この重要な世界大会のテーマは、まさに世界と諸国民の将来に関わるものです。核保有国は核兵器を廃絶するという約束を忠実に守り、国際協力と国際連帯によって世界の将来を保障しなければなりません。
ブッシュ政権の誕生とともに、過去56年間にわたり独占資本主義の真の狙いをとりつくろってきたもの、支配欲に駆られた資本の搾取もたらす長期的な現実を一時的に緩和し、隠してきた数多くの国際条約や国際協定が、今や全て反故になってしまうかもしれません。
最近の京都議定書やABM削減条約からの離脱の動きに見られるように、アメリカおよびアメリカに追随する諸国政府がかつて調印した文書は、いまやどれも本当に信用できる約束であったとは考えられなくなってしまいました。時代は、ドイツ、イタリア、日本の資本が、当初はイギリスやフランスの黙認もあって、国際協定を遵守するという仮面をかなぐり捨て、少数のエリートの私利私欲のために地球の資源を搾取するため、露骨に人類を服従させようとした時期に逆戻りしてしまったのです。
これは、ブッシュが大統領に選択された(問題のあった選挙だったので、あえて選出というより選択という)ことにより生れた新しい世界環境であり、具体的には、これまで調印された協定や条約をつうじて確立されてきたはずの国際法や公平性の終焉宣言に他なりません。今では、どのような国際的文書も不可侵のものではなくなってしまったのです。
1962年にアメリカの国家安全保障局と統合参謀本部が、周到に計画・準備されたキューバ侵攻を正当化するため、アメリカ国民にたいしテロリスト戦争をしかけるという計画をたてていたことが最近になって暴露されましたが、これによって、ユーゴスラビアを破壊するための戦争も、実はアメリカ資本の利益に反対するヨーロッパ全体にたいする脅しではなかったのかという私たちの疑念は一層深まりました。
アメリカ国民自身でさえ、脅威にさらされています。しかもこの脅威は、1930年代、自動車労働者の権利確立のたたかいを弾圧した資本側の攻撃の犠牲となった死者の、人権擁護にとっての歴史的重要性でさえかすんでしまうほどの、恐るべき犠牲をもたらすかもしれないのです。現在のアメリカ政権が、国際法や世論などを軽視している、いや、全く無視していることは今や私たちの誰もが知っています。
このような状況が出現したのは、というよりむしろ意図して作り出されたのは、ニュース・メディアによるマインド・コントロールによって人々が、国会を軽視し、その権限や民主的過程を制限するようそそのかされ、これら全てを「民主主義」という装いで包んでしまう、オーウェル的なセンセーショナルな宣伝のとりこになっているからです。
ここに私たちの抱える問題があります。世界の出来事にたいし影響力を行使するためには、私たちはまず自国の政府に影響力を行使できなければなりません。自国の政府に、国民の要求に従うという意志をたたき込まなければなりません。そのために、私たちは国民の自覚を喚起し、選挙で選ばれる政府に理解させる唯一の手段、つまり選挙をつうじて、国民の意思を政府に分からせなければなりません。
しかし、政府が新世界経済秩序の奴隷となり、多くの国会議員がこの新世界秩序を信奉し、また政府をコントロールする過程から議会が排除されていることで、彼らの民主主義的な責任が少なくなってきているとはいえ、私たちの影響力を行使する力が弱められることがあってはなりません。
国連が代表しているのは各国の国民ではなく、各国の政府であることは誰でも知っています。だからこそ私たちは自国の政府に、国連で行動するよう要求しているのです。
これらの要因を認識しつつ、また私たちの軍縮目標実現を保証するための民主的な行動や民主的参加を重視しつつも、私たちは、人間の活動のあらゆる分野で民主主義が急速に減少し、10年以内には失われてしまい、自国の国会や国連のような国際機関を利用することができなくなってしまいかねないことに気づいています。
問題は、事態は取り返しのつかないところまで悪化してしまったのかということです。私たちはもはや資本主義革命に打ち負かされてしまい、私たちが今後どのような決定を下そうと、良く知られた長期的な狙いをもつ資本は、民主主義を無力化し、自分たちの世界独占を確実なものにしてしまうのだろうかという問題です。
世界規模の企業50社が、それぞれ国連に加盟する国の半数以上の政府の経済力を上回る経済力を行使するようになったいま、人々は、政治家に力がないのなら、なんで選挙などする必要があるのだと疑問に思い始めています。
