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反核平和運動・原水爆禁止世界大会

原水爆禁止2000年世界大会国際会議
  
           
被爆者からの報告   
田中熙巳(日本原水爆被害者団体協議会事務局長)

 世界各国からお集まりの友人のみなさん。私は被爆者の一人として、今世紀最後のこの原水爆禁止世界大会で、報告できますことを光栄に思います。
 思い起こせば55年前のこの8月、アメリカの爆撃機が突然私たちの上空に現われ、何の警告もなく、人類のいまだかつて知らなかった原子爆弾を投下しました。爆弾は上空500メートルあまりで、鋭い閃光を放ち炸裂し、爆風は人々を地面にたたきつけ、家屋をなぎ倒し、熱線は野外の人々の体を焼き、倒壊した家々に火をつけました。倒壊した家屋から脱出できなかった人々は、生きたまま劫火に焼かれ、息絶えました。目に見えない放射線はすべての人々の細胞や遺伝子を破壊していました。あの日を生き延びたものの、高熱や出血、下痢、脱毛などが襲い、多くの命を奪いました。広島と長崎に投下された、わずか二発の爆弾で、投下から5ヶ月の間に殺された人々の数は21万人にも及びました。 
 私はこのとき13歳の少年でした。長崎の爆心地点から3.2キロメートル離れた山陰の自宅にいて助かりました。しかし、3日後に焦土と化した爆心地付近の野原で、大火傷を負って死んだ伯母の変わり果てた遺体を荼毘にふすことになりました。祖父は焼け爛れた姿で余命をとどめていましたが、もう一人の伯母といとこは炭がらになって、灰燼と化した自宅のあとに転がっていました。軽いけがを負っただけの叔父は8月15日の敗戦後、高熱に襲われ命を奪われました。原爆は一度に5人の身内の命を私から奪ったのです。 
 13歳の少年の私が見た惨状は55年経った今日も脳裏から離れることがありません。何キロも続く、煙くすぶる焼け野原。風船のようにパンパンに膨れ上がって溜め池に浮き沈みしている裸同然の何十という死体。石垣に叩き付けられた家とともに焼かれた、立ったままの子供の焼死体。何十、何百と並べられて、引き取り手を待っている女や子供たちの死体。重傷を負いながら手当ても受けれず蛆虫の餌食にじっと耐えている無残な人々。
 かろうじて生き延びることができた被爆者も、被爆後10年間、誰からも省みられることなく放置されました。被爆から5年後、1950年の全国調査で、被爆者29万余人の存在を把握しながら、アメリカの占領軍は原爆被害を語ることを禁止し、日本の政府も12年間何の対策もとりませんでした。多くの被爆者が得体の知れない放射線の晩発障害に苦しめられました。原因がわからない倦怠感、肝臓障害、白血病やさまざまな「がん」の発症。明日は我が身かと、発病と死への恐怖におののき生きざるを得ませんでした。生きる意欲を失わせることもありました。手当てを受ければ生き永らえることができたであろう被爆者の命が絶たれ、さらに十万近くの「遅れた原爆死」者を重ねることになりました。
 1954年3月、ビキニの水爆実験による死の灰で第5福竜丸の久保山愛吉さんが亡くなり、漁獲したすべてのマグロが投棄させられました。婦人を先頭とする市民のなかからはじめて、原水爆実験反対の運動が湧き起こり、燎原の火のように広がりました。第1回の原水爆禁止世界大会が1955年8月広島で開かれ、全国的に被爆者探しも始まりました。翌年の第2回世界大会に、全国から集まった被爆者たちによって、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されました。私が事務局長を努めている組織の発足でした。
 この時「生きていてよかった」と被爆者に言わせるほどに、孤立しながら苦しんできた全国の被爆者はこのときから、力を寄せ合って、励まし合って、原爆被害に対する国の補償と原水爆禁止の実現、核兵器の廃絶をめざして大きな運動を展開していきました。
