【反核平和運動・原水爆禁止世界大会】
原水爆禁止2000年世界大会 国際会議
カザフスタン 障害児施設「アルパミース」会員 レナータ・イズマイロワ
大会に参加されている友人のみなさん、こんにちは。 私は、レナータ・イズマイロワです。セミパラチンスク州、アヤグーズで生まれました。アヤグーズのまわりは、とても美しい広々とした草原です。そこには、以前、馬たちが自由に放牧され、誇り高いラクダたちが歩きまわり、トビが空高く流れるように飛んでいました。人々は、自然に完全にとけ込んで幸せに暮らしていました。 残念なことに、人々の幸せ、草原での生活は、核実験場の出現によって破壊されてしまいました。 1947年8月、ソビエト政府は、セミパラチンスク核実験場の建設を決定しました。核実験場が存在していた40年間のあいだに、約470回の爆発が行われました。核実験場では、核兵器、熱核兵器、水爆の実験が行われました。もっともたくさんの爆発が行われたのは、1964年から1989年の期間でした。 私は、1982年に生まれました。核実験場が私の運命に消し去りがたい傷跡を残したのは当然のことでした。 私は、核実験場の被害者です。 子どもの頃のことで一番よく覚えているのは、一人で家に残っていたことです。 他の子どもたちは、健康なこどもたちのために作られた幼稚園に通っていたのです。 冬の間は、日が早く沈みます。私は暗い中で横たわって、泣いていました。とても悲しくて、他の子供たちは遊んだり笑ったりしているのに、なぜ私はできないのかわかりませんでした。 成長するにつれ、自分の置かれた状況を認識するようになりました。学校のカリキュラムは自宅で終えたのです。先生たちは、私の家にやってきて、たくさんの面白いことを話してくれました。でも私はいつも、自分で学校に通いたいと思っていました。同じ年代の人たちを見ると、みんなと同じように街を歩いたり、図書館に通ったり、毎日の生活を楽しみたいと強く感じるのです。 実験場は私からこの全てを奪ったのです。 つらい運命ですが、私は人生を諦めたくありません!いい成績で学校を終えることができましたし、友達もいます。絵や詩を書いたり、動物を飼ったり、屋外で過ごすことが大好きです。 私は核兵器を製造して貯蔵することに賛成な人たちに聞きたいです。「私のような障害を持った子供がほしいですか?」と。 最後に、私にこの大会に参加する機会を与えて下さった皆さんに感謝します。 ご静聴ありがとうございました。
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