だとすれば、既存の世界秩序や国際法をつかさどる構造を検討し、その中で行動しながらも、それと同時に私たちは直接行動を起こす計画をたてるべきではないでしょうか。環境保護運動は力を強めていますが、まだ腐敗せずにあり、そのために、ますます警察や、時には軍隊とまでも衝突しなければならなくなっています。
私たちは、シアトルやワシントン、そして沖縄やプラハゲーテボリ、ダボス、シドニーなどでおきたことを検討してみる必要があります。私たちは、各国の安全を保障する権限を与えられながらも、国際企業やその手先機関であるIMF(国際通貨基金)、WTO(世界貿易機構)、世界銀行などのために行動し、各国の安全を保障するという本来の責任を放棄している人々の果たしている本当の役割とはなにかを理解する必要があります。
私たちは、京都議定書や、ABM削減条約の破棄が何を意味するかを十分に認識すべきです。これは、核兵器など兵器産業の活動を邪魔するものは何であっても認めないという宣言なのです。
私たちが民主的手段で核軍縮を実現することを目指すのであれば、私たちのこれからの死活的に重要な課題は、民主的な機構を守り、国連のような国際機関を、もともとそのために考案された参加型民主主義の機関に再び転換することです。
外交活動が有効になるかどうかは、国際裁判所の下した判決の実施と同様、世論を喚起し、政治的指導者を国民の意思に従わせるために直接行動を起こす力にかかっています。
外交官は選挙で選ばれるのではないため、世論の圧力を受けません。したがって、軍縮のあらゆる段階に、政治家を関与させていかなければなりません。それによって、政策は直接、国民にたいして責任あるものになるのです。
私は、現在の環境において、平和運動のすすんでいる方向にいくつかの懸念を抱いています。最近、ウェリントン市で開催された国連アジア・太平洋地域平和軍縮センターの会議には、広範な平和NGOが参加しましたが、彼らの多く、特に「現実主義」の立場に立つ人々の選択は、アメリカが支配的な大国となったなかで、妥協的になっているように思えました。彼らは、現在の状況で核兵器への依存度が高まるか、それとも減少するかによって、今後すすむべき方針を決めるべきだと強調していました。彼らにとって、核廃絶の現実性は大きく後退してしまったのです。
このような疲労感あるいは無気力感は、政府の領域にも広く入り込んでいます。これは新アジェンダ連合の立場にさえも見ることができます。ニュージーランド核軍縮キャンペーンは、特に彼らが新アジェンダ連合の弱体化した軍縮要求とよんでいるものと対立しています。
これについては、2000年冬季の「Disarmament Times」Vol.23、No.4は、いくつかの注目すべき事実を指摘しています。新アジェンダが最初に提案された1998年、全ての核保有国がこれに反対しましたが、今年、新アジェンダ連合が提案した決議には、3つの核保有国(中国、イギリス、アメリカ)が賛成し、2ヶ国(フランス、ロシア連邦)は反対から棄権にまわりました。
どうしてこのようなことが起きたのでしょうか。アメリカやイギリスが賛成するような核問題に関する決議には危険が潜んでいることを私たちは忘れてしまったのでしょうか。
新しい決議には、以前の決議に比べ、大きな弱点があります。1998年と99年の決議にあった(警戒態勢解除、ミサイルと弾頭の切り離しなど)特定の要求が、今回の決議では落されました。さらに、警戒すべきなのは、「既存の非核兵器地帯条約と、これら条約に関連する議定書の調印と批准の重要性」を強調した部分が欠落していることです。
この世界大会にとって、この外交手段による前進を阻む最大の脅威は、1998年決議の「核兵器の存在がもたらす人類の生き残りにたいする脅威」への警告的な表現が、NPTに加盟する非核保有国にたいして核兵器を使用したり、使用するという威嚇をおこなわないという法的に拘束力のある保障措置を誓約することを核保有国にはっきりと求めた呼びかけを巧妙に削除した、弱い表現に置き換えられてしまったことにあります。
このように新アジェンダ連合は、再び妥協の泥沼にはまり込みつつあり、私たちは、この傾向がさらに進行しないようにする方法を探らなければなりません。そこで私がこの世界大会に提案したいのは、第一に、世界規模での広範な直接行動キャンペーンを再び行い、各国政府に国民の声を聞くように迫り、同じ政府が5、6年も政権の座に安住でき、首相の裏切りでさえ政権の延命につながるような、あいまいで取り繕った政策をやめさせること、第二に、残っている資源を、外交を監視する活動を支援するために利用することのために、どのような政策をとるべきかを検討することです。
