原水爆禁止2001年世界大会
広島(8月6日)

広島県被団協事務局次長
村田 忠彦


被爆者の証言


  被爆したところは、比治山本町で、爆心地から1.8キロメートル。年令は5才6ケ月でした。

  雲ひとつない暑い夏の日、朝食を終え、外で遊んでいました。ある瞬間に目の前が真っ暗になりました。それは、暑いギラギラした道路から、爆風によって8メートル近く吹き飛ばされて、他所の家に入っていたからです。ビックリして泣いていると泣き声を聞きつけた男の人が家の中に入ってきて、私の手を握り外に出してくれました。

  あわてて、家に帰りましたが、どこにも家がありません。なぜか私の家は爆風により全壊していたのです。ウロウロしているとどこからか「坊や助けて!忠彦助けて」と、当時18才だった幸子姉さんの声が聞こえます。「姉ちゃん。何処におるん」と聞くと「ここよ。ここよ。助けて」と、ガレキの下から聞こえてきます。ガレキの透き間から私の小さな足が見えたのでしょう。「お姉ちゃん。助けてあげるよ」と叫びながら、木切れや瓦などを取り除いていましたが、5才の子供でどれはどのことができるでしょうか。

  どれほど時間が経ったのか判りませんが、国民学校3年生だった節子姉さんが帰ってきました。節ちゃんは、頭の毛は逆立ち、左半身、顔から足まで大火傷で、左有から剥がれた皮膚は、手指のところで引っ掛かっていました。節ちゃんと私の二人でガレキを取り除こうと頑張りましたが、小さい二人の力では一向にはかどりません。

  とうとう、わが家の近くまで火が廻ってきました。近所のおばさんが逃げる途中、私たち二人の手を両手でシッカリ握り締め、逃げてくれました。「お妨ちゃんが下におるケー助けてやー」と泣き叫びましたが、火が近くまできていたため、無理やり逃げてくれました。あのまま、残っていたら私たち二人とも火に巻かれて、焼け死んでいたものと思います。だから、おばさんは命の恩人ではありますが、家の下敷きになり、「助けて!助けて!」と叫んでいる姉を置き去りにしたときのことを、今でも忘れることはできません。

  第一県女一年生だった貞子姉さんは、平和公園対岸の土橋町で、建物疎開中に被爆しました。頭の真上で「ドン」と原爆が爆発し、何も判らないまま大火傷し、維も助けてくれないまま、その場で300人近くの先生と級友とともに、骨になってしまいました。

  私と節ちゃんは、翌日、横山さんの家にいきました。南から北へ町の中を横切った途中の地獄絵は、忘れることはできません。

  最初は生き残った人たちが、ボーゼンと地面に座り込んでる姿が多かったのですが、だんだんと「水をくれ」「お母さん」などのうめき声が聞こえるようになり、地面に横になっている人、そのまま死んでいる人、防火水槽に山なりになっている人…など、地獄でした。

  今年6月、被爆者相談所の相談員で頑張っていた香川和子さんが、急性骨髄性白血病で亡くなりました。10ケ月の闘病生活でした。まだ58才。今からという人生を原爆は奪いました。

  広島や長崎では原爆は過去のものではありません。今も続いています。21世紀は、核被害のない地球にしなくてはなりません。

  子供や孫たちに、安心して暮らすことのできる素晴らしい地球を指ろうではありませんか。


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