原水爆禁止2003年世界大会
国際会議

被爆者
萬膳ハル子



  あの日、私は9歳、爆心地から2・6キロの自宅近くの井戸端で薬を飲もうとして仰向けになった瞬間、突然「ピカッ」と青白い閃光が走り、目の前が真っ暗になりました。顔半分、のど元、胸、両手、両足を焼かれ、皮膚がぼろぎれのように垂れ下がりました。父が私をリヤカーに乗せ、医者をさがしに走り回る途中、川の中には水が見えなくなるほどの死体が浮いていたこと、「黒い雨」にあい身体が真っ黒になったことを覚えています。その後、激しい痛みと、嘔吐、歯茎からの出血、血便、血尿、下痢、脱毛、ひどいだるさと食欲不振がつづきました。

  身体に刻まれたケロイドは、私の心をもむしばみました。娘になって一番つらかったことは、好きな人に身体を見せられないこと、女としての幸せをあきらめ自殺を考えたこともありました。24才の時結婚し妊娠しましたが、儀父母に「原爆にあったものが子どもを産んではいかん」と中絶させられました。その後流産を繰り返し両方の卵巣を摘出、ついに子どもの産めない身体になり離婚しました。この悔しさ分かっていただけますか。

  そして、子宮筋腫、肝機能障害、帯状疱疹、肝硬変と入退院、手術を繰り返し、平成11年(1999年)肝臓ガンのため手術がきまり、病床から原爆症認定の申請をしましたが、厚生労働省は「原子爆弾の放射線に起因していない」と申請を却下しました。私は異議申立と口頭意見陳述を申請しましたが、厚生労働省は私をふくめ11人分の申請書を紛失するという被害者をないがしろにしたことに大きなショックを受けました。

  ケロイドやガンが原爆のせいであることを認めてもらうまでは死んでも死にきれません。政府、厚生労働省に被爆者の苦しみ、不安、悩みを理解してほしいと願うばかりです。
  私は平成15年(2003年)6月12日、27名の仲間とともに広島地裁に提訴しました。私にとって最後のたたかいだと考えています。核兵器をなくし、国の被爆行政を改めさせるために、力をあわせて頑張ります。皆様のご支援を御願いします。

  もし、原爆が落とされなかったら、私は子どもを産んで、その子どもも結婚し、孫ができて・・・・想像するだけで涙が出ます。夢でした。


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