日本原水協、マーシャル・ロンゲラップ島民との連帯交流代表団の報告
—死の灰をあびたロンゲラップ島をはじめて訪れて
日本原水協は、マーシャル諸島に2001年1月7日から19日まで、ロンゲラップ島民との連帯・交流代表団を派遣しました。代表団は、現在放射能汚染除去作業が進むロンゲラップ環礁ロンゲラップ島を初めて視察し、汚染除去の問題点をさぐりました。首都のマジュロでは、島民への支援の一環であるロンゲラップ平和記念館(仮称)建設計画の旗揚げをし、新たにビキニなど被害環礁指導部との懇談。メジャットでのロンゲラップ島民への健康相談、被ばくの聞きとりなど、支援・連帯の活動をくり広げました。
文=土田弥生・日本原水協国際部
ロンゲラップ
マーシャル諸島の1月の海は荒く、風は強い。クワジェリン環礁のイバイ島から出発し、船におおいかぶさるような高い波に立ち向かって進み、はげしく揺られること18時間。代表団は、1954年3月1日の水爆実験で死の灰を浴びたロンゲラップ環礁をめざしました。翌日午前10時半頃、「ロンゲラップが見えたぞ!」の声に、みんな甲板にかけより、歓喜の声が上がりました。ロンゲラップ島は大きい、そして美しい。やしの木が生い茂り、心地よい風にそよいでいました。
汚染除去作業
ロンゲラップでは、島民を帰島させるための放射能の汚染除去作業が行われています。今年の3月をめどに、空港、ドックなど基礎工事の建設という第一段階が終わる予定です。現在、表面から土壌を8インチ(20.32cm)削り取り、そこに環礁の外海の岩盤と内海のリーフ(礁)を砕いたものを敷く作業が行われていました。海辺ではパワーシャベルが、陸上では、砕岩機やダンプカーがフル稼働していました。削りとった土壌は、空港の拡張に使われていました。
しかし、この作業が行われているのは、現在、ロンゲラップ島のほんの一部分にすぎません。植物のセシウムの摂取を防ぐためのカリウム肥料は、やしの木の根元のまわりに敷くだけというものでした。島全体の土壌を削りとるわけでもない、新しく敷くさんご礁の土も、ロンゲラップのまわりの海からとったもの。意外と簡単にすませている汚染除去作業に、本当にこれで大丈夫なのという疑問が生まれました。
ノエン島
ロンゲラップ滞在中の2日目、深刻な被害を受けた北部の島々の一つ、ノエン島に行きました。ロンゲラップ本島から船で片道2時間、人の住んだことがない、死の灰にさらされたままの島です。海の青さはさらに薄いブルー。汚染されていなければまさに地上の楽園ともいえる美しい島です。海鳥やヤシガニがたくさんいました。代表団は、うっそうと茂ったジャングルの中にはいって、残留放射能調査のための土壌のサンプリングを行いました。
ロンゲラップ島への帰り道、連なる北部の島々を見ながら、島民の生活を連想しました。環礁の豊富な魚と、各島でヤシガニ、海鳥、果実をとり、自然とともに暮らしてきた生活。その豊かな生活が核実験で台なしにされたのです。
環礁すべてをきれいに
島民の好物のヤシガニ。代表団もノエンの島で大きいヤシガニをつかまえ、味見(毒見)をしました。代表団一同「おいしい!」放射能の色も、においも味もしません。ロンゲラップに島民がもどってきたら、食べてはいけないと言われても、こんなおいしいもの食べないわけがありません。
ロンゲラップの工事現場監督のノエルによると、「先日、建設作業をしている若者が北部の島に行ってヤシガニをたくさん食べ、体内の放射線を測定するホールボディ・カウンターで測ったところ、値が一挙にはねあがった」そうです。この北部の島々の汚染除去については何の見通しもたっていません。
「アメリカはロンゲラップ本島の汚染除去が終わり島民が島に帰れば、これで終わりにしようとしているが、自分たちは、汚染除去の効果などを確認しながら、環礁全体がきれいになるまで粘り強く交渉を続ける」とロンゲラップ環礁自治体のジェームズ・マタヨシ首長は語りました。アメリカ政府に最後まで責任をとらせるために、国際的な監視が必要です。