 1957年には「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」を、さらに1968年には「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」を制定させ、被爆者の医療、健康維持に対する国の施策を大きく前進させました。1994年には「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」を制定させ、さらに大きく前進させました。これは、被爆者と原水爆禁止の運動が勝ち取ってきた成果に他なりません。
 しかし、被爆者が求めてきた補償は、原爆の被害に対する国の戦争責任を認めた国家補償です。原爆被害は、もとはといえば国際法違反の核兵器の使用によるものであり、戦争を開始、遂行し、原爆の投下をみちびいた責任が国にはあります。この要求に対して、日本国政府は「戦争による一般の犠牲は国民が等しく受忍すべきもの」として一貫して拒み続け、今日に至っています。
 国の被爆者対策は放射線による被害を「特別犠牲」とし、原爆の被害を放射線の被害に矮小化し、一般の戦争被害と切り離して行ってきました。こうした姿勢が、自分の障害を原爆によるものとして認めよという松谷英子さんの訴えを理不尽にも退けたのです。松谷さんの訴えに対して、地裁、高裁もこれを不当と判決し、ついに7月18日、最高裁判所が松谷さんの勝利の審判を下しました。不自由な体の松谷さんが「原爆症認定」をめぐって、国を相手としてたたかた12年にわたるたたかいは完全に勝利したのです。この勝利は全国の被爆者と支援運動の勝利でもあります。この勝利は今たたかわれている「原爆症認定」をめぐる三つの原爆裁判の勝利へ大きな道を開くことになるでしょう。そして、被爆者と国民の新しい運動の出発点となるでしょう。
 日本の被爆者は原爆被害への国家補償を求めながら、同時に、「ふたたび同じ苦しみを誰にも味合わせてはならない」と願い、核兵器の即時廃絶を求めてきました。被爆者は多くの人々に原爆被害の実相を知ってもらうことこそが、核兵器廃絶への人々の力を引き出すことになるのだと信じています。証言者として、語り部として、体験記や写真や絵なども活かしながら、あらゆる機会を捉えて、国内はいうまでもなく、ヨーロッパやアメリカ、アジアやアフリカの国々にも出かけて、原爆の被害、被爆者の苦しみを語り、核兵器の廃絶を訴えてきました。特にこの数年、日本被団協は被爆者の心と目をもって作成された「人間と原爆展」パネル40枚セットの世界規模での普及と展示運動に取り組んでいます。
 いま被爆者が直面している大きな問題は、高齢化して、病弱にもなってきたことです。相互の助け合い、協力者を含めた相談活動も重要になってきています。とりわけ、被爆者の心と運動を引き継ぐ後継者を国の内外にどう作れるかということが大きな課題です。
 日本被団協は青年団や婦人団体、生活協同組合などの市民団体や宗教者、原水禁世界大会実行委員会などと「つたえよう ヒロシマ・ナガサキ」のよびかけを推進する、国内でのさまざまな共同行動を重ねつつ、昨年5月ハーグで開催された世界市民平和会議や、この5月にニューヨーク国連本部で開催されたNGOミレニアム・フォーラムに、被爆者を含めた共同代表団を送り、核兵器廃絶が緊急の課題であることを訴えてきました。  
 20世紀が生んだ人類最大の汚点というべき核兵器の開発と使用。人類との共存を認めるわけには行かないという核兵器廃絶の願いは、実現されないまま21世紀を迎えようとしています。しかし、被爆者は絶望はしていません、絶望することは人類の破滅に繋がることをあの日の広島と長崎が私たちに教えているからです。
 21世紀の早い時期に核兵器を廃絶する道筋を、今世紀中に確かなものするために果たすべき、核兵器の被害者としての責務への決意をのべ、最後に世界各地の核兵器による被害者との心からの連帯をよびかけて、私の報告とします。

 

反核平和運動・原水爆禁止世界大会

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