2001年3月にウェリントンで開かれた国連アジア・太平洋地域平和軍縮センター会議で発言した著名人、特にNGO代表らは、核軍縮を進めるためには政治的意思が必要であることは歴然としていると強調しました。そして十分すぎる位の分析のなかから、行動に向けたいくつかの措置が打ち出されました。
この会議で、とりわけ重要だったのは、尊敬する日本の平和運動を例外として、世界中で、今や「市民社会」とよばれるようになったものが、過去に成功を収めた直接行動を組織する習慣を失って、民族紛争、戦争、地雷、第三世界の債務などの問題に注意をそらされ、政治活動は全体として、民営化によって、教育、医療、水道、電力などに関する国の権限が、外国資本によって強奪されていることなどに向けられているという全体的な認識が確認されたことでした。
また、1980年代に、というより実際にはそれよりかなり以前に、ニュージーランドは直接行動の先駆者として、国民の認識を喚起して、その水準を高め、それによって選挙で非核、いや実際には反核の政府の誕生させただけでなく、反核法を制定し、それを全政党が一致して受け入れたことで、不動の国是としたことが確認されました。
これがもたらしたその後の効果は、核兵器に依拠した同盟であるANZUS同盟の消滅でした。
これに匹敵する成果をあげた行動は、他にはいまだにどこにもありません。多くの場所で、注目すべき直接行動が行われました。特にグリーンナムコモンなど巡航ミサイルやポーシングミサイルの欧州配備に反対する行動や、各地で行われ、外交行動に影響を与えた直接行動や啓発活動などがそれです。ニュージーランドでは、変革の最大の舞台として政治行動に焦点を絞り、議員をめざす政治家に責任ある態度を取るよう迫りました。反核文化がこうして生れ、多くの青年がこれを理解して、受け入れ、長年にわたる反核政策の安定を保障したのです。
これと対照的に、国際交渉がたどった段階には、永続的なものは少なく、しかもそれでさえ現在ではアメリカによって崩されつつあります。
このことは、平和運動にとって、各国代表による国際交渉には限界があることを認識し、直接行動の卓越性を保障するようなあらゆる活動に参加していく必要があるという問題を提起しています。
過去56年間の交渉過程は、核兵器を廃絶できませんでした。いずれにしても、交渉の議題は、核保有国自身によって決められるので、基本的には真の目標から逸脱しまうのです。しかし、私たちはたとえささやかな前進であっても、それによって勝ち取られた道義的な権威を軽視してはなりません。道義的権威は、平和運動が、あらゆる機会をとらえ、議員や議員候補者にたいして圧力を行使できる、最も重要な道具だからです。
この道義という分野では、いくつかの大きな前進が勝ち取られました。世界法廷プロジェクトやその成果がそれであり、レベッカ・ジョンソン女史が、さる3月のウエリントンの国連会議での非常に優れた発言の中で指摘したように、核兵器とその配備にたいする法的な挑戦は、ごう慢な核保有国政府を大いにやり込めたのです。ジョンソン女史の論文は、反グローバル化活動の発展にふれ、これが平和行動を再び高揚させる弾みになっていると述べています。
もちろん、私たちは、軍縮交渉を56年間も牛耳ってきた核保有論者たちなら、政治家や議員候補者たちがその影で暇つぶしができるような、陽動作戦をやりかねないことを知っています。私たちが、人類生き残りのための最大の目標、すなわち核兵器廃絶と、核兵器廃絶・全面禁止条約の締結にむけた期限を定めた交渉の即時開始という目標を見失うことがなければ、私たちの活動の有効性は全て、この目標達成に成功するかによって評価されることになるでしょう。
軍縮交渉という広大な分野にめぐらされている策略を検討する際には、いかなる提案でも、アメリカが合意するような提案は疑ってかかる必要があります。そのような提案は、単に不用になった兵器を交換するという前ぶれか、あるいはレベッカ・ジョンソン女子がウエリントン会議で警告したような道、すなわち「用途の変化」ドクトリンの出現への道をたどることになるからです。