ロンゲラップの白い教会
船でロンゲラップに近づくと、まず目に入るのが、白い教会。海の青さとヤシの緑に、白のコントラストが美しい。ブラボー水爆実験の生き証人であり、ここで島民が暮らしていた頃は、島民が集う場所でした。放射能の被害に苦しんだ末、ロンゲラップを捨てるという苦渋の選択をしたのも、この教会でした。
1999年に25年ぶりにロンゲラップ島を訪れた、アバッカ・マディソン上院議員は、教会の中に立ち、悲しみとともに、一つの小さな希望を見つけました。核実験の被害に苦しみ死んでいった島民をよみがえらせ、島民の苦難とたたかいの歴史、核兵器廃絶の願いを子供たちに伝えるため、ロンゲラップ平和記念館を設立するという夢でした。
記念館は島民の尊厳の回復
ロンゲラップ島民支援の一環であるこの計画をすすめるため、代表団はアバッカさんを中心に、ロンゲラップ環礁自治体首長、酋長、自治体議員など指導部と懇談しました。この話し合いは、ラジオや新聞を通じて、マーシャルで初めて記念館設立を発表し、協力や支援を訴える場となりました。この計画への首都マジュロでの反響は大きく、他の被害をうけた環礁自治体指導部、マーシャル大学の核問題研究所などから、ともにやりたいとの申し出がありました。また、健康相談活動や被ばくの聞き取り調査で訪れた、島民の避難先であるメジャットで、記念館への大きな支持が広がっていました。
メジャットに住むフレッド・アンジャイン(42歳)さん。ブラボー実験のとき、ロンゲラップの村長をしていたジョン・アンジャインさんの息子です。1957年にアメリカがロンゲラップの安全宣言をした後、島民は帰島。1958年に生まれました。3歳のときから、足が悪くなり、両足、腰のところに大きな手術跡があり、現在も足をひきずって歩いています。「あなたにとってロンゲラップは?」との質問に「地獄」と答えました。「ロンゲラップでの生活はメチャメチャにされ、島を捨てざるをえなかった。そして、これから先もいつ、どのようになるのかわからない。おまけに、ロンゲラップでの思い出もだんだん薄れていく。」その彼が「記念館がつくられることは本当にうれしい。ロンゲラップで何が起こったか、島民がどんな苦しみをなめたか、記憶にとどめることができる。200%この計画を支持する」と、笑顔で答えました。「記念館の設立によって、被害者自身を癒し、自分たちも同じ人間であるという人間の尊厳の回復をしたい。彼らの苦しみを人々に知ってもらうことで、人間が人間を核の被害にさらすようなことはしてはいけないということを伝えたい」と言った、アバッカさんの言葉が思い起こされました。
補償を求めるたたかい
アメリカ政府とマーシャル諸島共和国の間で結ばれている自由連合協定が今年7月で期限切れを迎えます。マーシャル政府は核実験の被害へのこれまでの補償は不十分として、2000年9月、アメリカ議会に新たな補償要求を行いました。その中で、核実験被害法廷(NCT)が裁定する個人の健康被害への補償として、新たに26900万ドルを要求しています。同時に、被害島とされるビキニ、ロンゲラップ、エニウェトク、ウトリックも、自分たちの被害を全面的に再評価し、これにアメリカが応じなければ、アメリカの裁判所に訴える構えです。
代表団は今回の訪問で、初めて、ビキニ、ウトリック、アイルック環礁の指導部と懇談しました。日本原水協への期待は高く、ロンゲラップのように今後関係を持ちたいという要望が出されました。はるかかなたに広がる海にへだてられた日本とマーシャル諸島。ビキニ被災という共通の歴史と核兵器はいらないとの共通の思いをもつ二つの国のたたかいが、より強く結ばれた瞬間でした。
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