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被爆者援護連帯

世界の被ばく者の証言・資料


アメリカ合衆国

ハーグ平和のためのアピール
1999年5月 オランダ、ハーグ
世界の被ばく者セッション

ラグーナ・アコマ連合
ドロシー・パーレイ(ウラン鉱山放射線被害者)



〔注:ドロシー・パーレイさんは、会議の直前に亡くなられました。会議には、代わりに娘のカーレッタ・ガルシアさんが出席し、原稿を代読・発言しました。〕

  わたしはドロシー・パーレイと申します。アメリカ先住民のプエブロ・インディアンで、アメリカ南西部にあるニューメキシコと呼ばれる所に住んでいます。

  私はインディアン保留地に住んでいますが、これは、アメリカ政府が私の祖先を強制的に住まわせた場所です。初期のヨーロッパからの移住者は、私たちを私たちの土地から追い出し、そこを自分のものだと主張しました。私たちは最終的に、通常は人が住めない土地へと追いやられましたが、当時政府はこの土地に豊富な天然資源があることを知りませんでした。私が暮らす地域は、ラグーナ・プエブロといいます。ここにはかつて、世界最大の露天掘りウラン鉱山がありました。

  1935年この鉱山の操業が開始されたことは、私たち貧しい先住民にとって神の恵みのようなできごとでした。私たちはつねに貧しく、その水準は、政府が先住民の水準と定めたもののように思えました。私たちは稼いだお金で家族を養い、はじめて自立することができました。そう、その頃は良かったのです。けれども、政府は、この鉱山が危険なものであり、私たちの健康を脅かす可能性があるとの警告をおこないませんでした。死と破壊をもたらすものであることも私たちに 言わなかったのです。

  危険にさらされたのは、体だけではありませんでした。ウラン鉱脈を露出させるために使われた爆薬のせいで、私たちの住居も安全ではなくなりました。私たちの村は鉱山区域からほんの10 00フィート(約300m)しか離れていませんでした。硫黄など爆薬に使われている化合物が臭うほどでした。爆発作業がおこなわれるのはたいてい昼食か夕食のときでした。収穫の季節になると、村の女たちが干した野菜や果物にはうっすらとほこりが積もりました。私たちは、有毒だとは知らずに、ただ洗い流しただけでした。

  1975年、私はアナコンダ・ウラン鉱山で働きはじめました。母子家庭であり、娘を育てなければならなかったのです。私はトラックの運転手として雇われ、高濃度ウラン鉱石を粉砕場へ運びました。大量の放射線にさらされているとは知りませんでした。私たちは、強い放射能をもつ鉱石の上に座ってお昼を食べていたのです。安全のための情報や防護器具は一切あたえられませんでした。

  鉱山で働いていたあいだ、私は一度も危険を認識せず、放射線の危険な影響について一言のアドバイスも受けませんでした。会社は、このウランが大量破壊兵器の製造に使われることなど一度たりとして知らせませんでした。私たちにまったく何の情報も与えなかったのです。つい最近、私たちの部族は、政府と鉱山会社がウラン鉱石の発掘がもたらす危険を知っていたことを知りました。すでに鉱山が開かれた1935年の時点で、ウラン鉱石への被ばくを最小限に押さえよと警告する科学者の文書が存在していたのです。この文書には、2週間つづけて被ばくすると危険であると書かれていました。私は、鉱山で8年働きました。村の中には鉱山で30年働いた人もいます。

  これは13年前のことです。こんにち、ラグーナ保留区の住民は、非常に多くの放射線障害に苦しんでいます。精神的、身体的異常も増加しています。がん発生率も急速に増えています。私自身もがんと6年間たたかっており、3回にわたり高照射量の化学療法を受けてきました。いまのところは、ふたたび緩解期にあります。私は、調子の良い時にはできるだけ旅行をするようにしています。放射線のある所はきわめて危険なことを知らせる努力をしているのです。起こり得る例として私自身と家族の話をしています。

