朝鮮の国民にたいするアメリカの敵対行為には相関関係があります。これらの行為は、いずれも東アジア全体におけるアメリカの覇権を確立するためなのです。
フィリピンは、一方の端には北東アジア(日本、韓国、北朝鮮、中国)の比較的発展した国があり、もう一方の端は、低開発だが資源の豊富な東南アジア諸国がある、大きな弧の中心とみなされています。アメリカは、東南アジアのイスラム教が優勢な産油国を制圧する拠点を確保するため、ミンダナオの中部と南端に、空軍および海軍の基地を確立するための準備を優先しています。
アメリカの戦略の新たな転換は、フィリピンをはじめとする東アジアに影響をおよぼしています。アメリカは、前方展開の概念のもとで、可能なところにはどこでも小さな基地や前哨基地を設置しようとしています。これは緊急展開の概念からの変化です。米軍の地上前進配備は、安全な米軍基地からいつでも大規模部隊を展開できるようにするためのものとみなされています。
最近の動きをみると、アメリカは裏でフィリピン憲法の改悪をすすめ、権利憲章をアメリカの愛国者法に沿ったものにして、ミランダ・ドクトリンから派生した条項、および戒厳令しくことを制限する条項を抹消し、経済的主権や国家財産に関する条項を破棄し、外国による投資の制限や、外国軍事基地・軍隊および核兵器などの大量破壊兵器の禁止を撤廃させようとしています。
失敗に終った「クーデター」、70人の将校を含む300名の兵士による7月27日の抗議行動は、政府がミンダナオでテロ環境をつくりだし、2月にミンダナオでのMILFへの不当な攻撃を命じたことに加え、テロ爆撃を計画して、フィリピン共和国とモロイスラム解放戦線(MILF)との和平交渉をわざともつれさせていたことを暴露しました。兵士たちの不満は、軍部高官を含めた政権が腐敗し、下士官や兵士をないがしろにしていること、軍部が仕組んだテロ爆撃によって、アメリカの軍事介入に道が開かれ、米国防総省からの軍需物資供給が増加し、8月に戒厳令がしかれたことなどでした。
フィリピン人は、かつてのピープルパワーでEDSA1およびEDSA2として知られる教訓を学びました。私たちが忘れてはならない教訓とは次のようなものです。
フィリピンの私たちは、1991年の米軍基地撤去以降も、MLSAの提案によって米軍を復帰させる企てを阻止し続けています。それは実際には1987年のフィリピン憲法の反軍国主義、反核平和条項を守り、実施することです。また、私たちは冷戦時代の遺物であるアメリカとの1951年の相互防衛条約、1947年の軍事支援協定、および1999年の訪問軍隊協定の破棄を求めています。
外国の侵略者や独裁政権にたいする人民のたたかいの経験は、一致協力し、幅広い統一戦線をつくりあげることによってのみ、フィリピンやアジアの軍国主義者に勝利することができることを私たちに教えています。「組織化は、強者とのたたかいにける弱者の武器」なのです。
終わりに、この世界大会で繰り返される傲慢さ、裏切り、偽り、不公平、暴力の物語に代えて、謙虚さ、真実、愛、思いやりの物語から勇気をもらい、正義と平和を守り抜き、たたかいで団結していけることを期待します。そうすることこそが、正義と真の恒久平和の世界を求めたたかっている被爆者のみなさん1人ひとりの勇気と残した遺産に報いることになるのです。ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ。