原水爆禁止2001年世界大会
長崎・閉会総会(8月9日)

アメリカ合衆国
ハンフォード風下住民
トム・ベイリー


  みなさんの子ども時代の記憶を振り返ってみてください。私の子ども時代の最初の記憶をお話しします。

  1949年、私は2歳でした。風呂場で誰かの叫び声が聞こえました。ドアを開けると、女の人がバスタブの中で、助けを求めていました。彼女のまわりは血だらけで、足元には血にまみれた赤ん坊のようなかたまりがあり、私は風呂場から逃げ出しました。

  次の記憶は、体が麻痺して何度も入院し、手術を受けたこと、鉄の肺で治療をうけたことです。学校にはいるころは、松葉杖をつき、ギプスをつけて歩き、体中がかぶれて歯はぼろぼろでした。髪の毛は2度抜け落ちました。農場では、頭が2つあったり、足が6、7本もあるもの、目玉がないものなど、さまざまな奇形の子牛や子羊が生まれました。たくさんの小鳥が死んだまま、電線からぶら下がっていました。鷲や鷹も死に、毛が抜けたコヨーテや犬もいました。

  家の農場に、あごひげをはやし、ぶ厚いメガネをかけた人たちがやってきて、死んだアヒルやガチョウの足や頭の部分、牛から絞ったミルクや、井戸水のサンプルをとっていきました。宇宙服のようなものを着ていたこともありました。彼らは「私たちは政府のものだ。君たちを守るために来たのだ」と言いました。

  小学生のころ、彼らはひんぱんに学校にやってきて、私たちにミルクシェイクのような白い液体を飲ませ、その後、ボディカウンターで体の放射線を測りました。朝食に食べたものを全部書き出して、先生に渡すように言われました。

  これが私の子ども時代の記憶です。あなたの記憶と似ていますか?おそらく違うでしょう。 <p>   1986年、アメリカ政府は、私の農場から5キロ風上にあったハンフォード核兵器工場から大量の放射線を放出し、空気や水、食べ物を汚染していたことを認めました。政府の解禁文書は、政府が故意にそれを行い、事実を隠してきたことを明らかにしています。最大の放射線放出は、1949年に行われた「グリーン・ラン」と呼ばれる実験でした。それは、私たちの乳母だった女性が、風呂場で流産した時期と一致していました。

  私の母の最初のこどもは死産で、奇形がありました。私の祖父母は全員がんで死にました。私の父は肝臓がんで死に、母と妹たちもがんになりました。

  1984年に私たちは、近所の27軒の家全てに、さまざまながんや先天性異常、甲状腺障害の家族がいることを突き止めました。ハンフォードは本当に放射線を放出し、私たちを汚染したのです。ナガサキ原爆のプルトニウムはハンフォードで作られました。その過程でハンフォードは、ヒロシマやナガサキと同じようにアメリカ人の被ばく者を作ったのです。

  1991年ごろ、約5000人のハンフォード風下住民は、工場を操業していた企業に対し、賠償金を求める訴訟を起こしました。私たちは第一審では負け、今控訴中です。

  私たちハンフォードの被ばく者は、真実と正義と補償を求めて、困難なたたかいを続けています。政府はいつも私たちの訴えを拒否しました。私たちはさまざまな脅迫を受けました。権力に対して異議を唱えるものは、いつもこのような結果に苦しむことになるのです。しかし、私はこれからも異議を唱えつづけるつもりです。

  ヒバクシャが正義を手にする日まで、私は殺されたままです。


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