1952年から1957年まで、イギリスとオーストラリア両国政府は、西オーストラリアのモンテベロ諸島と、オーストラリアの中南部の砂漠地帯のエミューとマラリンガで、協力して核兵器実験をおこないました。この期間中に合計12回の実験がおこなわれました。1985年、王立委員会は、実験に関して厳しい報告を提出しました。報告によると、実験によってアボリジニ(先住民)、軍人以外に、民間人も被ばくしたとされています。この調査の後、実験がおこなわれた地域一帯の汚染除去命令が出されましたが、この汚染除去は失敗だったと言われています。最近、マラリンガに関連する問題をメディアが取り上げ、より恐ろしい詳細が明らかになりました。私は、最近の新聞記事で報道された重要な点について話します。
(a)マラリンガ
マラリンガを基地とするオーストラリア、イギリス、ニュージーランドの兵士は、爆心から7.2キロの地点に集合を命じられました。彼らは、両手で目を覆い、スピーカーから聞こえるカウントダウンを5分間聞いていました。士官たちは、兵士たちに、カウントダウンが終わって2秒してから、振り返って爆発を見るよう命じました。
* 兵士たちは、実験から24時間以内にレッカー車を放射線汚染地域に走らせて、爆発効果を試すためにそこにおかれていた車両を引上げるように命じられました。時には、彼らは白い放射線防護服を着用し、防護マスクをつけることもありました。また、カーキ色の軍服だけを着るようにという指示を受けることもありました。その後、彼らは高水圧ホースで汚染された車両を洗い、大量の汚染土壌を除去しました。兵士たちは汚染地域の出入りのたびに、あるいは車両を洗ったり、解体するたびに、血液を採取されました。彼らの身体や身につけていた衣服はガイガーカウンターで放射線量を測定されました。
* イギリス兵士は、様々な素材の衣服の放射線にたいする防御性を調べるために使用されました。
* オーストラリア政府は放射線効果を調べるために、385人の兵士を塹壕に入らせて実験するという計画をたてました。しかし、この計画は、1958年10月、イギリス、アメリカ、ソ連の政府が、全ての核実験にたいする一時的モラトリアムに合意したため、流れてしまいました。
* 放射能を帯びた土埃のなかで転がることを強制された兵士もありました。
(b)モンテベロ
モンテベロ諸島で行なわれた核実験では、死の灰が降った地帯に派遣された水兵が、放射線被ばく後かなりたってから病気にかかる可能性があることを、イギリス海軍が知っていたことを示す極秘文書が見つかりました。水兵を派遣した目的は、放射線の許容量を特定することでした。
(c)障害者を使った実験
1950年代には、マラリンガでのイギリスの核実験では、イギリスから重度障害者が人体実験用に送られたと言われています。これら身体障害者や精神障害者は、核爆発の放射性降下物で被ばくして死亡したと推定されています。
(d)死産児の使用
オーストラリア放射線防護・核安全局は、オーストラリアの死産児から採取した骨が、両親の承諾を取らずに、放射性降下物の科学実験に使用されたことを確認しました。理事は、オーストラリアは赤ん坊や老人の骨サンプルを、放射性降下物の試験のためにアメリカやイギリスに送った。同局は、サンプルはオーストラリアで火葬され、灰はイギリスとアメリカに送られて、ストロンチウム90の測定が行なわれたと主張しています。 1955年、シカゴ大学のウィラード・リビー博士は、原爆実験の降下物に関する実験用に、多くの死体、特に生れて直ぐに死んだ死産児を要求しました。そのため、オーストラリア、イギリス、カナダ、香港、アメリカ、南米の病院から、両親の承諾も得ずに、死体6000体が持ち出されました。
A)マラリンガ汚染除去
オーストラリア連邦政府の核技術顧問アラン・パーキンソンは、マラリンガにおける放射性物質の廃棄に関する公的な調査を要求しました。
B)軍人を使用した人体実験
1)被爆兵士の最小限の補償要求は、公立および私立の病院での医療費を無料にする退役軍人省発行の「ゴールド・カード」です。
2)王立委員会に提出されていない文書の捜索は続いています。
3)退役軍人担当大臣は、大規模な健康調査実施の先駆けとして被爆兵士の名簿を公表しました。
4)イギリス政府は、以前認めた以上の事実を認めざるをえなくなりました。つまり、放射性降下物がふった地域内における軍服の防護性を調べるために、兵士は、合意の上で、様々な征服を身に付けて、低レベル汚染地域に輸送された、あるいは歩いて行かされたことを認めたのです。
C)死産児
州政府は、核実験にオーストラリアの死産児が使用されたという訴えに関する調査を開始しました。