多くの交渉は、軍備安定の基盤として、相互に合意された核兵器管理が可能かをめぐって行われています。しかし、そもそも核兵器管理を安全保障の基礎として認めることは、核兵器は使用されるためにあるので、現実には第一撃に使用されるのであり、ある国が核兵器の使用を決定すれば事前協議などない、という明白な事実を見過ごすことだと感じずにはいられません。核兵器管理や協定を、ボクシングの正式な規定のように信じるのは、ヒットラーの言葉をそのまま信じるようなものです。
交渉では、NPT条約第6条の定める義務による、核保有国の誓約にかなり重点がおかれています。しかしアメリカがABM削減条約のもとで行った自らの誓約を放棄したことは、その理由がいかに偽りのものであるにせよ、私たちはこれを警戒し、いかなる条約も破られないということはないこと、そしていくら法的な手段によって完全に敵を包囲しても、敵は条約から離脱することができるという危険性を認識してかからなければなりません。
世界の平和運動の第一の標的の一つは、有権者の声に耳を貸さず、資本の利益に従属している政府であるべきです。なぜなら現在残っている民主主義は、まだ政府に圧力をかけることができるほど強いからです。
核兵器を法律に基づいて廃絶する過程を重視している人々にとって、NPT再検討会議の行動のための13段階は、最小限の計画です。しかし、直接行動が緊急に必要であると考える人々は、ニュージーランド、そしてここ日本の神戸など、これまで直接行動が成功を収めた場所の経験を検討するべきです。そして、できるだけ早く、各国で選挙により非核の政府を作るための共同の計画を立てようではありませんか。
ニュージーランドは非核国になることを目指し、そうなりました。しかし、世界にとっての、この行動の価値は、ロンギ政権がこの政策を「輸出」することを拒否したことによって、無効になってしまいました。ニュージーランドは、非核政策の伝道師の仕事をすることはない、他国にニュージーランドの真似をすることを奨励することはないというのがその理由でした。また、ニュージーランドは新アジェンダ連合の一員であり、その結成のために指導的な役割を果たしました。しかし、新アジェンダ連合が拡大するにつれ、当初掲げた目標は弱まってしまいました。部分措置の積み重ね病は、未だ治っておらず、残念ながら、1972年から1975年まで続き、フランスの核実験を止めさせるために戦艦を派遣し、フランスを国際司法裁判所に訴え、勝利したニュージーランドのカーク政権の勇気にとって代わっています。第一段階は勝利でした。しかし、私たちは、世界規模の行動という第二段階に進むことができないでいます。
私たちにはまだまだ多くの行動によって達成すべき課題が残されています。
私は最近、フランスの元首相で、今83才になる有名なエデゥアール・エリオ氏が、1955年のヘルシンキ世界平和会議に送ったメッセージを読み、感動しました。エリオ氏はこう書いています。
「この怪物をやっつけることができるかどうかは、人々の意思にかかっています。われわれは、核戦争の残虐性にたいし不断にたたかわねばなりません。人民の良心は、罪なき人々を未だに脅かしている惨禍をなくさなければならないのです。私は皆さんにお願いしたい。政治の分野よりも道義の分野で、この狂った怪物を打ち負かし、各国に平和に生存する権利を保障することを」。
グローバル化した核の脅威は、かつてないほど私たちを脅かしています。ステンジラブ博士(???)は今や中央舞台に立っています。私たちの恐れが現実となりうることを如実に示す事実があります。それはアメリカがパキスタンにしかるべき通告なしで、オサマ・ビン・ラーデンに向けてパキスタン領空を侵して巡航ミサイルを発射したことでした。ミカエル・フットはその1999年の著書で、この巡航ミサイルが、インドの先制攻撃に間違われる危険性がいかに大きかったかを述べています。もしそうなっていれば、私たちは最初の核戦争に巻き込まれ、私たちの恐れていることが全て現実のものとなっていたでしょう。しかし、そうなってしまえば、私たちが言い続けているように、人類にとって、もう取り返しのつかないことになるのです。
核兵器廃絶体制の確立は死活的に重要です。私たちは、核兵器拡散は、いわゆるならず者テロ国家を核武装させることになりかねないという、現在アメリカが口実として利用している危険性が、現実の可能性であることに気づかねばなりません。核兵器は基本的には1940年代の技術に基づいているため、どの国の現在の技術でも、その国の国民がどのような貧困に苦しんでもかまわないというのであれば、作ることができるのです。核保有国を見れば、狂った核軍拡の追求のためには、これらの国がいかに人権や生活水準などへの配慮を欠いているかが良く分かります。
核拡散は、核抑止論の当然の結果です。抑止論は、核兵器保持の正当化のために、あまりに長いこと、あまりに熱心に唱えられてきたため、どの国でも、例え相互に確実に破壊されることになっても、核保有国が選択したと同じ方法で、他国を抑止して、自分を防衛する権利をもっていると考えることはありえます。
核兵器廃絶体制は、新しい考えではありません。国連はその第1号決議で、国連憲章が核時代以前につくられたという弱点を克服するため、廃絶の緊急性と道徳的必要性を明記しました。朝鮮戦争で有名になり、私たちの味方とはとても言えないジョン・フォスター・ダレスでさえ、1950年代に、アイゼンハワー大統領にアメリカの政策の根本的な転換を自ら進言したほどです。ダレスは「原子力は、一つの国が軍事目的で使用するには余りに巨大な力だ」と言い、「核兵力のコントロールを、拒否権をもたない国連の安全保障理事会に委ねるべきだ」と提案したのです。この提案が認められていたなら、当時、国連が重要な役割を果たしていたことから、廃絶は実現していたでしょう。ダレスは安全保障理事会の拒否権の重要性を認識していましたが、それを廃止してもいいと考えていたのです。
ベトナム戦争犯罪で有名となったロバート・マクナマラもまた、核廃絶が必要であると考えを変えた人ですキューバ危機を振り返って、彼は、米ソ両国が、相手について誤った情報をもち、この誤った情報が世界を危機の淵に立たせることになったことを理解したのです。この反省から、彼は「必ず誤りをおかす人間と、核兵器が同じ世界で生き残ることができないことがこれほど確実であったことはない。人間に絶対に誤りを起こさなせない、馬鹿げたことをさせない保障などない以上、核兵器の方をなくさなければならない」と結論しました。マクナマラは、ここにいる私たちの多くと同じように、廃絶の決定を下すべきであり、廃絶監視の制度は、既存の技術的知識によって、容易に確立できると確信していたのです。
人類生存に絶対に必要である核廃絶が達成できるかどうかは、国連を改革し、世界の主要な機構として確立できるかどうかにかかっています。
私たちの多くは、長年、グローバル化とは、独占資本の帝国主義を婉曲して言い換えただけにすぎず、私たちがこれに反対して、人々を啓発し、組織しないかぎり、私たちが何をしようと、核兵器のある下で存在する人類の生き残りを危うくする最大の脅威を取り除くことはできないと訴え続けてきました。
世界秩序を規制している既存構造は、グローバル化主義者により植民化されてしまい、私たちは軍縮を達成するための道徳的な権威はあるが、司法上は何ら権限をもたないまま取り残されてしまっています。
技術はめざましい変化を遂げましたが、資本主義の本質、狙い、目標は少しも変わっていません。変化はしないが、野放しになった資本主義は、かつてないほど平和と社会秩序、あるいは世界を脅かし、森林を丸裸にし、空気や海を汚染し、権利剥奪と強制労働によって人々を非人間化しつつあります。
資本主義は、調和の世界構築を願う人々、自然の贈り物をうまく利用して、少数者の利益のためにあらゆる資源や市場を独占することにやっきになっている資本の貪欲がさらに増長されて、核兵器や生物・化学兵器による戦争を引き起こし、人類が消滅するのを食い止めようとしている全ての人々に挑戦しているのです。
このような状況のなかでは、外交的に追求することを決めた目標は、それが何であれ、直接行動で補完されなければなりません。環境保護運動は、人々に道義的な義務があることを警告するという経験では平和運動にまだおよばないかもしれませんが、多くの平和団体よりかなり早くからこのことを認識していました。
これは外交か直接行動かという二者択一の問題ではなく、外交を直接行動で支援していく、あるいは道義性が合法性を与えるということなのです。環境運動は、シアトルなどのたたかいをつうじて、人間性と道義性にたいする新世界経済秩序の攻撃をはね返すために、心のバリケードを作ることを急速に学びつつあります。
外交の分野では、私たちは最高の権威をもつべき機関である国連の排除という事実に直面しなければなりませんでした。国連事務総長は、今や、ブッシュ政権が操り、アメリカが、国連の権限を無視していない分野では、NATOなどを利用して、国連に対抗する形で組織されている世界で、なんとか効果的に活動するために走り回っています。