  つい最近、娘の夫が、まれにしか起こらない皮膚がんの診断を受けました。ウラン鉱山で働いたことがないにもかかわらず、彼はさまざまな形で被ばくしていたのです。彼の兄は地下坑道で働いていたため、彼の衣服についていたほこりが家を汚染しました。彼の家は、高濃度の放射性鉱石を粉砕場に運ぶ鉄道の沿線にありました。60マイル(約96km)以上にわたるその鉄道の沿線は、いまだ高度に汚染されています。これから地域の住民は、がんをはじめまれにしか起こらない病気にかかることが予測されます。私は、この美しく神聖な地にこのような惨害が二度と起こらなよう毎日祈っています。

  私の最大の望みは、母なる大地を可能な限り健康に保つ必要に人間が気づくことです。世の中には太陽エネルギーや風力、水力を利用した発電というよりよい方法が存在します。これらは、私たちの「偉大なる魂」が人間に与えた自然の力です。私たちはこうした力を利用する運命にあるのです。そうすれば、健康で平和な生活をおくることができます。

  私は、核兵器は要らないと確信しています。戦争で勝つ者はなく、あるのは犠牲者だけです。世界には、これ以上の死も破壊もいりません。平和と調和によってしか生きる道はありません。私の話を聞いた人が、自分や愛する者のためにより良い決定をするきっかけ得ることができれば幸いです。みなさんの長寿とご無事ご多幸を祈っております。



世界の被ばく者の証言・資料


アメリカ合衆国

ハーグ平和のためのアピール
1999年5月 オランダ、ハーグ
世界の被ばく者セッション

ネバダ核実験場風下地区住民
クローディア・ピーターソン


  みなさんの前で、私は、感謝の思いと謙虚な気持ちでおります。 平和と正義をもとめるこの会議に参加する機会を与えていただきありがとうございました。

  私は、アメリカ政府が1000以上の核装置を実験したネバダ核実験場の風下に位置するユタ州南部から来ました。

  私は、恵まれた環境にあると信じて育ちました。アメリカ政府は、すべては安全で何の危険もないと信じさせるため、たくさんの方法をとりました。生活が順調なときは、恐ろしいことが起こりうるなどとは考えないものです。しかし、核実験場の風下に住む人たちは、実験開始後まもなく、不幸が現実となったことに気づきました。アメリカ政府がいかなる過失もないと否定をつづけるなか、私たちの目の前で、愛する者が驚くほどの速さで苦しみ死んでいったのでした。

  私の夫の父はウラン鉱夫で、適切な換気がなされていない坑道で働きつづけた結果、若くして肺ガンで亡くなりました。いまでは、解禁された文書から、原爆製造にウランが必要だったため、ラドンガスへの被ばくにより起こる病気については鉱夫に知らせない、という意図的な決定をアメリカ政府がおこなっていたことが判明しています。

  私の父は、レモン大の脳腫瘍が摘出された半年後に亡くなりました。このとき、かかりつけの医者は、この腫瘍が、私たちの家に降り注いだ核実験から生じた死の灰によるものであることを示唆していました。

  父の死はつらいものだったとはいえ、この後につづく悲しみに比べればまだましでした。私の末娘のべサニーは、3歳にして悪性の神経芽細胞種というがんの診断を下されました。私たちが見守るなか、この素晴らしいほど活発で好奇心に満ちた娘は、生きるために本当にたくさんのたたかいを乗り越えていきました。しかし、3年におよぶ化学療法、放射線治療、そして手術のすえ、ベサニーはたたかいに敗れました。苦しみが終わることを祈るほか何もしてあげられないという戦慄にふるえながら、わたしたちはベサニーを抱き、その腕の中でベサニーは死んでいきました。

  ベサニーが亡くなるちょうど一月前、私のただ一人の姉キャシーが、皮膚がんため36歳で亡くなりました。彼女は、6人の幼い子どもと夫を残していったのです。愛するものの死を見ることはあまりつらく、私も悲しみを終わらせるために死を願いました。核の時代は物理的に何千人も殺しただけでなく、本当に多くの人から素朴さを奪ったのです。

