議長、友人のみなさん、今日は。
広島の被爆者の小西悟でございます。全国の被爆者を代表して、心から連帯のご挨拶を申し上げます。ようこそ広島へおいでくださいました。
「広島は、平和の問題を考えるのにもっともふさわしい場所です」と、昨年も私はこの壇上から語りました。今日もまた私はおなじことを繰り返さねばなりません、核兵器がふたたび使用される危険がいっそう深刻にさしせまっているからです。
58年前の8月6日、私たちがいま座っているこの場所の周辺で、数10万の人々が、かつて描かれたどんな「地獄絵」もおよばぬほど残酷な姿で殺され、傷つけられました。大半が子供と老人と女性でした。
殺されたもの、生き残ったものを問わず、人間がただの「もの」の次元にまで貶められました。
私は16歳、爆心地から南へ4.5km、造船所で軍用輸送船をつくる作業に狩り出されていました。しかし、この年の春ごろからは材料の鉄板がなくなり、この朝も仕事がなくて数十人が「教室」という名の掘っ立て小屋にあつまり、思い思いに本を読み始めたばかりでした。
いきなり大量のマグネシウムを焚いたような青白い閃光が走り、窓際に座っていた私は、頭部と顔面の右側に熱線を受けました。「熱い!」と思わず両手で頭を覆うと、「もぐれ!」と叫んで机の下にもぐりました。
数秒後に猛烈な爆発音と同時に衝撃波がおそい、窓ガラス、木材、屋根のスレートなどが頭の上の机に叩きつけられました。それからあとの記憶は切れ切れの断片だけで、ほとんど残っていません。
閃光と爆風ときのこ雲。そして、夜中炎々と天を焦がして燃えつづけた炎の海。鮮烈な衝撃の恐怖は忘れようもありません。その炎に炙られながら、無数の母たち、幼児たちが助けを求めていたことに、少年は思いおよびませんでした。
翌日、とつぜん開けた視界に現れた広島の廃墟。「ない!」「何もない!」夢を見ているのではないかと思いました。夢遊病者のようにふらふらと歩いていた私の耳にあの呼び声がとびこみました。「水をくれ!」一瞬私の網膜がとらえたその姿、それは白くぶよぶよに煮えてふくらんだ「とうふ」以外の何ものでもありませんでした。それは、きっと爆心地の近くであったはずです。一切の記憶はここで途絶えてしまいました。
2人の学友と一日中焼け跡を歩いた私は、かつてこの世界に起こったもっとも残酷な姿のすべてを見いるはずです。多くの被爆者が証言しているように、私も、助けを求めてよりすがる重傷者たちの手を払いのけて逃げたのでしょうか。よろよろと死体を踏んでさまよったのでしょうか。私はそのあと何をしたのか、何を見たのか分かりません。
私にはあの「とうふ」顔のほか何一つ思い出せません。
その顔の記憶をさえ、長い間私は脳の片隅に閉じ込めてしまい、ほとんど忘れていました。被爆から6年目に、歯茎からの出血、全身の痛み、極度の倦怠感などさまざまな原爆後障害が始まり、5〜6年、生死の境をさまよいました。被爆者は一見元気そうに見えてもたくさんの障害をかかえているのです。
1964年、ベトナム戦争が激しくなり、横須賀に原子力潜水艦がたびたび寄港し、出撃しました。ベトナムの子供たち、母たちの上にナパーム弾、ボール爆弾、枯葉剤が雨あられと投下されました。この国が、被爆国日本がこの凶悪な犯罪の共犯者なのでした。私のまぶたにふたたびあの顔が浮かんできました。
「何をしているのだ、おまえ!」あの<とうふ顔>の叱責を私は聞きました。
いまも、その顔が現れて私の項(うなじ)から呼びかけます。「アフガンを見ろ、イラクを見ろ、沖縄を、横須賀を見ろ」と。欲しくてたまらなかった水をくんでやらなかったことへの負い目と自責がたちもどります。
絶対に2度とくりかえさせてはならない「核戦争地獄」が、いまにも中東に、アジアに繰り返されようとしています。60億人類の命が時々刻々おびやかされています。
しかも、ほかならぬ日本政府がアメリカのその核脅迫の最大の支えになっている。2000万のアジア同胞を虫けらのように惨殺した日本、広島・長崎の核戦争地獄を体験した日本が、またしても戦争の加害者となる。沖縄が、横須賀が、佐世保が、横田が、三沢が・・・日本全土が出撃基地になる。ひょっとしたら核攻撃の基地に。断じてそんなことを許してはなりません。
被爆者は訴えます。
ブッシュよ、小泉よ、広島を見よ、長崎をみよ。広島・長崎の土に眠る死者たちの声に耳を傾けよ!核戦争起こすな!核兵器なくせ!
被団協は今年、3つの大きな行動計画を掲げました。