みなさん、
はじめに私をムルロア・エ・タトウの代表として、アメリカによる広島と長崎の原爆の犠牲となった方々を追悼する行事にお招きくださった日本原水協に感謝いたします。私は、この惨禍の重大性および、それを生き延びた数百万人の方々の苦しみがよくわかります。
私は、太平洋の仏領ポリネシアのムルロアとファンガタウファという二つの環礁にあるフランスの核実験場で働いていたポリネシア人労働者からの友愛の挨拶をみなさんにお伝えします。
私はタメマルアトア・ミッシェル・アラキノです。ムルロアに近いレアオ環礁出身で、ムルロアとファンガタウファのフランス核実験場の元労働者です。私は、環礁内の海の下でおこなわれた核実験のための潜水夫として、また放射能分析の標本準備のために17年間働きました。
私が核に関係するようになったのは1964年、私が生まれたレアオ環礁でのことです。1964年に私の島に外人部隊が基地をつくり、気象の観測や予報のための施設を建設することになったのです。この施設には、大気圏核実験の際に発生する原子雲の動きを追跡するという目的もありました。1966年7月、環礁の住民全員が軍の基地に集められ、核シェルターに収容されました。その後、3日間、私たちはシェルターを一歩も出ることができませんでした。「ホット」な服装をした男や、兵士が出口を全て固めていたからです。3日たって外に出た私は、植物に変化がおきたことに気がつきました。ココナツの葉は黄色くなり、数日後には実が落ちてしまいました。
こんにち、振り返って見ると、レアオの住民のなかにはかゆみなどの異常を訴えていた人がいたという記憶があります。その時も、おかしいなと思ったのですが、今でも疑いは消えていません。
私がムルロア・エ・タトウに入会したのは、この組織のフォローアップ委員会が2001年7月に開催した、元ムルロア労働者の最初の会合に参加した後です。この会合には、スー・ロフ女史とブリュノー・バリオ氏という2名の核の専門家が招待されていました。核実験に参加したイギリスの兵士の受けた死の灰の影響を語るスー・ロフ女史の話に、私はすっかり動転してしまいました。まるで自分が診断を受けているような気がしたのと、核実験による後遺症について十分な情報を与えてくれなかった雇い主に裏切られた気がしたからです。私の同僚であった元労働者たちがさまざまなガンに侵され苦しんでいるのに、軍の保健責任者たちは、これらの病気の原因が核実験かもしれないことを否定し続けています。私は、ムルロア・エ・タトゥーに入会し、元労働者と私自身の健康状態の原因究明を援助してもらおうと思いました。
私は、実験場での仕事の関係で、いわゆる「ホット・スポット」に定期的に行かなければなりませんでした。ムルロアとファンガタウファの環礁で、生物学検査のための様々な生物を採集しました。その他にも、国外から入ってくる食料の検査もおこないました。また、ファンガタウファの汚染された土をつかって植物園作りを任されました。生物検査局が、汚染した土壌に育つ植物がどうなるかを知りたがったためです。この植物園で働いたことや海に潜って爆心の真上のプランクトンを採取したことで、私は、放射性粒子を飲み込んだり、吸い込んだりした可能性があります。
いずれにせよ、私は自分におよぶかもしれない危険性について、当局から何も知らされていませんでした。
ある定期検診のとき、検便で陽性の結果がでました。私は、パペーテにある軍に入院し、所定の検査を受けました。しかし、その後、1994年以降、何の音沙汰もありません。カルテも見せてもらえないし、軍の労働衛生局からは、私の受けたテストや検査の結果も知らせてきません。
私はこれまで大きな不安を抱えて暮してきました。なぜ自分がタヒチ島の軍の病院で検査を受けたのか、その原因すら全くわからないのです。
ムルロア・エ・タトウでの私の役割は、ムルロアとファンガタウファの核実験場の生き証人として、自分の体験を語ることです。私は特に、自分の健康がどのような状態なのかを知り、原因が知られていなかったり、私が知らされていないような重大な病気にかかるのを予防したいと考えています。また、制裁や報復をおそれたり、「同じ釜の飯をくったくせに、今になってその釜につばするのか」といったような非難を受けるのをおそれて沈黙し、苦しんでいる元労働者たちの代弁者になりたいと思います。
私はこの大会で、原水禁世界大会のすすめているヒロシマ・ナガサキが繰り返されることのないよう、核兵器をなくすたたかいに加わることを約束するものです。
ノーモア・ヒロシマ。ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ。