原水爆禁止2001年世界大会
長崎・閉会総会(8月9日)

長崎原爆被災者協議会副会長
谷口稜嘩


被爆者を代表してのご挨拶


  全国からお集まりのみなさん、世界各地からお集まりの皆さん。きびしい暑さの中でのヒロシマ・ナガサキでの集会・行動へのご参加、お疲れさまでした。この期間中に体得(たいとく)されました数多くのことが、日本中に、そして世界中に広かり、核兵器廃絶をめざす潮流の大きな支えとなることを期待してやみません。

  思えば、一九五五年に広島で開かれた第二回原水爆禁止世界大会、そしてその翌年の長崎での第二回大会は、とんなに私たち被爆者を励まし、元気づけたことでしょう。その準備をすすめる中で、全国各地に被爆者の会が誕生し、やがて全国組織へと発展したのでした。被爆者の全国組織である日本被団協が結成されましたのは、四十五年前のあす、一九五六年八月十日、この長崎の地でだったのです。

  「今日までたまって、うつむいて、わかれわかれに、生き残ってきた私たちが、もうだまってはおれないで、手をつないで立ち上がろうとして集まった大会なのでございます」

  日本被団協の結成大会宣言『世界への挨拶』は、こう述ぺています。「私たちは今日の集まりて亡き人々をしのび、又、長い年月のかぎりない思いを互いに語り合いました。しかし、私たちの胸につもったかなしみといかり、なやみと苦しみについてのつきることもない語り合いは、決してひとときのなぐさめや、きやすめのためではありませんでした。手をつないで決然と立ち上がるためにほかなりませんでした。世界に訴うべきは訴え、国家に求むべきは求め、たがいに相救う道を講じるためでありました。かくて、私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります。」

  あれから四十五年が過ぎました。しかしこの思いは、いまも変わりません。

  当時、アメリカの水爆実験によって、新たな核軍拡競争の幕が開けようとしていました。いままた、ブッシュ政権によって、CTBTの「死文」化、ミサイル防衛構想の推進、ABM制限条約からの離脱など、核兵器をめぐっては危険な状況がつくりだされようとしています。私たちも高齢化し、病弱にもなって参りました。しかし、黙っているわけにはいきません。五十六年前の原爆投下がどのように悲惨なものであり、許すことのできない人間否定の大量殺りくであったかを告発しっづけるとともに、国民をこのような被害にさらした国の責任を追及しつづけることは、生き残った私たちが生命あるかぎりやり遂げなければならない使命なのです。

  ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ。

  世界大会にご参加の皆さん。核兵器ゼロをめざし、ともにがんばろうではありませんか。


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