  私たちのなかには、もう体力的には丈夫ではない者もいるかもしれません。しかし、失ったものの大きさによって、私たちは強くなり、平和がなぜこんなにも大切であるか理解できるようになりました。

  私は、コソボの母親や父親のように難民キャンプでわが子を探すというつらい経験をしたことはありません。広島や長崎の母親や父親のように、わが子の体を探し求め、真っ黒に焼かれた道をさまよわなくてはならなかったということもありません。しかし、アメリカ政府はこれと同様のことを、うそと隠ぺいと欺きにより、秘密裏に、機密を保持するやり方で、自国の国民にたいしおこなったのです。

  国際社会の一員として、友人、隣人、愛するものが苦しみ死に逝くのを、ただ見ていられるでしょうか。毎日テレビで見る惨事をいったいどう正当化しろというのでしょう。他人の苦しみに背を向け無視する者は、このような苦しみを引き起こしている者と変りません。 

  私たちすべてが、沈黙を破ることにより、政府の政策を変えさせることができるのです。沈黙は、権力をもつ者がさらに悪事をはたらくことを許します。今日ここに参加した理由が何であれ、私たちは未来を変えられること、私たちすべてが核の時代の犠牲者だということを知らなくてはなりません。力を合わせて生き続ける決意を固めようではありませんか。



世界の被ばく者の証言・資料


アメリカ合衆国

ハーグ平和のためのアピール
1999年5月 オランダ、ハーグ
世界の被ばく者セッション

原爆復員兵士連盟
アンソニー・ガリスコ


  原爆復員兵士連盟(AAV)の会長を務めています、アンソニー・ガリスコと申します。復員兵士連盟を代表し、発言する機会をあたえて下さったこと、この会議の実現に向け奮闘されてこられた多くの方々に感謝を述べるものです。

  わたしたちの連盟は、おもに、兵役に就いていたあいだ米軍の実験的核兵器爆発への参加を命じられた元兵士から構成されています。米軍によれば、1945年から1963年まで、何万もの米軍兵士がアメリカの核爆発計画に直接参加しました。このなかには、罪のない男、女、こどもにたいする不必要な原爆投下の直後、広島と長崎に入り汚染除去作業をおこなった4万人の兵士もふくまれます。

  米軍が、広島と長崎の上空で原爆を炸裂させたのは1945年です。わたしたちの連盟、またそのほかにもアメリカの多くの復員兵士たちは、広島と長崎の人びとは、米軍が目的を果たすための最初の核兵器実験動物にされたと考えています。第2次世界大戦中、太平洋で兵役に就いていたわたしたちは、沖縄がアメリカの手に落ちたときには、(その後、実際1945年6月に米軍は沖縄を占領)、戦争は終わると聞いていましたし、そう理解していました。この話はまた別の機会にでもしたいと思います。

  アメリカの原爆復員兵士たちは、わたしたちの兄弟姉妹である日本の被爆者のように、核兵器による大虐殺は経験していません。しかし、わたしたちの多くは実験のとき爆心から非常に近い距離にいました。軍部は、わたしたち兵士がすこしでも爆心の近くへと接近するよう迫ったのです。すでに1946年8月の時点で、「クロスロード作戦」との暗号がつけられた米海軍最初の核実験において、米軍兵士を使う決定がなされていました。暗号名ベイカーという2発目の(水中)核爆発のあと、この作戦は完全に統制がきかなくなり、作戦は早急に狂乱的な状況のなか中止されました。

  その後何年もたった1983年のこと、わたしたち連盟のメンバーである研究者が、当時最高機密であった文書を発見しました。この文書には、クロスロード作戦が、計画されていた最後の3発目の実験をまえに中止された理由が述べられていました。

  あらゆる点において、原爆兵士たちは、こんにちわたしたちすべてを人質にしている、より協力で致死的な核兵器を開発するための、核の時代のいけにえに供されたのでした。軍がわたしたちを危害にさらすなど考えもしないことでした。しかしわたしたちは間違っていました。作戦に参加したわたしたち兵士は、第3次世界大戦がおこればこのような様相を呈するのであろう、目の前で証明された明白ながらも信じがたい光景を忘れることはありません。日本の被爆者や核実験に参加した兵士のほかに、24キロトンの核爆発から2マイル(訳注:約3.2キロメートル)地点にいることがどんなことか、理解できる人はそう多くないでしょう。

  火のあらしを目撃し、途方もない熱と風を感じました。いちどに100もの雷雨がおきたようなとどろきがつづき、その猛烈な轟音は信じられないほどでした。容赦なく体をのみこみ、しめつける衝撃に押し潰され死んでしまいそうで身がすくみました。わたしたちの脳裏には、核兵器が跡にのこす冒涜的な惨害が焼き付いています。

  これと同じ頃の1946年8月に作成されたある最高機密文書からは、クロスロード作戦2発目(ベイカー)の実験のあと、ビキニ環礁の礁湖に停泊する旗艦のなかで開かれた秘密会議の場で、ある高官が作成した声明が明らかになりました。この声明は、「われわれは、クロスロード参加者がクロスロード作戦放射線監視部門に訴える権利や事実が承認される事のないよう、あらゆる予防措置を講じなくてはならない」としています。言い換えれば、「罪のドアにかんぬきを掛け、臭いものに蓋をせよ」ということです。

  クロスロード作戦に4万2千の兵士を使うという決定は、何万もの原爆復員兵士にじりじりとおとずれる苦痛の死刑宣告でした。1960年代から1980年代にかけ、たくさんの原爆兵士たちが死んでいきました。ガンをはじめ、病気にかかる原爆兵士の割合は異常なほどでした。1983年の初め、わたしたちは再度連邦議会にはたらきかけ、わたしたちとその子どもに起こっている事態を突きとめるため厳密な疫学調査をおこなうよう要請しました。答は、そのような調査は必要がなく、財政上も不可能であるというものでした。

  復員軍人庁の病院に助けをもとめましたが、相手にしてくれませんでした。締め出されたとでも言いましょう。1984年のあるとき、原爆復員兵士が提出した公文書をシュレッダーにかけ焼却したという理由で、サンフランシスコにある復員軍人庁病院に有罪判決が下されました。復員軍人庁の制度による医療をうけるため、自分たちの主張を裏付ける資料として、原爆復員兵士は公文書をこの病院に送っていたのでした。

  1984年、必死の思いから、また原爆復員兵士のために政府が厳密な疫学調査などすることなど絶対にないと認識していたわたしたちは、ワシントンDCの事務所を拠点に独自の調査をおこなう道を選びました。

  調査の結果、わたしたちは政府がすでに知っていた事を知りました。原爆復員兵士の53%以上に染色体異常があり、それが、先天的異常の形でこどもたちに遺伝していました。原爆復員兵士の平均死亡年齢は47歳でした。このあとも、核爆発に兵士をさらす作戦は17年つづけられました。この間、核兵器が威力をますいっぽう、何万もの兵士が被ばく者となり、死んでいきました。

  1946年の大失敗を国民の目から隠したい軍部は、国防総省を通し沈黙の陰謀をめぐらせました。1963年、ケネディーが大統領のとき、(部分的核実験停止条約により)核実験による虐殺行為が終り、莫大な金を産む金庫から空中に打ち上げられ、腐敗した核兵器軍産複合体へと注ぎ込まれていた何十億ドルもの資金の流れも止まりました。

アンソニー・ガリスコ
第二次世界大戦、朝鮮戦争に参加
クロスロード作戦中は、揚陸艦388に乗船

連絡先:
Alliance of Atomic Veterans
P.O.Box 32, Topock, Arizona 86436, USA
Phone: (520) 768-6623
E-mail: aav1@ctaz.com



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